捕虜と通訳 (小林 一雄) (4)
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編集者
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生涯の扉を開く・その2
いま考えると、高商時代のESSとの出会いを、倉西先生が知っていたのがこうさせたのだろうか。
当時、多奈川分所の捕虜たちはアメリカ軍三百人、オランダ軍六十人。すべてが民間の建設土木会社「飛島組」が軍から請け負っている軍需工場の建設工事に狩り出され、労役に従事していた。私も彼らの通訳ということで即日、飛島組の社員として採用され、勤務地は多奈川分所。就職初日、恐る恐る鉄条網の張りめぐらされた板塀囲いの収容所の門をたたいた。
陸軍の衛兵が威丈高に用件を聞いた。「倉西中尉に面会にきた」といっても、すぐには通してくれない。イガグリ頭の小さな体躯《たいく=からだ》の私が分所の陸軍最高責任者に会いに来たといっても、信用してくれないのが当たり前だろう。それでも、連絡の末、やっと中に入れてくれた。倉西中尉に会った時に初めて笑顔が出た。ほっとした。軍隊にも拒まれたひ弱な若僧が、捕虜とはいえ、弾丸飛びかう第一線をかいくぐった兵士たちの集団収容所の中に初めて入ったのだから無理からぬことだった。
ここの捕虜は、戦争史のなかでも特筆される、あの、フィリピンの〝バターン死の行進″を体験した将兵、コレヒドール島の生死を分けた激戦のさい捕えられた将兵らで、当時の敵将マッヵーサー直属軍団の歴戦の戦士だった。まだ見ぬ敵国兵への興味が段々と湧《わ》き、倉西分所長の指示もなかば、うわの空。私の任務は、捕虜管理に当たる収容所事務所と捕虜たちとの連絡係。「相互の意思疎通を円活にして軍需産業に役立つよう仕向けることと、それとなしに捕虜の動静を観察する、いわば情報・宣撫《せんぶ=上意を伝えて人心を安定させる》を担当すること」
倉西分所長のきびきびした口調と動作には、かつて教壇で見た英語教師の面影は見出せない感じだった。しかし「捕虜として国際法のワクをはずれた接し方はしないように。戦時中とはいえ日本人の持つ文化を損うことにもなるのだから…」という静かな口調には、教師としての香りを嗅《か》ぎ出せた感じで、あらためて〝倉西中尉〃を〝倉西先生〃とダブらせて見出せた。その柔和な眼が、私の心を安堵(あんど)させてくれたようだった。とはいえ、収容所は捕虜の管理と保護が任務だが、鬼畜米英を叫ぶ戦争の真っ最中に、アメリカ軍捕虜を保護する仕事とは…心の中は複雑だった。
多奈川分所は約一万平方メートルの敷地内に、五十人ぐらいが一棟に起居するバラック小屋十棟、このほかに同じバラック建ての病棟と大きな炊事棟、浴場棟、倉庫、靴修理棟、別に日本軍の管理事務所のある管理棟、唯一か所の衛門と衛兵詰所、大きな防空壕《ごう》、それに大きなグラウンド。収容所の周囲は高い板囲いでその上に有刺鉄線が高く張りめぐらされ、板囲いの四隅には高い監視塔が設置されていた。各起居棟の一部には将校専用の特別室があり、下士官と兵士は同じ場所。どの棟も真ん中の通路をはさんで左右にワラを敷きその上に畳をのせて毛布でごろ寝というような長い部屋が上下二段に並んでいた。冬は薪やオガクズでドラムかんストーブをたき暖をとるという、バラック建てそのものだった。
監視護衛は、和歌山の歩兵連隊から約十人が一週間ずつ交代で当たった。管理事務所には倉西分所長のほか庶務、経理担当軍曹二人、衛生兵一人、民間人の通訳二人、傷い軍人《=戦場で傷を負った軍人》上がりの軍属《=軍に所属して軍人でない文官》十人が常時、勤めていた。このほか日本人管理棟の掃除、炊事係の中年婦人三人が雇われていた。私は毎日、堺市湊の自宅から配給米やサツマイモを中心にした手弁当を下げ、南海電車で片道約五十分の通勤。職務の指示を受けたその日は、そのまま帰宅したが、まだ見ぬ外国軍人、敵国兵とこれから毎日、接して話し、通訳するという〝仲介業″に不安と興味半々の何ともいえぬ奇妙な気持ちから、その日はなかなか眠れなかった思い出を、いまでもハッキリ覚えている。
それでも「さあ、あすから想像の世界にしかなかった異文化との遭遇が現実のものとなる。思いきってぶつかるしかない」と自分にいいきかせ、やっと深い眠りにつくことができた。とはいえ、英語の勉強ができる興味と、敵国人との対話。しかもわれわれ日本人が保護している敵国軍捕虜に直接、接する日が明日からやってくる、という複雑な思いが心をよぎっていたことは否めない。
それにしても、中学校時代に教わった英語の教師との出会いがなければ、あすから勤務する捕虜収容所への就職の門も開かれなかった。高商時代のESSとの出会いがなければ、それに応えることもできなかった。運命の出会いとはこんなことをいうのだろうか。〝倉西先生〟とは、よくよく運命の糸で結ばれていたのだろう。そして軍隊入りを拒まれた虚弱な一青年が、歴戦の敵将兵の捕虜を集団で管理する収容所で〝民間人通訳″として働くことになるとは…怖いような〝運命の扉″に立っているという感じを持たずにはおれなかった。
