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  • [No.15155] Re: 戒名は自分でつけよう 投稿者:   投稿日:2010/04/27(Tue) 16:55
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    家内が病床について4年経った頃、いよいよだなと思い切って「戒名はどうするか?」と訊きました。

    病気による構音障害でものが言いにくいにも関わらず「今の名前でいい」と、思いがけず明るい表情で言いました。
    嬉しかったナ。

    この一言を聞いて誰に遠慮することなくわたしが仕切って花と音楽で弔ってやることにしました。

    墓?は高さ20センチほどの五輪塔2基にして生前書を好くしていた手紙から◯夫・◯子の名を写しサンドブラストで彫ってもらいました。死者と対話するきっかけなればいいと思って。


    [No.15154] Re: 戒名は自分でつけよう 投稿者:季寿(きよし)  投稿日:2010/04/27(Tue) 14:42
    [関連記事URL:http://plaza.rakuten.co.jp/tmgw19/

    男爵さん

    今年1月亡くなった私の母は生前戒名を貰っていました
    父が亡くなった時に、一緒につけてもらったようです

    両親の戒名は「・・・居士」「・・・大姉」です

    戒名は菩提寺の住職につけて貰いましたが、風流な方で、父の戒名には「紅葉」の字句が、母の戒名には「清月」の字句が含まれています

    ちなみに父は11月に亡くなりました


    [No.15152] Re: 戒名は自分でつけよう 投稿者:   投稿日:2010/04/27(Tue) 10:11
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    男爵さん、あやさん こんにちは

    >日蓮宗
    > AA院法BCC居士
    > AA院妙BCC大姉

    うちは、日蓮宗ですが、次のようになっています。
    祖父と父 AB院法C日D信士
    祖母と母 EF院妙G日H信女

    必ず、日が入っています。
    そして、院の前に名前からとった一字が入っています。

    ところが、最近見た戒名には次のようなのがあります。
       ○○院法○日○居士
       ○○院妙○日○大姉
    どういうわけなのでしょうか。

    自分については、戒名であろうが、今のままであろうが、どうでもいいと思っていますが、やはり、決めておかないと困るでしょうね。

    骨については、埋めなければ法に触れないそうです。
    でも、だからと言って、自分の家の庭など、どこに撒いてもいいというものでもないでしょう。ご近所のこともありますから。


    [No.15149] Re: 戒名は自分でつけよう 投稿者:   投稿日:2010/04/27(Tue) 07:37
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    あやさん  こんにちは

    > 母  33歳 釋妙○信女

    どうも釈の字があるから、浄土真宗の法名だと思います。

    ちなみに
     樋口一葉は
     知相院釈妙葉信女

    > 父は、本名で行いました。
    > 私もできたら本名がいいですが、もっとできたら焼かれたあと
    > 骨は残して欲しくないです。それが願いなのですが!

    葬式は遺族のためにあるので
    遺族の考え方や都合できまりそうですが
    その前に遺言で、こうしてほしいと残しておけばいいのではないでしょうか。

    骨を海山に散骨するとか....
    石灰ですから畑にまけば肥料になりますが。
    いまはホームセンターでわざわざ貝殻からできた石灰を買ってくる世の中ですから。
       失礼しました。


    [No.15146] Re: 戒名は自分でつけよう 投稿者:   投稿日:2010/04/26(Mon) 21:53
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    時間がなく、時間がなくの暮らしをしているものだから、
    題名だけを読んで通過、中身をなかなか読むことができず、
    返信もままなりません。

    戒名のことはまったくわからず、興味もないのがほんとうのところ。
    でも気になって出てきました。

    弟宅の仏壇から、書き写してきた親たちの戒名を貼ってあるのですが
    今、見てきました。

    弟   4歳 ○○善童子位
    母  33歳 釋妙○信女
    祖母 75歳 釋妙○○圓信女定衆
    父  64歳 ○○○○(本名です)

    ○のところは、本人に関係あることが使われているのかと
    思い、あえて○にしてみました。

    父は、本名で行いました。
    私もできたら本名がいいですが、もっとできたら焼かれたあと
    骨は残して欲しくないです。それが願いなのですが!

    男爵先生、どうしたらいいでしょうか!

    > この本を読んで「でもやっぱり、お坊様に戒名をつけてもらおう」と思えば、お坊様と相談して自分の納得できる金額で「生前戒名」をつけてもらうのもよいだろう
    > と書いてある。
    >
    > 天台宗と真言宗
    >  AA院BBCC居士
    >  AA院BBCC大姉
    > 浄土宗
    >  AA院B誉CC居士
    >  AA院B誉CC大姉
    >   (誉は信仰心の篤い人につける)
    > 浄土真宗
    >  AA院釈CC居士
    >  AA院釈尼CC大姉
    > 臨済宗と曹洞宗
    >  AA院BBCC居士
    >  AA院BBCC大姉
    > 日蓮宗
    >  AA院法BCC居士
    >  AA院妙BCC大姉

    それにしても、わが関係者たちは、これらに当てはまりません。
    何宗なのでしょう?


