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  • [No.16145] 今日は何の日・11月21日 投稿者:   投稿日:2010/11/21(Sun) 05:33
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、11月21日
    インターネット記念日
    1969(昭和44)年、インターネットの元型であるARPAネットの公開実験が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで開始された。

    歌舞伎座開業記念日
    1889(明治22)年、東京・木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場した。
    元々木挽町には江戸三座のひとつ・森田勘彌座があったが、1841年の天保の改革の時に浅草に移され、それから半世紀ぶりのことだった。当時の建物は戦災で焼失し、1951(昭和26)年に復興された。

    フライドチキンの日
    1970(昭和45)年、名古屋市郊外に日本ケンタッキー・フライド・チキンの第1号店がオープンした。

    世界テレビデー(World Television Day)
    1996(平成8)年12月17日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
    1996(平成8)年、国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催された。
    国連加盟各国は、平和・安全・経済・社会開発・文化交流の拡充等の問題に焦点を当てたテレビ番組の世界的な交流を促すことにより、この日を記念するように呼びかけられた。

    早慶戦の日
    1903(明治36)年、初の早稲田大学対慶應義塾大学の試合「早慶戦」が行われた。
    東京・三田で行われた野球の試合で、11対9で慶應が勝利した。

    1864年 江戸幕府が英米仏蘭4か国と「横浜居留地覚書」に調印

    1939(昭和14)年 ヨーロッパ航路の客船「照国丸」がイギリスの機雷に触れ沈没。乗客乗員は全員救助

    1951(昭和26)年 国連食糧農業機関(FAO)が日本の加盟を承認

    1989(平成元)年 総評が解散。全日本民間労働組合連合会(連合)と全国労働組合総連合(全労連)が発足

    今日の誕生日の花:リュウノウギク
    花言葉:無常の美
    今日の一句:はじめての雪闇に降り闇にやむ   野澤節子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16144] Re: 木村聖哉:添田唖蝉坊・知道 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/20(Sat) 19:10
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    > 木村聖哉:添田唖蝉坊・知道  演歌二代風狂伝

    > 関東大震災の時、日暮里はかろうじて焼け残っていた。
    > そこへ知道は作ったばかりの「大震災の歌」を引っさげて演歌に行く。21歳の若い演歌師であった。

    >  おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人が飛び出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。みなしいんと聴いているのだった。被害の状況を語り綴った報道歌を、うたい終わったら、それをくれ、くれと、みな手をのばして寄ってきた。売れた、売れた。
    >  ほっとした。そこで「復興節」の方をうたってみた。これは軽快調である。すると、さわやかな笑いがおこってきたではないか。これでまったく安心した。
    >  そして、人は、どんな悲憤の底にいても、歌は欲している、ということを、思い知らされたのである。

    これを読んだ私は
    西條八十がやはり関東大震災のあとに
    上野の山でハーモニカを吹く少年が
    災害で悲嘆に暮れた人々を慰め元気づけるのを見て
    「やはり音楽は人に元気を与える」と思ったことと
    重なります。

    $ 大混乱の人混みでなかなか進めず、深夜の上野の山で過ごすことになった西條八十は
    疲労と不安と飢えで無口になった群衆のなかで、一人の少年がポケットからハーモニカを出して吹くこうとしていたのを見る。
    $ 西條八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないかと案じ、止めようとしたがもう少年は吹きはじめた。
    $ 「それは誰も知る平凡なメロディであった。だが吹き方はなかなか巧みであった。
    $ と、次いで起こった現象、これが意外だった。群衆はわたしの危惧したように起こらなかった。おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった」
    $ 上野の山の群衆はこのハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、絶望のなかに一点の希望を与えられた。
    http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15867&mode=allread#15867

    音楽はいいものなのです。 大衆芸術はいい。


    [No.16143] 木村聖哉:添田唖蝉坊・知道 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/20(Sat) 18:59
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    木村聖哉:添田唖蝉坊・知道  演歌二代風狂伝

    西武新宿線小平駅で降りる小平霊園に添田唖蝉坊・知道親子の墓がある。
     添田平吉 昭和19年2月8日没 享年73歳
     添田タケ 明治43年1月12日没 享年29歳
     添田知道 昭和55年3月18日没 享年77歳
     添田キク 昭和46年9月25日没 享年70歳

