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  • [No.16371] Re: 白川淳:全国保存鉄道、日本交通公社 投稿者:   投稿日:2011/01/03(Mon) 20:17
    [関連記事

     みなさん、おめでとうさんどす。

    > 見ているだけで楽しい本である。
    > 1993年の本なので現在はだいぶ事情が変わっている。
    >
    > いろんななつかしい電車の写真
    >  名鉄(明治村に行くのに便利)
    >  博物館明治村の京都の街を走ったN電
    >  ストープ列車(津軽鉄塔)
    >  都電荒川線
    >  広島電鉄の路面電車は日本一
    >
    > 博物館・記念館
    >  青函連絡船のメモリアルシップとして八甲田丸と摩周丸
    >  青梅鉄道公園
    >  地下鉄博物館(ここはまだ見ていないが行ってみたい)
    >
    > 保存されるべき鉄道や記念館も、維持管理を続けるには人間の強い意志が必要のようである。

     鉄道はイギリス発祥の物と云う事の為か、保存鉄道や鉄道資産は、
    桁外れにイギリスには多いみたいですわ。
     これらを使った、特別の貸し切り列車も。数本/日で運転されてまっせ。

                                   Toshichan in Kyouto-fu


    [No.16370] 土木博物館めぐり 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/03(Mon) 15:48
    [関連記事

    > 博物館・記念館
    >  青函連絡船のメモリアルシップとして八甲田丸と摩周丸
    >  青梅鉄道公園
    >  地下鉄博物館(ここはまだ見ていないが行ってみたい)

    似たような内容の博物館をまとめたものがある。
    土木学会編「土木博物館めぐり」(1996)である。
     東京都水道歴史博物館
     下水道科学館(大阪市)
     大利根博物館(千葉県)
     木曽川文庫(愛知県)
     水と緑の館(岐阜県)
     信濃川大河津資料館
     琵琶湖疎水記念館
     横浜水道記念館
     地下鉄博物館(東京都)
     青函トンネル記念館
     佐久間レールパーク(静岡県)
     明石海峡大橋展示館
     大鳴門橋架橋記念館
     東陽村石匠館(熊本県)
     神戸海洋博物館
     小樽港資料館
     地すべり資料館(新潟県)
     伊豆大島火山博物館
     浅間火山博物館
    この「土木博物館めぐり」には下記のような博物館も紹介している。
     江戸東京博物館
     博物館明治村
     平城京跡資料館・遺構展示館
     吉野ヶ里歴史公園
     国立歴史民俗博物館
     横浜開港資料館
     人と自然の博物館(兵庫県)
     国立科学博物館
     北海道開拓記念館


    [No.16369] Re: つらくて楽しい添乗員 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/03(Mon) 09:17
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    > > > 稲井未来「セカンドクラスの添乗員」(2003)
    > > > この本を図書館で見つけて借りてきました。