    [No.15127] 戒名は自分でつけよう 投稿者:   投稿日:2010/04/22(Thu) 07:22
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    高林院釈俊信居士著   文芸社

    この世で使用する「俗名」は自ら選び付けることはできない。
    せめて、あの世に行ってから使用する「戒名」くらい、自分でつけたいものだ。
    この本は、「生前に自分の戒名」さらには「祖父母、親、兄弟の戒名」をもつける楽しみを味わうための参考書である。

    この本を読んで「でもやっぱり、お坊様に戒名をつけてもらおう」と思えば、お坊様と相談して自分の納得できる金額で「生前戒名」をつけてもらうのもよいだろう
    と書いてある。

    美空ひばり  慈唱院美空日和清大姉
    力道山    大光院力道日源居士
    古賀政男   大響院釈生楽
    嵐寛寿郎   寛寿院照誉威兄演達居士
    松井須磨子  貞祥院実応須磨大姉
    花菱アチャコ 阿茶好院花徳朗法大居士
    榎本健一   天真院殿喜王如春大居士
    夏目漱石   文献院古道漱石居士

    天台宗と真言宗
     AA院BBCC居士
     AA院BBCC大姉
    浄土宗
     AA院B誉CC居士
     AA院B誉CC大姉
      (誉は信仰心の篤い人につける)
    浄土真宗
     AA院釈CC居士
     AA院釈尼CC大姉
    臨済宗と曹洞宗
     AA院BBCC居士
     AA院BBCC大姉
    日蓮宗
     AA院法BCC居士
     AA院妙BCC大姉

    著者はあとがきで
    「新潟県中越地震で一時帰宅を許可された人たち、特にお年を召した方々が、壊れかけた家に入り、まず最初にご仏壇にかけより戒名が書かれた位牌を取り出して大切そうに風呂敷に包む姿をテレビで見て、改めて考えさせられた。それほど大事な位牌に刻まれる戒名ならば、葬儀の際にインスタントにつけられることなど決してあってはならないと。本来ならば、苦労をともにし亡くなられたご先祖様や親兄妹の遺骨が大切なのだろうが、これに代わるものとして位牌を大切にするということであろう」
    「私の先祖が大変お世話になったお寺や、ご住職様に弓を引くつもりなど全くありません。どうか、ご慈悲の心でお許し下さい」と書いている。


    [No.15000] 五能線木造と太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/29(Mon) 20:55
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    太宰治の「津軽」を読みました。
    この作品は、1944年5月から執筆依頼のため、3週間にわたって津軽半島を旅行したもので、一種の紀行文になっています。
    終戦中の物資の乏しいときに、しかし、彼の一族は金持ちだったので、どこに行っても何とかお酒が飲めたようです。幸せでしたね。

    太宰の亡くなった父親の出身の町、五能線の木造駅に降りる。
    知り合いの家に寄ると貴重なお酒をご馳走になる。
    私がはっと思ったのは
    木造はまたコモヒの町である、と書いてあったこと。
    コモヒとは、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってある
    一種の通路です。雪国の冬の通り道になります。
    コモヒは小店(こみせ)が訛ったものであると言われているが
    太宰治は隠瀬(こもせ)あるいは隠日(こもひ)などという字を当てたほうがわかりやすいと述べています。

    つまり、これは北陸の雁木ですね。
    黒石や弘前ではコミセと呼ばれています。黒石には立派なコミセが保存されていますが、弘前にはほとんど残っていません。数えるほどしかありませんでした。
    川端康成の雪国や松本清張の小説に、雁木のことが出ています。

    それでは、機会をみつけて、木造に行ってみないといけませんね。
    なるべく冬に行ってみたいものです。

    この「津軽」の最大の見せ場は、太宰を育ててくれた乳母の「たけ」に会うことです。
    彼は実際にたけと会ったのですが、事実と小説は違っているそうです。
    小説はうまくまとめているが、実際に太宰はそんなに劇的な再会をして文学的な感動の場面に立ち会ったようではないみたいです。いっぱり歩き回って他の知り合いに会うのとお酒を飲むのに忙しかったみたい。

    インターネットに全文が載っています。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html


    [No.14564] Re: 五能線みちくさ紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/19(Tue) 08:23
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    > > 五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。
    >
    > 弘前近くの板柳駅で
    > 著者はわざわざ降りる。

    高見盛は板柳町の出身でした。
    地元のテレビでは
    郷土出身の力士の星取り情報を流していました。


    [No.14555] Re: 五能線みちくさ紀行 投稿者:   投稿日:2010/01/17(Sun) 16:55
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    > 五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。

    弘前近くの板柳駅で
    著者はわざわざ降りる。

    昭和24年網走で生まれた永山則夫は
    六歳の時、自分を置き去りにして板柳で暮らしていた母親に引き取られる。
    このとき永山則夫が汽車から降りたのは、板柳駅のホームであろう。
    精神病院に入院中の姉に会うために九歳で家出して北海道へ向かったときも
    集団就職で上京したときも、板柳駅から出発したにちがいない。