    若い添田唖蝉坊が飛び込んだ壮士演歌の世界では、壮士は反政府的ではあったが、愛国者であった。
    ナショナリストであった。反政府であっても反日本、反国家ではなかった。

    「ああ金の世」
     ああ金の世や金の世や 地獄の沙汰も金次第
     笑ふも金よ泣くも金  一も二も金三も金
     親子の中を割くも金  夫婦の縁を切るも金
     強欲非道と譏らうが  我利我利亡者と罵ろが
     痛くも痒くもあるものか  金になりさえすればよい
     人の難儀や迷惑も  遠慮してゐちゃ身がたたぬ
                 (添田唖蝉坊)

    「東京節」
     東京で繁華な浅草は
     雷門、仲見世、浅草寺
     鳩ポッポ豆うるお婆さん
     活動、十二階、花屋敷
     すし、おこし、牛、てんぷら
     なんだとこん畜生でお巡りさん
     スリに乞食にカッパライ
      ラメチャンタラギッチョンチョンデ
      パイノパイノパイ
      パリコトバナナデ
      フライフライフライ
     添田知道の処女作は、アメリカのジョージア・マーチが原曲だという。
     売文社に勤めていた知道は「ノンキ節」を「新社会」に載せるにあたって承諾を得るため
     父唖蝉坊のところに行く。
     ちょうど父は何か作品をつくっていたところで、息子にも何かつくってみないかともちかける。
     洋食屋のメニューみたいな「フライ、フライ。カレーライス、ソーダミルクにカフェ、ナフキン」の一節を見せられて
     出鱈目節などというものをつくってきた添田唖蝉坊だから、どうせ浮世はでたらめだという感があって、口ぐせにもなっていた。
     それで、デタラメがラメとなり、ラメチャンとなり、パイがパイノパイノパイの囃子言葉になったという次第だと知道は「演歌師の生活」で述べている。
     
    関東大震災の時、日暮里はかろうじて焼け残っていた。
    そこへ知道は作ったばかりの「大震災の歌」を引っさげて演歌に行く。21歳の若い演歌師であった。
     どこもかしこも薄暗くて、どの家もどの家もひそみかえっていた。かつかつの食料を手に入れることがせい一ぱいの時期である。こんな陰気千万なときに歌などうたったら、どなられるか、またひっぱたかれでもするのではないかと、不安だった。
     おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人が飛び出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。みなしいんと聴いているのだった。被害の状況を語り綴った報道歌を、うたい終わったら、それをくれ、くれと、みな手をのばして寄ってきた。売れた、売れた。
     ほっとした。そこで「復興節」の方をうたってみた。これは軽快調である。すると、さわやかな笑いがおこってきたではないか。これでまったく安心した。
     そして、人は、どんな悲憤の底にいても、歌は欲している、ということを、思い知らされたのである。
         「演歌師の生活」(昭和42年)

    添田唖蝉坊・知道は日本の演歌の歴史をまとめた。
    (ここでいう演歌とは明治の自由民権運動の演歌であって、現代の歌謡曲のことではない。壮士演歌は政治や世相を鋭く風刺した歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するというまじめなものであった)

    知道が学んだ下谷万年小学校の校長であった坂本龍之輔という教育者をモデルとにして書いた「教育者」は戦中から戦後に書かれたが、昭和18年に第六回新潮社文芸賞を受賞している。この本は多くの日本人に影響を与えたとされている。

    知道とキクは幼なじみであった。
    芸者をしていたキクと知道との結婚に難色をしめしていた父添田唖蝉坊は
    それゆえ嫁との仲が悪く、親子は別居していた。


    [No.16141] 今日は何の日・11月20日 投稿者:   投稿日:2010/11/20(Sat) 05:35
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、11月20日

    アフリカ工業化の日(Africa Industrialization Day)
    1989(昭和59)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。
    アフリカの工業化に対する国際社会の真剣な取り組みを促す日。

