捕虜と通訳 (小林 一雄) (12)
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編集者
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くそ度胸で通訳奮闘す・その4
厨房《ちゅうぼう=調理場》棟にも出入りするようになった。炊事班長のエドワード・コイル軍曹 (EDWARD・COYLE) ら十人近くの炊事兵が、所外の労役作業を免除され専任でアメリカ兵捕虜全員の食事の世話をしていた。
コイル軍曹ら炊事班は、日用、食料品などを買いに時々、通訳つきで町に出る。店の人との会話で覚えた片言の日本語を使って買い物をするので、少なくとも他の一般捕虜よりは日本語を話すことができた。分所の管理・運営担当の峰本善成・軍曹 (奈良市東大路町八二四) からも日本語を教えてもらい、かなりうまく話していた。
彼らと親しくなり、食事に誘われ、よく厨房棟へ通った。しかし彼らも私との雑談の中で何か新しい情報を知ろうと必死だったように思えた。もちろん、素知らぬ顔で私はしゃべり、聞き、笑って過ごしたものだ。時々、窓越しにチラリ、チラリと事務所のある管理棟の方を見て、日本人のようすをうかがっていた態度をいま思い出す。その表情は絶えず、日本軍のようすを知り、自分らのこんごの運命を占う資料にしようと考えていたに違いない。しかし、表面は、ひょうきんで、とくに私にはどんな些細《ささい》なことでも話し、訴え、逆に聞く態度だった。友好的だった。日米の女性の違いについてもよく冗談をいって笑わせたものだ。
炊事班のナンバー2、エンライト伍長 (ENLIGHT) ともよく話した。「平和になったら、あなたもアメリカに来ていっしょに楽しく家族同士で話し合いたいですね」「平和になったらね。いまはお互い戦争中で敵と味方に分かれているんだから、そんな考えをしようにも無理だ。でも平和になったらぜひそうしたいね」当時、勝者の立場で話をしていたので、弱者の彼らへの思いやりは私自身、欠けていたかも知れない。
"平和″ということばを使ったエンライト伍長の胸の内を考えると、虜(とりこ)となり不自由な生活を強いられている立場にある者にとって、平和をいかに切望し、一刻も早く、自由で、伸び伸びした暮らしにもどりたいか、当然、出てくる、切実なことばだったに違いない。
町に買い出しに行った時、一般の人は彼らに冷い眼が多かった。しかし行きつけの店では必ず「こんにちは、ママさん」とていねいに、明るいあいさつから始まった。最初はびっくりしていた店の人たちも、慣れるにつれて「元気ですか?」「今日は何を買ってくれますか?」そして 「キャンプにいる人にもよろしくね」と会話を交わし、ひとときか〝友情〟がお互いの間に湧《わ》き、異常な時期の、短い〝国際交流″が、大阪・泉州の片田舎で行われていた。いま思い出しても、あの風景はなつかしい。収容所暮らしの彼ら捕虜にとって、厳しい監視の下、明日の生命を握られている立場からすれば、所内での日本人、とくに私のような若僧で、一見、なんでもしゃべり、交際してくれる人間、所外で付き合う日本人の誰彼《だれかれ》なく、貴重な情報源であり、一方では気をまざらわせてくれる、よき人間だったのだろう。
確かに、彼ら捕虜に対する日本の衛兵、監視兵はいつもきびしい態度、謹厳実直《きんげんじっちょく=慎み深く厳格で誠実》な態度で臨んでいた。バラック棟のアメリカ当番兵が 「異常ありません」ということばを言い遅れると、すかさず 「もっとテキパキと手早く報告せよ」 といったぐあい。ちょっとでも棟内の寝具や書籍類が散らばっていると、厳重な注意を与える。通訳の私がそのまま、正直に伝えるのだが、私は必ず「集団生活を楽しく、規律あるものにするために必要なことだから、お互い、よく理解して暮らしていこう」とつけ加えることを忘れなかった。