    彼は上京した四年後の昭和四十四年四月に「連続射殺犯」として
    警視庁に逮捕された。

    貧しく悲惨だった生い立ち
    辛い半生のあと殺人犯となって、とうとう死刑になってしまった。
    この本を読んで、五能線の板柳駅も通ったことのある私は
    永山のことを思い出したのでした。


    [No.14553] 五能線みちくさ紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/16(Sat) 08:04
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    著者の青木健作は富山生まれで弘前在住
    富山、東京、弘前と人生を三分ずつ住んできた。

    五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。
    普通列車で4時間半くらい、快速列車「リゾートしらかみ」ならもっと早い。
    しかし、五能線を半日で走るような列車の旅では、旅をしたということにはならないのではないか。
    駆け抜けるだけなら津軽も房総も越前も紀伊もたいして変わらない。
    途中下車してゆっくりと宿に泊まったり、地域の人の話を聞いたりするのもいいものだ。
    というわけで、著者は地元にいる強みで一年半の間に十数回五能線に乗り
    地域の人の話を聞いて地域の苦労の歴史を考えたり、沿線の生活を
    思ったのであった。
    この本の出版社の月刊誌に連載した記事をまとめて出版した。
    (著者の述べていることはまことによろしいのだが、やはり途中下車してそぞろ歩きをするには時間と費用が少々かかるから、私としてはリゾートしらかみで駆け抜けるしかない。ただ、そういう慌ただしい旅では知らない地域の歴史や文化を、この本で学び少しでも穴埋めしたい)

    能代駅で降りて歩くと、海岸で釣り人に会い
    その人から聞くともなく聞いた話
    子や孫が家に集まって還暦の祝いをすることになった。
    女房は孫たちの好きなまぜご飯をこしらえた。
    前の日から具を仕込んだりして一生懸命だった。
    女房がそのまぜご飯入れたお櫃を台所から食堂に運ぼうとして
    根太にけつまずいて転び、せっかく作ったのにぶちまけてしまった。
    カッとなって怒鳴りつけたら、女房も口惜しがって泣き出したから
    家を飛び出して床屋に行った。そして、まぜご飯の代わりにと
    思って寿司の出前をたのんで帰ったら、女房は台所で死んでいた。
    脳出血だった。転んだのは前兆だった。

    能代の開拓地
    昭和21年に34世帯の引き揚げ者が入植して
    戦時中に使っていた兵舎や弾薬庫で共同生活をはじめた。
    開墾しても収穫がなく将来を悲観して自殺者も出た。
    千葉出身のTさん満州に渡った。長女が生まれたが
    現地召集で兵役につく。敗戦で奉天で召集解除
    苦労として家族と再会するが長女は二歳で病死。
    日本に引き揚げてきて東京都の斡旋で能代市の開拓地に入植。
    水利が悪い、土地が痩せている、最初の年は収穫は皆無
    能代の篤志家たちが入植者の窮状知り食料を援助してくれた。
    翌年能代の製材所から特別配給で材木を譲り受け家を建てる。
    子どもも生まれ苦労しながら豚や鶏を飼い、数年後にわずかながら米も
    とれるようになる。
    食べる物にもことかくその日暮らしをしながら
    他にどこにも行けるところがないから頑張って苦労を続け
    なんとか落ち着いた。息子の代になり水田の転作で
    野菜栽培をしながら大豆や野菜を出荷しているという。

    七森のハタハタが最盛期の時はすごかった。
    特に昭和15年の時は最高だった。当時は乗組員が一ヶ月働いて
    20円ほどだったが、この冬は最盛期の一ヶ月でほぼ一年分の
    220円稼いだ船乗りもいたという。

    昔は白神山地に登山で入る人は少なかったが、世界自然遺産に
    登録されたことで注目され、遠方からも登山者が訪れるようになった。

    森田村にある弥三郎節の歌碑
    江戸時代末期、鶴田町大開から木造新田下相野の弥三郎の家に嫁が来たが
    弥三郎の親と気が合わずこき使われたあげく離縁されたという嫁いびり。
    その後は下相野は森田村に編入されている。
    弥三郎嫁いびりだんご 
    だんご屋の栞に「....なお、現在当地に嫁いびりの風習はなく、
    また意地の悪い姑もいないことを念のために申し添える....」
      (おしんのブームのときには、佐賀県には嫁いびりはありませんとPRがさなれていた)

    木造町吹原の弘法寺 たくさんの人形をお祀りしている。
    お堂の中にたくさんの人形が祀られている。
    ガラスケースに大振りな花嫁人形を納め、そのわきに
    若くして亡くなった男性の写真が飾られている。
    太平洋戦争で戦死した青年の親が、不憫な息子に嫁をもらって
    あの世で安らかに暮らしてほしいとねがった。
    いまは交通事故や病気で若死にした若者のものが多いという。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーー

    この本には車窓からの眺めについてはあまり書かれていない。
    地域の人々の苦労や暮らしが庶民の目の高さから書かれている。
    都会から来てリゾートしらかみで走り抜ける人々には決して見えない世界であろう。


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