    世界のこどもの日(Universal Children's Day)
    1954(昭和29)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。
    各政府が適当と考える日を「世界こどもの日」に選んで記念するよう提案されており、日本では、1959年に「児童権利宣言」が、1989年に「児童権利条約」が採択された11月20日を当てている。

    毛皮の日
    日本毛皮協会が1989(平成元)年に制定。
    「いい(11)ファー(20)」の語呂合せ。

    ホテルの日
    1890(明治23)年、帝国ホテルが開業した。

    ピザの日
    凸版印刷が1995(平成7)年に、ピザをイタリア文化のシンボルとしてPRする日として制定。
    ピザの原型であるピッツァ・マルゲリータ誕生に関係した、ウンベルト1世の妻・マルゲリータの誕生日。

    産業教育記念日
    1884(明治17)年、「商業学校通則」が制定され、日本の産業教育制度が創設された。

    行政相談委員の日
    1961(昭和36)年、行政相談委員が設置された。
    行政相談委員とは、行政運営の改善の為に、国民の行政に対する苦情・要望等を受附け、その解決や実現を図る委員のことで、全国の市町村に約5000人が設置されている。

    1945(昭和20)年 ドイツ・ニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)開始

    1947(昭和22)年 英国王エリザベス2世がエジンバラ公フィリップ・マウントバッテンと結婚

    1980(昭和55)年 川治温泉の川治プリンスホテルが全焼。45人が焼死

    2001(平成13)年 マリナーズのイチロー外野手が大リーグで日本人初のMVPを獲得

    今日の誕生日の花:イワレンゲ
    花言葉:よき家庭を築く
    今日の一句:落葉踏むうしろの音も一人なる   山崎ひさを 

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16140] Re: 桑野淳一:韓国古寺紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/19(Fri) 21:24
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    > 桑野淳一:韓国古寺紀行 日本仏教の源流を訪ねて

    > 教会は町にあって日常のドロドロした人間関係の中で救いを求めるのに対して、仏教は山の中で就業に励むようなイメージがある。

     就業→修行

    > 有名な武寧王陵の
    > 百済第二十五代の武寧王は日本の九州筑紫の島に生まれたと言われている。

    これは日本書紀にも書かれているようですね。
    なお、古代朝鮮の史書『三国史記』に、武寧王のことが書かれていないようですが
    私が他で紹介したように、この史書の著者が旧新羅の出身のため、新羅のことを必要以上に記載し、高句麗や百済のことをあまり書かない傾向がありました。
    『三国史記』の著者は高句麗の流れをくむ渤海のことを書いていないのですが、この著者の偏りを17、18世紀になってから朝鮮半島の歴史学者が指摘するわけです。
    現代の韓国の歴史学者もしたがって『三国史記』の記述の偏りを批判しています。

    > 儒教では死んだ自分の子どもの死霊を祀ることが原則的にはできない。早死や未婚死の霊魂は儒教では雑鬼になる。しかしシャーマニズムでは巫俗儀礼を通して、死霊から祖先神へ転換し子孫の守護神なる。

    日本でも早く死んだ子どもが極楽にいって幸せになるよう親は祈ります。
    また未婚の息子が亡くなった場合、花嫁のことを考慮することが見られます。

    > 韓国も日本仏教の源流の一つだが、やはり全体的には中国であろうと思う。

    日本の仏教はたしかに韓国からの影響は受けていますが
    全体的には中国からの影響が多いでしょう。
    最澄と空海、それから禅宗の僧侶などの例をあげるまでもなく。


    [No.16139] Re: 野村進:コリアン世界の旅 投稿者:   投稿日:2010/11/19(Fri) 18:44
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    >  男爵さん、まいど。

    >  コリアンにも、遺伝子的にはC3,D1というような、2500年以前から、朝鮮半島に
    > 居住していた、人も、いるようやけど、これらの人と、2800年前くらいから、長江
    > 流域から、北上して来たOb2系の人や、華北から来たO3系の人との間の勢力争いが有って
    > それが、年がら年中、朝鮮半島で国の興廃を繰り返した要因だと思いますねん。
    >  日本は、どっちかいうたら、被害者の方でっせ。
    >  今のO3主力の中国もそうでっけど、膨張指向をもっているようやから、案外用心
    > せんと、アカン。てなこと書いてる私は、OB2かもしれへんけどね。
    >  メローではDeBugmanさんが、生粋の日本人みたい。

