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  • [No.15970] 会員の作品ページ、川柳の更新 投稿者:   投稿日:2010/10/27(Wed) 06:00
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    みなさん、今日は

    会員の作品ページ、川柳の更新しました。
    http://fmellow.s103.xrea.com/senryu/senryuda.htm

    10月題詠川柳「音」収録しました。
    ご覧下さい。


    [No.15969] 今日は何の日・10月27日 投稿者:   投稿日:2010/10/27(Wed) 05:34
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    みなさん、今日は
    10月27日
    テディベアズ・デー
    テディベアの名前の由来となったアメリカ26代大統領セオドア・ルーズベルトの誕生日。イギリスのテディベアコレクターの間で始められ、世界中で「心の支えを必要とする人たちにテディベアを贈る運動」が行われている。日本では日本テディベア協会が1997年から実施。
    1902(明治35)年の秋、ルーズベルト大統領は趣味である熊狩りに出掛けたが、獲物をしとめることができなかった。そこでおつきの人が、同行していたハンターが小熊を追いつめて最後の一発を大統領に頼んだが、「瀕死の小熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。このことが同行していた新聞記者によって新聞に掲載され、このエピソードに因んで、翌年、ニューヨークのおもちゃメーカーが熊のぬいぐるみに、ルーズベルト大統領の愛称である「テディ」と名づけて発売した。その頃、ドイツのシュタイフ社の熊のぬいぐるみが大量にアメリカに輸入され、この名前が広まった。

    読書の日
    「読書週間」の1日目の日。
    読書週間 10月27日〜11月9日

    世界新記録の日
    1931(昭和6)年、神宮競技場で行われた体育大会で、日本初の世界新記録(南部忠平の走り幅跳び7m98、織田幹雄の三段跳び15m58)が誕生した。

    松陰忌
    長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰の1830(文政13)年の忌日。
    安政の大獄で捕えられ、この日に処刑された。

    1930(昭和5)年 NHK東京中央放送局が初めて海外に電波を送る

    1981(昭和56)年 日本ハム江夏豊投手がシーズンMVPに選ばれ初の両リーグMVP選手に

    今日の誕生日の花:ヨメナ
    花言葉:隠れた美しさ
    今日の一句:秋深き隣は何をする人ぞ    芭蕉

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15968] Re: 今日は何の日・10月26日 投稿者:   投稿日:2010/10/26(Tue) 20:41
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    みなさん、まいど。

    > 今日は何の日、10月26日

    > 柿の日
    > 全国果樹研究連合会が2005(平成17)年に制定。
    > 1895(明治28)年のこの日、俳人・正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ。

     今年は余り成ってませんね。私の方は。おまけに、熊は来ないが烏が来て、青いのも食べて
    しまう。自然界の食べるものが、ないらしい。紫式部の実も無くなりました。
     正月迄、南天も持つかどうかーーー。( - - ; ;

    Toshichan in Kyouto-fu


    [No.15967] 今日は何の日・10月26日 投稿者:   投稿日:2010/10/26(Tue) 20:11
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、10月26日
    原子力の日
    科学技術庁(現在の文部科学省)が1964(昭和39)年に制定。
    1963(昭和38)年、茨城県東海村の日本原子力研究所で、日本初の原子力発電が行われた。
    また、1956(昭和31)年のこの日には日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟した。

    サーカスの日
    1871(明治4)年、東京・九段でフランスの「スリエサーカス」による日本初のサーカス興業が行われた。

    柿の日
    全国果樹研究連合会が2005(平成17)年に制定。
    1895(明治28)年のこの日、俳人・正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ。

    1909(明治42)年 伊藤博文がハルピンで朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺される

    1943(昭和18)年 常磐線土浦駅で貨車と客車が三重衝突。死者110人

    1951(昭和26)年 衆議院が対日講和・日米安保両条約を承認

    1965(昭和40)年 ビートルズが、外貨獲得の功績でエリザベス女王からMBE勲章を授与

    1983(昭和58)年東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園

    今日の誕生日の花:モヨウビユ
    花言葉:燃え上がった情熱
    今日の一句:啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  水原秋桜子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15966] エスペラント 異端の言語 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/26(Tue) 10:39
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    著者の田中克彦は言語学とモンゴル(語)学の専門家、一橋大学名誉教授
        岩波新書1077

    岩波新書には
    すでに、ウルリッヒ・リンス著・栗栖継訳「危険な言語」というエスペラント語の本があるが
    なぜか絶版になっている。
    たいていの図書館にはあるが奥の倉庫に入っている。