    こんどは忘れ物の話です。

    時間がないから要点だけメモ書きです。
    ・「忘れ物をしても手元に戻る確率は大変低い。歯ブラシ一本届けてもらうにしても手数料として一万円くらいかかる。くれぐれも忘れ物をしないように注意してください」と毎回注意しても忘れ物はなくならない。そのつど添乗員は走る。あきれる。怒る。
    ・添乗員が絶対忘れてきてはいけないものはお客様。夕食後、一行がホテルに到着。翌日も同じバスなので、ドライバーも添乗員もバスの中の忘れ物チェックをしなかった。翌朝ドライバーは準備のためバスへ乗り込むと、何とかバスから脱出しようとしていたお客を発見。このお客は夕食で酒を飲みすぎバスで寝込んでしまったらしい。一人参加で誰も気がつかなかった。
    ・バスが国境近くに来る。出発前に全員ちゃんとパスポートをもっていることを確認してから国境に向かったのだ。反対車線は交通渋滞。という場面で、一人のお客が添乗員に近づきパスポートをミニバーに忘れてきたことを小声で白状する。いまさら引き返すにしても戻るのは交通渋滞が目に見えている。ホテルに電話してパスポートを確保して渋滞の反対車線をのろのろ運転でホテルに逆戻り。約二時間のロス。しかし、お客は他のお客にも、ホテルにも、ドライバーにも添乗員にも「ありがとう」も「ごめんなさい」もなし。ただ「あったあった」と言うだけ。つい添乗員もわざと、手配会社にする携帯電話で日本語で大声で叫ぶ。「お客様がパスポートをホテルにお忘れになり二時間遅れることになりましたが、時間調整はできませんか」
    ・けさ出発したホテルのクローゼットにジャケットを忘れてきたお客、つぎのホテルはクーラーがききすぎてジャケットの忘れ物に気がついた。添乗員は明後日から二泊するホテルに届けてもらうよう手配したが、そのホテルに着いても届いていなかった。出発までに届くという添乗員の説明に「それじゃ困るのよ。ここに届くと言ったのはあなたでしょ。いつ送ったか、いつ着くか確認してちょうだい」とくってかかるお客は、ここは日本のような迅速サービスはしないイタリアだということを理解していない。当然ホテルに電話すると「昨日送った。そんな大事なものを忘れる方が悪い。これだけサービスしても不服なのか」と機嫌が悪い。翌日に届いたジャケットを受けとるのに送料を払わなければいけないということがお客には理解できないらしい。送料を払わなければ受け取れないのだと添乗員に言われ、しぶしぶ払うお客だった。
    ・一人のお客が、当然のせりふのように言う。「ガイドブックをお昼のレストランに忘れてきた。届けさせてくれ」いったい誰が届けてくれると思っているのか。この分では誰が届けてくれたとしても、チップどころか手数料すら払ってくれそうにない。「今日のフリータイムにタクシーでご自分でとりにいってくださいませんか」と言ってみるが誰かにとってきてもらうのがあたりまえと考えているらしい。でも、お客なのでほおってもおかれず、この添乗員は機転をきかせ個人的に現地の会社の社長と会う約束を思い出して、それに便乗してガイドブックを持ってきてもらうことにする。みんなの前でガイドブックを受けとったお客は、社長にも添乗員にも感謝の言葉はなく、家族に「ここまでわざわざ届けに来るとはな、なかなかやるじゃないか、この会社は」と言う。こうして礼儀正しい日本人神話は崩れていくと書いてある。
    ・いよいよ帰国という空港で、お客が青ざめた顔で走ってきた。「かばんを盗まれたんです。パスポートも財布も全部入ってるんです」トイレの個室にバッグを置き忘れたのに気づいてす急いで引き返したがなかった。その個室から人相の悪い女性が出てきたから盗まれたのだという。「落ち着いて考えてみてください。ほかの場所に忘れてきたとか、思い違いがあるかもしれませんから」「そんな大切なこと、間違うはずないでしょう。盗まれたんです」案内所には落とし物の届け出はなし。係員は添乗員にいろいろ質問してくる。しかし、本人でないから答えられない。ふりかえると盗難と騒ぐお客の姿はなく、少し離れた場所で他のお客たちとこの事件の話をしている。そんな場合ではないはず。係員はあきれ顔と添乗員に同情顔。「なくなったのは私のバッグではありません。お客様がいらっしゃらなければ係員の質問に答えられません。私から離れないでください」と言って係員ともに空港内の警察の所に行くと、またしてもお客が姿を消す。とうとう添乗員はこの困った婦人客のご主人に頼んで、夫婦二人が添乗員から離れないようにする。男性警官は女子トイレに入られないので添乗員が問題のトイレ個室に入ってバッグがないことを確認する。そうこうしているとき「チャペルに忘れ物があった」と女性警備員がバッグをもって入ってきた。「そうでしたわ。この部屋は何かなと思って、入ってみたんです。そうしたらお祈りをする部屋だったので、お祈りをしていたんです。すっかり忘れていましたわ」 だから、他の場所に忘れてきた可能性はないかと聞いたのに。


    [No.16368] 白川淳:全国保存鉄道、日本交通公社 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/03(Mon) 07:10
    [関連記事

    見ているだけで楽しい本である。
    1993年の本なので現在はだいぶ事情が変わっている。

    いろんななつかしい電車の写真
     名鉄(明治村に行くのに便利)
     博物館明治村の京都の街を走ったN電
     ストープ列車(津軽鉄塔)
     都電荒川線
     広島電鉄の路面電車は日本一

    博物館・記念館
     青函連絡船のメモリアルシップとして八甲田丸と摩周丸
     青梅鉄道公園
     地下鉄博物館(ここはまだ見ていないが行ってみたい)