     一寸ミスがありました。Ob2はO2b、OB2もO2bの誤りでした。お詫びして訂正します。
    >
                            Toshichan in Kyouto-fu


    [No.16138] Re: 野村進:コリアン世界の旅 投稿者:   投稿日:2010/11/19(Fri) 13:11
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     男爵さん、まいど。

    > この本には
    > 日本の中でたくましく生き、日本人と理解し協力して生きる在日の人たちのことや
    > 彼らを理解して助けている日本人たちのことも多く書いている。
    > 全体的にはコリアンに対して暖かいまなざしをもっている。

     コリアンにも、遺伝子的にはC3,D1というような、2500年以前から、朝鮮半島に
    居住していた、人も、いるようやけど、これらの人と、2800年前くらいから、長江
    流域から、北上して来たOb2系の人や、華北から来たO3系の人との間の勢力争いが有って
    それが、年がら年中、朝鮮半島で国の興廃を繰り返した要因だと思いますねん。
     日本は、どっちかいうたら、被害者の方でっせ。
     今のO3主力の中国もそうでっけど、膨張指向をもっているようやから、案外用心
    せんと、アカン。てなこと書いてる私は、OB2かもしれへんけどね。
     メローではDeBugmanさんが、生粋の日本人みたい。

                            Toshichan in Kyouto-fu


    [No.16137] Re: 絵で見る韓国の歴史 漫画韓国の歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/19(Fri) 12:59
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    > 漫画韓国の歴史(5) 高麗の建国と発展

    漫画韓国の歴史(4) 高句麗と渤海と高麗

    新羅が三国統一をなしとげたのちも
    高句麗では高句麗を復興しようという運動が繰り広げられ
    ついに698年に渤海が建国された。

    渤海は高句麗が滅亡してから30年後に
    高句麗の元の民族が大祚栄(だいそえい )を中心にして靺鞨(まっかつ)人を率いて、建国した国である。

    しかし、高麗時代に編纂された金富軾の「三国史記」らは、渤海は記録されていない。
    これは、新羅の王族の依存である金富軾が新羅に重点を置き執筆したからである。
    彼は渤海を靺鞨人の国としてあつかい意識的に韓国の歴史からのぞいたのである。
    (彼は新羅出身なので、三国時代に新羅と対立した高句麗や百済を批判的に書いた)

    (高麗は契丹に対して鴨緑江周辺の土地を昔の高句麗の領土だと主張して取り返したように、対外的には高句麗の継承国であることを強調した。しかし、国内的には統一新羅の領土を受け継ぎ、とくに新羅の後裔たちによって多くの影響を受けていた。そのため金富軾のような新羅支配層の後裔もいたから、金富軾が新羅の立場のみ歴史に記録し、高句麗が満州に支配していた領土や歴史を記録しなかったことを、後の韓国人から批判されている)

    1784年に編纂された柳得恭「渤海考」の序文には統一新羅と渤海を南北国と呼び、渤海の歴史に多く関心をもたなければならないと書いている。
    「...百済・高句麗が滅びたあと、韓国南方らは新羅が、北方には渤海が存在したが、この時代を南北国時代という。それゆえ高麗時代には当然南北国の歴史が編纂されなければならなかった。しかし、高麗はこの事実を記録に残さなかった。いったい、渤海の大祚栄とはどんな人物なのだろうか。高句麗人である。彼が領有した土地は誰の土地なのか。高句麗の領土である。ただ渤海ではその領土を東・西・北方に開拓していっただけなのだ。そしてその後、新羅と渤海がほろび王建高麗がこれを統一したのである。しかし、高麗は南方にあった新羅の昔の領土はすべて取り戻したが、北方にあった渤海の領土はほとんど領有できなかった。結局、渤海の昔の領土は女真や契丹のものになってしまったのである。このとき、高麗はいちはやく渤海の歴史を記録に残さなければならなかった。そしてこの記録をもって女真族および契丹と交渉して、渤海の昔の領土を返還するよう要請しなければならなかったのである。そうすればもっと簡単に高麗は高句麗の昔の領土を領有することができたであろう。だが、高麗は渤海の歴史を記録に残さなかったため、昔の高句麗の領土は、もともと誰のものだったのかわからなくなってしまったのである」
     新羅史だけ韓国の歴史の正統として、渤海史を記録しなかった高麗時代の歴史家は大きなあやまちをおかしたというのである。
     こうして、金富軾が「三国史記」で渤海史をのぞいたのは間違いであったと後世の歴史家から批判されている。