厨房《ちゅうぼう=調理場》棟にも出入りするようになった。炊事班長のエドワード・コイル軍曹 (EDWARD・COYLE) ら十人近くの炊事兵が、所外の労役作業を免除され専任でアメリカ兵捕虜全員の食事の世話をしていた。
コイル軍曹ら炊事班は、日用、食料品などを買いに時々、通訳つきで町に出る。店の人との会話で覚えた片言の日本語を使って買い物をするので、少なくとも他の一般捕虜よりは日本語を話すことができた。分所の管理・運営担当の峰本善成・軍曹 (奈良市東大路町八二四) からも日本語を教えてもらい、かなりうまく話していた。
彼らと親しくなり、食事に誘われ、よく厨房棟へ通った。しかし彼らも私との雑談の中で何か新しい情報を知ろうと必死だったように思えた。もちろん、素知らぬ顔で私はしゃべり、聞き、笑って過ごしたものだ。時々、窓越しにチラリ、チラリと事務所のある管理棟の方を見て、日本人のようすをうかがっていた態度をいま思い出す。その表情は絶えず、日本軍のようすを知り、自分らのこんごの運命を占う資料にしようと考えていたに違いない。しかし、表面は、ひょうきんで、とくに私にはどんな些細《ささい》なことでも話し、訴え、逆に聞く態度だった。友好的だった。日米の女性の違いについてもよく冗談をいって笑わせたものだ。
炊事班のナンバー2、エンライト伍長 (ENLIGHT) ともよく話した。「平和になったら、あなたもアメリカに来ていっしょに楽しく家族同士で話し合いたいですね」「平和になったらね。いまはお互い戦争中で敵と味方に分かれているんだから、そんな考えをしようにも無理だ。でも平和になったらぜひそうしたいね」当時、勝者の立場で話をしていたので、弱者の彼らへの思いやりは私自身、欠けていたかも知れない。
"平和″ということばを使ったエンライト伍長の胸の内を考えると、虜(とりこ)となり不自由な生活を強いられている立場にある者にとって、平和をいかに切望し、一刻も早く、自由で、伸び伸びした暮らしにもどりたいか、当然、出てくる、切実なことばだったに違いない。
町に買い出しに行った時、一般の人は彼らに冷い眼が多かった。しかし行きつけの店では必ず「こんにちは、ママさん」とていねいに、明るいあいさつから始まった。最初はびっくりしていた店の人たちも、慣れるにつれて「元気ですか?」「今日は何を買ってくれますか?」そして 「キャンプにいる人にもよろしくね」と会話を交わし、ひとときか〝友情〟がお互いの間に湧《わ》き、異常な時期の、短い〝国際交流″が、大阪・泉州の片田舎で行われていた。いま思い出しても、あの風景はなつかしい。収容所暮らしの彼ら捕虜にとって、厳しい監視の下、明日の生命を握られている立場からすれば、所内での日本人、とくに私のような若僧で、一見、なんでもしゃべり、交際してくれる人間、所外で付き合う日本人の誰彼《だれかれ》なく、貴重な情報源であり、一方では気をまざらわせてくれる、よき人間だったのだろう。
確かに、彼ら捕虜に対する日本の衛兵、監視兵はいつもきびしい態度、謹厳実直《きんげんじっちょく=慎み深く厳格で誠実》な態度で臨んでいた。バラック棟のアメリカ当番兵が 「異常ありません」ということばを言い遅れると、すかさず 「もっとテキパキと手早く報告せよ」 といったぐあい。ちょっとでも棟内の寝具や書籍類が散らばっていると、厳重な注意を与える。通訳の私がそのまま、正直に伝えるのだが、私は必ず「集団生活を楽しく、規律あるものにするために必要なことだから、お互い、よく理解して暮らしていこう」とつけ加えることを忘れなかった。