捕虜と通訳 (小林 一雄) (20)
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編集者
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捕虜たちと泣き笑いのカケひき―虚々実々の所内・その3
さて〝かけ引き″といえば、私も相手の捕虜たちも、お互いに相手方の情報を知りたい。だからよく使った手は、タバコや薬をプレゼントし、仲良しのしるしを提供してそれぞれの情報をとったものだ。
一方では、捕虜同士の間でも特定の捕虜をみんなでマークしていた。最年少のエルモア二等兵(ELMORE) もマークされていた人物だった。神経衰弱症でつねにイライラし、仲間からはずれ、それが余計に彼を孤独にし、みんなの動静を逆に盗み見しながら暮らしているふうだった。こうした彼は、だから他の捕虜たちの動静には詳しかった。彼らだけの秘密もエルモア二等兵は意外によく知っていた。だから彼を手なづけ、好きな物を与えて捕虜の動きや考え方を事前にキャッチすることもしばしばだった。彼は病棟の雑役を担当していた。
もちろん、捕虜も日本側から常に何かを知ろうとしていた。「捕虜は、いつ日本軍に殺されるかも知れない身だ。拘束された人間は、いつも相手に疑惑心で迫っているものだ」とは、当時の捕虜たちから聞かされたことばだ。その手段、つまり日本軍から情報をとるために、故意に彼らが所内で私を食事に誘っていた。もちろん、故意ばかりでなく、本当の善意で誘ってくれたことが多かったと信じているが、雑談中に何か暗示することばがないか、どうか-例えば戦況はどのように進んでいるのか、捕虜をどのように適しようとするのか、等々。
終戦の年、昭和二十年初めには、こんなこともあった。ある日、大型のアメリカ空軍のB24爆撃機が収容所のはるか上空に飛来した。「日本の爆撃機がアメリカ軍基地へ爆撃に行くところだ」-私はわざと堂々と捕虜たちにこういった。捕虜たちもそれを信じて 「日本には素晴らしい飛行機がたくさんあるんだなあ」と感心することしきり。しかし、それも束の間、日本の戦闘機 (通称・赤トンボ) が迎撃に出たが、すぐB24に撃墜され、黒煙を出しながら墜落していった。赤い日の丸のマークもハッキリ見えた。「小林さんはウソをいった。あれはアメリカの爆撃機だ。わがアメリカ空軍は日本の本土にまでやってくるはどの戦況なんだ」I結局、不利な戦況をかくそうとした私の態度は、一度に逆転し、現実の爆撃機によって彼らは〝有利なアメリカ軍″の実情を分析していた。彼らは、日本軍側が捕虜に対し、つねに日本有利を〝故意″に知らせようとしていたことを、この爆撃機事件で知ったようだった。
捕虜たちの情報源は、所外の軍需工場で働く場にもあった。つまり、当時、こうした国内の軍需工場には徴用工という名で第三国の人びとが数多く働いていた。彼ら第三国の人びとから捕虜たちは意外と多くの情報を手に入れていたようだった。例えば日本の新聞をもらってその掲載写真などで現状を分析したり、食事が日ごとに悪く粗末になっていくようすを知り、ひそかに「全員、元気でがんばろう。必ず本国へ帰る日がやってくるんだから…」と励まし合っていたようだった。それを知っていたからこそ、所内では意外と明るく、彼らの表情にかげりが少なかった原因の一つだったのではないか、とはいま思い出す感じである。
さて〝かけ引き″といえば、私も相手の捕虜たちも、お互いに相手方の情報を知りたい。だからよく使った手は、タバコや薬をプレゼントし、仲良しのしるしを提供してそれぞれの情報をとったものだ。
一方では、捕虜同士の間でも特定の捕虜をみんなでマークしていた。最年少のエルモア二等兵(ELMORE) もマークされていた人物だった。神経衰弱症でつねにイライラし、仲間からはずれ、それが余計に彼を孤独にし、みんなの動静を逆に盗み見しながら暮らしているふうだった。こうした彼は、だから他の捕虜たちの動静には詳しかった。彼らだけの秘密もエルモア二等兵は意外によく知っていた。だから彼を手なづけ、好きな物を与えて捕虜の動きや考え方を事前にキャッチすることもしばしばだった。彼は病棟の雑役を担当していた。
もちろん、捕虜も日本側から常に何かを知ろうとしていた。「捕虜は、いつ日本軍に殺されるかも知れない身だ。拘束された人間は、いつも相手に疑惑心で迫っているものだ」とは、当時の捕虜たちから聞かされたことばだ。その手段、つまり日本軍から情報をとるために、故意に彼らが所内で私を食事に誘っていた。もちろん、故意ばかりでなく、本当の善意で誘ってくれたことが多かったと信じているが、雑談中に何か暗示することばがないか、どうか-例えば戦況はどのように進んでいるのか、捕虜をどのように適しようとするのか、等々。
終戦の年、昭和二十年初めには、こんなこともあった。ある日、大型のアメリカ空軍のB24爆撃機が収容所のはるか上空に飛来した。「日本の爆撃機がアメリカ軍基地へ爆撃に行くところだ」-私はわざと堂々と捕虜たちにこういった。捕虜たちもそれを信じて 「日本には素晴らしい飛行機がたくさんあるんだなあ」と感心することしきり。しかし、それも束の間、日本の戦闘機 (通称・赤トンボ) が迎撃に出たが、すぐB24に撃墜され、黒煙を出しながら墜落していった。赤い日の丸のマークもハッキリ見えた。「小林さんはウソをいった。あれはアメリカの爆撃機だ。わがアメリカ空軍は日本の本土にまでやってくるはどの戦況なんだ」I結局、不利な戦況をかくそうとした私の態度は、一度に逆転し、現実の爆撃機によって彼らは〝有利なアメリカ軍″の実情を分析していた。彼らは、日本軍側が捕虜に対し、つねに日本有利を〝故意″に知らせようとしていたことを、この爆撃機事件で知ったようだった。
捕虜たちの情報源は、所外の軍需工場で働く場にもあった。つまり、当時、こうした国内の軍需工場には徴用工という名で第三国の人びとが数多く働いていた。彼ら第三国の人びとから捕虜たちは意外と多くの情報を手に入れていたようだった。例えば日本の新聞をもらってその掲載写真などで現状を分析したり、食事が日ごとに悪く粗末になっていくようすを知り、ひそかに「全員、元気でがんばろう。必ず本国へ帰る日がやってくるんだから…」と励まし合っていたようだった。それを知っていたからこそ、所内では意外と明るく、彼らの表情にかげりが少なかった原因の一つだったのではないか、とはいま思い出す感じである。