    渤海の歴史を韓国の歴史と認識し、叙述しはじめたのは17,18世紀に入り実学が発展してからである。

    実際に渤海の支配層が朝鮮民族の意識を確かに持っていたことは、渤海が日本に使臣を派遣するとき送った国書によくあらわれている。渤海の武王が日本に送った国書には、「渤海は高句麗の昔の領土を取り戻し、扶余の風俗を保つ」と書いてある。
    武王以後、日本に送った国書では渤海の王がみずからを「高句麗王」と呼んだりもしている。
    それだけでなく、日本から渤海に送った国書にも「高句麗王におたずね申し上げます」という文句ではじまる文が書かれているものがある。
    これらの点から渤海は、みずからが高句麗の後裔であることを対外的に広く知らしめていたとみることができる。


    [No.16136] Re: 今日は何の日・11月18日 投稿者:   投稿日:2010/11/19(Fri) 12:38
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    KAMEさん、みなさん、こんにちは。

    > ミッキーマウスの誕生日
    > 1928(昭和3)年、ニューヨークのコロニーシアターでミッキーマウスが登場する短編アニメーション『蒸気船ウィリー』が初めて公開された。

    わぁー、ミッキーって、昭和ヒトケタ世代だったんですか。

    ちなみにスヌーピーは私と同い年、1958年生まれでーす。


    [No.16135] 青木隆直:新韓国探見 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/19(Fri) 10:13
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    青木隆直:新韓国探見  新潮社 1997

    韓国に関する本を手あたりしだいに読んだ。
    この本はなかなか重い内容の本である。

    著者は札幌にある新聞社の記者であるが
    特派員としてソウルに滞在した。その体験とその前後の韓国や韓国人に関する取材もふくめて
    この本にまとめたものである。

    樺太つまりサハンにも現在も韓国人は住んでいる。
    戦前に日本人と一緒に樺太に住んでいたのだが
    日本人は引き上げてきたのに、韓国人は樺太に残されてしまった。
    李起福さんもそんな一人だった。
    彼は全羅北道の出身だった。春香伝の舞台である南原市から北へ15キロのところだという。
    24歳のとき畑にいた彼のところに役場から日本人が来て
    樺太で労働者が足りない二年間だけ行ってくれないかと言われた。
    もし彼が断ったら「お前が行かなければ父親を連れて行くぞ」とか「明日から家族が食えなくなってもいいんだな」「村から必ず一人は行くことになっている」と言われる世の中である。
    人によっては、強制連行はなかった、本人の希望だった、徴用だったと言う日本人がいるが
    当時の情勢ではとても断れるものではなく、形式的には本人の同意とか希望だったということになっていても、実質的には強制連行と同じようなものだった。

    こうして他の大勢と一緒に汽車で釜山まで行き、そこから船で樺太まで連れて行かれた。
    樺太では労働条件も悪く危険な坑内労働をを続けたが、約束の二年がすぎても帰してもらえなかった。戦争のためまた二年間働いてくれと言われた。
    腹が立ったが抗議したり反抗するとひどいめにあうから我慢して働いた。
    そのうちに終戦になって回りの日本人たちは日本に帰っていったが、彼らは樺太に残された。

    彼は樺太で韓国人と結婚した。妻となる彼女は子連れの再婚だった。
    ゴルバチョフのとき、やっと韓国に帰られるようになった。
    そのときは独身でなければ韓国に帰られなかったので、妻とは話し合って離婚してきた。
    あとで妻を呼び寄せるつもだった。
    彼には甥が韓国にいて、甥が呼び寄せてくれたのだった。
    著者は以前に樺太で取材していたので、李起福さんとまた韓国で再会したのだった。
    それから数年して李起福さんはガンで、韓国の老人ホームで一人寂しく亡くなった。