いま考えると、高商時代のESSとの出会いを、倉西先生が知っていたのがこうさせたのだろうか。
当時、多奈川分所の捕虜たちはアメリカ軍三百人、オランダ軍六十人。すべてが民間の建設土木会社「飛島組」が軍から請け負っている軍需工場の建設工事に狩り出され、労役に従事していた。私も彼らの通訳ということで即日、飛島組の社員として採用され、勤務地は多奈川分所。就職初日、恐る恐る鉄条網の張りめぐらされた板塀囲いの収容所の門をたたいた。
陸軍の衛兵が威丈高に用件を聞いた。「倉西中尉に面会にきた」といっても、すぐには通してくれない。イガグリ頭の小さな体躯《たいく=からだ》の私が分所の陸軍最高責任者に会いに来たといっても、信用してくれないのが当たり前だろう。それでも、連絡の末、やっと中に入れてくれた。倉西中尉に会った時に初めて笑顔が出た。ほっとした。軍隊にも拒まれたひ弱な若僧が、捕虜とはいえ、弾丸飛びかう第一線をかいくぐった兵士たちの集団収容所の中に初めて入ったのだから無理からぬことだった。
ここの捕虜は、戦争史のなかでも特筆される、あの、フィリピンの〝バターン死の行進″を体験した将兵、コレヒドール島の生死を分けた激戦のさい捕えられた将兵らで、当時の敵将マッヵーサー直属軍団の歴戦の戦士だった。まだ見ぬ敵国兵への興味が段々と湧《わ》き、倉西分所長の指示もなかば、うわの空。私の任務は、捕虜管理に当たる収容所事務所と捕虜たちとの連絡係。「相互の意思疎通を円活にして軍需産業に役立つよう仕向けることと、それとなしに捕虜の動静を観察する、いわば情報・宣撫《せんぶ=上意を伝えて人心を安定させる》を担当すること」
倉西分所長のきびきびした口調と動作には、かつて教壇で見た英語教師の面影は見出せない感じだった。しかし「捕虜として国際法のワクをはずれた接し方はしないように。戦時中とはいえ日本人の持つ文化を損うことにもなるのだから…」という静かな口調には、教師としての香りを嗅《か》ぎ出せた感じで、あらためて〝倉西中尉〃を〝倉西先生〃とダブらせて見出せた。その柔和な眼が、私の心を安堵(あんど)させてくれたようだった。とはいえ、収容所は捕虜の管理と保護が任務だが、鬼畜米英を叫ぶ戦争の真っ最中に、アメリカ軍捕虜を保護する仕事とは…心の中は複雑だった。
多奈川分所は約一万平方メートルの敷地内に、五十人ぐらいが一棟に起居するバラック小屋十棟、このほかに同じバラック建ての病棟と大きな炊事棟、浴場棟、倉庫、靴修理棟、別に日本軍の管理事務所のある管理棟、唯一か所の衛門と衛兵詰所、大きな防空壕《ごう》、それに大きなグラウンド。収容所の周囲は高い板囲いでその上に有刺鉄線が高く張りめぐらされ、板囲いの四隅には高い監視塔が設置されていた。各起居棟の一部には将校専用の特別室があり、下士官と兵士は同じ場所。どの棟も真ん中の通路をはさんで左右にワラを敷きその上に畳をのせて毛布でごろ寝というような長い部屋が上下二段に並んでいた。冬は薪やオガクズでドラムかんストーブをたき暖をとるという、バラック建てそのものだった。
監視護衛は、和歌山の歩兵連隊から約十人が一週間ずつ交代で当たった。管理事務所には倉西分所長のほか庶務、経理担当軍曹二人、衛生兵一人、民間人の通訳二人、傷い軍人《=戦場で傷を負った軍人》上がりの軍属《=軍に所属して軍人でない文官》十人が常時、勤めていた。このほか日本人管理棟の掃除、炊事係の中年婦人三人が雇われていた。私は毎日、堺市湊の自宅から配給米やサツマイモを中心にした手弁当を下げ、南海電車で片道約五十分の通勤。職務の指示を受けたその日は、そのまま帰宅したが、まだ見ぬ外国軍人、敵国兵とこれから毎日、接して話し、通訳するという〝仲介業″に不安と興味半々の何ともいえぬ奇妙な気持ちから、その日はなかなか眠れなかった思い出を、いまでもハッキリ覚えている。
それでも「さあ、あすから想像の世界にしかなかった異文化との遭遇が現実のものとなる。思いきってぶつかるしかない」と自分にいいきかせ、やっと深い眠りにつくことができた。とはいえ、英語の勉強ができる興味と、敵国人との対話。しかもわれわれ日本人が保護している敵国軍捕虜に直接、接する日が明日からやってくる、という複雑な思いが心をよぎっていたことは否めない。
それにしても、中学校時代に教わった英語の教師との出会いがなければ、あすから勤務する捕虜収容所への就職の門も開かれなかった。高商時代のESSとの出会いがなければ、それに応えることもできなかった。運命の出会いとはこんなことをいうのだろうか。〝倉西先生〟とは、よくよく運命の糸で結ばれていたのだろう。そして軍隊入りを拒まれた虚弱な一青年が、歴戦の敵将兵の捕虜を集団で管理する収容所で〝民間人通訳″として働くことになるとは…怖いような〝運命の扉″に立っているという感じを持たずにはおれなかった。