    さて、この本であるが
    例によってポイントをメモ書きする。
    ・ポーランド(当時はロシア領)に住むザメンホフというユダヤ人が新しい言語を考案して発表した。それはエスペラントという名で広く知られるようになった。
    ・「エスペラント」はフランス語のエスポワール(希望)、スペイン語のエスペランサなどと同源の「希望する人、物」という意味のエスペラントの単語であって、人類の希望の言語という意味がこめられている。
    ・ザメンホフははじめ、考案者である自分の名をそう名のったからで、言語もまたその名で呼ばれた。
    ・1922年には、新渡戸稲造と柳田国男が共同で国際連盟にはたらきかけ、世界中の公立学校でエスペラント語を教えるよう決議を求めた。提案は、フランス語以外の言語は世界語たる資格がないと主張するフランスの強い反対を押し切って可決された。
    ・ソ連では1930年にスターリンが将来は人類はひとつの言語を話すようになるであろうと演説したために、ソ連のエスペランチストは国家の最高権力からも支持が得られたと誤解した。しかし、1937年には当局はソ連エスペラント同盟に解散を命じて、エスペラントに対する大弾圧を始めた。
    ・ヒトラーもすでにその前年にエスペラント運動を禁止していた。

    ・日本最初のエスペラントの学習書を書いて出版したのは二葉亭四迷だった。
    ・日本におけるエスペラント普及に関して、特別の役割を果たした人としてフィンランドのアルタイ語学者ラムステットがいる。
    ・1898年にラムステットは若い妻と生まれて数ヶ月の娘を連れてモンゴルの旅に出かけた。
    ・ラムステットはモンゴルの旅から20年後に、初代公使として日本に赴任した。フィンランドはロシア十月革命の結果として、1917年に独立を宣言した。そして、中国の公使をも兼任する外交代表として日本に赴任したのである。公使は事実上は大使に相当した。
    ・日本で多くのエスペランチストに迎えられた。英語ができない彼は、日本各地に招かれた講演はすべてエスペラント語でやり、それを各地のエスペランチストが日本語に翻訳した。
    ・柳田国男はラムステットを通じて、フィンランドの民俗学にふれたのみならず、エスペランチストともなった。
    ・1926年、宮沢賢治はたまたま上京したときにラムステットの講演を聞き、「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だ」と言われたことに刺激を受け、丸ビルの旭光社でエスペラント語を学んだ。
    ・賢治は自分の作品が日本の外にも知られることを願っていたらしく、自作のいくつかの短歌や詩を自らエスペラント語に翻訳した。
    ・賢治は作品の舞台をエスペラント語で「イーハトーヴォ」と名づけた。イーハトとはイーハテつまり岩手を指している。テがトになっているのは、語尾がoで終わるというエスペラント語の文法に従って名詞語尾としたからである。次のオーヴォとはovo(卵)である。「イーハトーヴォ」とは岩手の卵という意味で使ったのである。


    [No.15965] Re: 国民読書年 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/25(Mon) 20:46
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    > > 私は名前の知りたい落語があります。

    >  たぶん「放生会」または「後生鰻」という演題のようです。

    そうでした。
    「後生鰻」でした。
    さすがは 唐辛子紋次郎さん!


    [No.15964] Re: 国民読書年 投稿者:   投稿日:2010/10/25(Mon) 19:56
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    > 私は名前の知りたい落語があります。
    > ウナギ屋で切られるウナギを助けて、そのウナギを川に落として逃がす話があります。
    > よいことをしたというわけで
    > そのくせがついたのか
    > 抱き上げた赤ん坊をつい川の中に落とす話です。

     たぶん「放生会」または「後生鰻」という演題のようです。ひとによって投げ込まれるのが赤ん坊だったり、じぶんの女房だったり。

     ところで、今年は『国民読書年』ですよ、『落語年』ではありませんよ。(^_-)-☆
    年のため、じゃなかった、念のため。


    [No.15963] Re: 国民読書年 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/25(Mon) 15:47
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    >  ウソだと思ったら、志ん生の「なめくじ艦隊」を読んで御覧なさい。

    唐辛子紋次郎 さん 落語はいいですね。
    落語を聞いていると教養が身につきます。
    頭を良くするために落語を聞きましょう。

    「崇徳院」という落語をご存じでしょうね。
    例の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」という百人一首の歌です。

    「寿限無、寿限無」では
    「五劫の擦り切れ」という気の遠くなるような時間の概念が出てきます。

    私は名前の知りたい落語があります。
    ウナギ屋で切られるウナギを助けて、そのウナギを川に落として逃がす話があります。
    よいことをしたというわけで
    そのくせがついたのか
    抱き上げた赤ん坊をつい川の中に落とす話です。


    [No.15962] 国民読書年 投稿者:   投稿日:2010/10/25(Mon) 13:54
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    ことしは国民読書年というのだそうで、こういう官製の行事は大体あっしはすきではない。読書などは、強制する紋ではないと愚考する。

     とはいいながら、自分では必要に応じ、またヒマにかませて毎日のようにやっている。すると小さいながらも何らかの発見はある。さいきんでは、他の人にはどうか知らぬが、面白いことを発見した。

     それは、名人と謳われた落語の志ん生と、上野と、わが町佐倉のかかわりである。今までこれら四つはあっしには、マッタク関わりのない紋と思い込んでいたが、意外や意外大いに関係があった。