    鄭先周さんはやは樺太から引き上げてきたおばあさんだ。
    朝鮮で生まれ九歳のとき親に連れられて大阪に来た。十三歳のとき両親と一緒に北海道の美唄に来た。
    十五歳で炭鉱の坑内員の朝鮮人と結婚した。それから夫婦は樺太に渡った。
    昭和19年に政府は樺太や北海道のの七炭鉱を不経済炭鉱として、三千人の朝鮮人坑内員を常磐炭鉱と九州の炭鉱に配置転換することを決めた。
    こうして鄭先周さんの夫の河龍成さんは九州の炭鉱に行ってしまった。
    日本人坑内員も転換の対象となったが日本人の場合は家族同伴で移動が認められたのに
    朝鮮人坑内員の家族は認められなかった。鄭先周さんは五人の子どもたちと樺太に残った。
    それから終戦となって、彼女は二度と夫とは会えなかった。

    彼女の夫は韓国に住み手紙が一度だけ送られてきた。ソ連は北朝鮮とは国交があったが、韓国とはなかったため、以後の連絡はできなかった。
    彼女は樺太に残る子どもたちの反対をおしきって一人だけで韓国に帰ってきた。
    なんとしても夫の横に眠たかったから。

    慶尚北道の大昌養老院で鄭先周さんの話を聞いた著者は
    一度だけ甥が夫の墓参りに連れて行ってくれたが、その後はまったく墓参りに連れて行ってくれず、死ぬまでにもう一度行ってみたいと語る。
    見かねて著者は、(ソウルに戻らねばならなかったが)彼女を連れて高速バスに乗って墓に行くのだが、彼女の記憶は怪しくなかなか見つけられない。でも、あちこちで人に聞いてやっと墓を見つけて墓参りをすることができた。
    彼女の夫のそばに眠りたいという願いは、しかし無理な願いだった。
    なぜなら、同院では入居者が亡くなった場合、火葬に付して遺骨を院の隣にある寺院の納骨堂に収めるのが決まりであったのだ。
    最大の理由は院の財政上の問題であった。施設入居者が死亡すると埋葬代として国から三十万ウォン(当時の換算で約三万八千円)の公的助成が出るが、その金額では火葬代にさえ
    ならない。まして土葬するとなると、穴掘りや運搬、埋葬までの作業員を雇ったり、棺の制作など含めてその倍以上、最低でも八十万ウォン(約十万円)はかかる。だから誰も引き取り手がないと火葬にせざるをえないのである。

    「どうして私たちだけが火葬にされなければならないのか、昔から朝鮮民族は火葬の習慣はなかった、樺太でも土葬が当たり前だった。ワシははじめ日本人ばかり恨んでいたが、今度は韓国人も恨むようになった。韓国ではもともと火葬なんかしなかったのに、どうして...」と泣く彼女のことを、著者は新聞に書いた。(おそらく特派員だから北海道の新聞に書いたのだろう)
    そうしたら、読者から十万円の浄財が送られてきたという。その後もいくばくかのお金が院に届き、彼女はそのお金で、夫の墓のすぐ横に小さな土地を買うことができた。さらに、亡くなったら、大昌院からその墓までの運搬と埋葬にかかる費用のすべてを一部の人たちの暖かい志で賄う目途をつけることができた。
    1996年、大昌院を訪れたとき、彼女は著者に「本当にうれしい。ありがたいのです。みなさんにそう伝えてください」と何度も何度もそう言ったという。
     ここまで読んで、この本は以前に読んだことがあることに気がついた。

    著者は複雑な気持ちであることを書いている。
    もちろん浄財を寄せてくれた方々の善意は深く感謝するが
    鄭先周さんの場合はたまたま、そういう善意に恵まれたから思いをとげることができたのであって、他の入居者の同じ願いはかなえられそうにもないからだ。

    この本には
    次期大統領選挙では、金大中が大統領になることは絶対にない
    と書いてあるが
    この本が出てから金大中大統領が実現したのだから選挙はわからない。
    未来の予測は難しい。


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