     ウソだと思ったら、志ん生の「なめくじ艦隊」を読んで御覧なさい。なんでも志ん生によると、昔は上野の不忍池に龍がすんでいるといわれていたそうです。

     あるとき池のほとりを人力の車夫が通り掛かると、若い美しい女がやってきて「ねえ、ちょっと印旛沼までやってくれない」

     ここんとこ、志ん生の口調で云うと「車屋はおどろいた。印旛沼てえと、千葉県の佐倉の方ですからね。」と、こうなる。

     とにかくその女を印旛沼まで届けたが、金はない、そのかわり、この櫛を下谷のこれこれこういう名の薬屋へ出せばお金をくれるというから、車屋チョッとガッカリした。が、それだけ云うと、女はすでに印旛の沼んなかへどぶん、と水しぶきをあげて飛び込んでいた。

     下谷の薬屋は、その話を聞いて五円と云う大金を呉れたが、その櫛は実は鯉の鱗であったという。けっきょくそのころ、近く弁天池がかい掘りになるという話があったので、鯉が人間に化けて印旛沼へ逃げた、というのが一致した意見だったようだ。

     信心の篤い薬屋はさっそく庭にお宮を作って、鯉のこけらを祭ったということです。う〜ん、そういえば、印旛沼は鯉や鮒の楽園だから、話があっている。

     もしかしたら、噺家連中で印旛沼まで釣りに行ったときに思いついたハナシかもしれぬ。弁天池の主は龍でなく鯉であることもここで判明したというおはなし。
     


    [No.15961] 童謡・唱歌の世界 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/25(Mon) 12:05
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    金田一春彦:童謡・唱歌の世界

    おもしろいところだけ紹介します。

    著者が
    大阪朝日放送で、童謡「七つの子」の「七つ」というのは
    「七羽」という意味ではなく「七歳の」という意味だ、
    その証拠は、室町時代から江戸時代を通じてはやって歌謡に「七つの子が」云々
    というのがあって、子どもといったら「七つの」というのが枕詞のように使われたから
    野口雨情はその慣用句を使ったのだ、というようなことを話していたら
    聴取者の一人から電話がかかってきた。
    わらべうたに
     お月さんいくつ 十三七つ
    とある、あの「十三七つ」とはどういう意味だというのであった。
    そこで文献を調べて、大阪・和歌山方面では、これを
     お月さんいくつ 十三一つ
    と歌ったという。おそらくこれが古い形であろう。
    十三七つというのは「七つの子」などという「七つ」を「一つ」の代わりにくっつけたものでしょうと説明して
    お聞きの皆さん方のうちに、そう歌われる方はありませんかともちかけたら
    すぐ電話が三件もかかってきたという。

    たしかに昔は「十三一つ」と言っていた、と言われ
    さらにそれはお月見のときに歌う歌で、その夜お月さんにサトイモを十四個そなえたものです、と教えてくださったという。
     「十三一つ」とは十四日目の月のこと
     十五夜お月さんの前の、十四夜お月さんではまだ年が若いということになる。
    それが「十三七つ」となっては意味がわからなくなる。

    ここで私が考えたのは
    十五夜お月さんの前夜の十三一つのお月さんという本来の意味は忘れ去られ
    お嫁に行くお月さんなら、現代の感覚では二十歳くらいだろうということで、十三七つとなったのではないだろうか。

    もう一つ面白い話を紹介します。
    山田耕筰は北原白秋の詩をよく作曲した。
    名曲「からたちの花」のように、山田耕筰と北原白秋の共作は多い。二人は気があっていた。

    「からたちの花」が全国に流行していた頃、二人はコンビを組んで日本全国を講演しまわった。
    どごも大もてで大変楽しい旅行だった。
    ところが米原あたりであったろうか、ある田舎駅で乗り換えのため時間が二、三時間あいてしまった。
    ホームで座っていもしようがないと途中下車して町へ出て行ってみたが、小さな町で見るよなところもない。
    ところが一軒だけ田舎町には不相応なカフェなるものがあった。お酒の好きな二人はとりあえずそこに入った。
    中はあんがい広く、女給が四、五人もいる。中にはちょっときれいなものもいる。時間の関係か相客はいない。
    ここは一番もててやろうと、お酒を注文しながら「おれたちは、北原白秋と山田耕筰だ」と言い放った。
    女給一同はあっとかしこまって奥へ引っ込んだと思ったら、今度出てきた時は、一同化粧も厚く、態度も馬鹿丁寧になった。
    それはいいが、てんで寄りつかず、お酒を運んできてもすぐ奥へ引っ込んでしまい、ちっともおもしろくない。
    二人はそれを見て何もそんなに改まらなくてもいいのにと思い、しかし素朴な彼女らの態度を可愛いものと思い、適当に飲んで帰ろうとした。
    そのとき勘定書きを見ると馬鹿高いのである。
    二人はびっくりしてよく事情を聞いてみたら、女級たちは彼ら二人を、北原ハクシャクと山田コウシャクの御両人と誤解したことがわかった。
     と山田が雑誌に楽しそうに書いていたそうです。


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