    保存されるべき鉄道や記念館も、維持管理を続けるには人間の強い意志が必要のようである。


    [No.16367] 今日は何の日・1月3日 投稿者:   投稿日:2011/01/03(Mon) 05:37
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、1月3日
    瞳の日
    眼鏡・コンタクトレンズの業界が制定。
    「ひ(1)とみ(3)」の語呂合せ。

    戊辰戦争開戦の日
    1868(慶応4)年、戊辰戦争が始った。
    京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と薩摩・萩軍が戦闘したが、装備で劣る旧幕府軍は敗退し、5日後に徳川慶喜は海路江戸へ向かい、新政府軍は慶喜追討令をうけて江戸へ進撃した。

    1938(昭和13)年 俳優・岡田嘉子が演出家・杉本良吉と樺太を越えソ連に亡命

    1951(昭和26)年 NHKラジオで第1回紅白歌合戦を放送。1953年から大晦日に放送

    1959(昭和34)年 アラスカがアメリカ合衆国の49番目の州に昇格

    1972(昭和47)年「日米繊維協定」調印。日本の繊維製品のアメリカへの輸出を制限

    1993(平成5)年ブッシュ大統領とエリツィン大統領が「第二次戦略兵器削減条約」(START2)に調印

    今日の誕生日の花:スノードロップ
    花言葉:初恋のため息
    今日の一句:たのしきらし我への賀状妻が読み   加藤楸邨

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16366] Re: 有田芳生:私の家は山の向こう 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 08:40
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    > 有田芳生:私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実

    > 有田芳生:私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実
    >
    > テレサ・テンは1987年に香港の赤柱に住居を購入したが、1989年にパリの凱旋門から歩いて十分ぐらいのところにある家具付きワンルームを借りる。そして、1990年にはモンテーニュ大通りのアパルトマンを購入した。

    パリに暮らすテレサには14歳年下の恋人ステファンができた。
    寒い冬のパリをのがれて毎年二人はタイに暮らすのだが
    テレサが死んだのをステファンが知るのは外出先からホテルに帰ったときだった。
    彼はテレサの解剖はさせず、彼女の親族が台湾から駆けつけるまで、彼女のそばにいたという。

    ぜんそくの悪化による呼吸不全で亡くなったテレサだったが、生前によくそばで煙草を吸っていたステファン
    テレサの葬式には姿を見せずホテルで酔いつぶれていたステファン
    ステファンと暮らすようになってから、テレサは仕事よりも彼と旅行するほうが多かったなど、この著者もステファンはテレサにとって好ましい存在ではなかったことを言外に示している。

    テレサの親族からはステファンに相当な非難があったろう。
    しかし、何事もテレサが選んだことだったのだ。彼女がなぜパリに行ったのか、なぜステファンを選んだのか。
    それは本人しかわからないこと、もしかしたらテレサ本人にもうまく説明できなかったことかもしれない。


    [No.16364] 有田芳生:私の家は山の向こう 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 08:23
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    有田芳生:私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実

    テレサ・テンは1987年に香港の赤柱に住居を購入したが、1989年にパリの凱旋門から歩いて十分ぐらいのところにある家具付きワンルームを借りる。そして、1990年にはモンテーニュ大通りのアパルトマンを購入した。

    彼女が中国の古典詞に強い関心を持つようになったきっかけは、「淡淡幽情」というアルバムを制作したことにある。南唐や宋の時代の古典詞に現代の作曲家が曲をつけるという企画を温め、このタイトルを考案したのは、広告会社社長の謝宏中である。「淡淡幽情」は1983年に発売され、香港のレコード大賞にあたる「アルバム・オブ・ゾ・イヤー」に輝き、日本でも中村とうようから「音楽的にもテレサの最大傑作であり代表作」と高い評価を受けた。

    日本でテレサ・テンといえば、カラオケの演歌部門でベストテンに必ず入るほどの人気歌手だった。「つぐない」は死後もなお一年間に三百万回は歌われているほどである。彼女にはこの作品よりも売り上げの多い「時の流れに身をまかせ」や「愛人」「別れの予感」といった数々のヒット曲がある。
    こうした作品の印象から演歌歌手という狭いジャンルに閉じ込められたのがテレサ・テンでもあった。
    ところがテレサの世界は、中国語圏全体に広がっていた。日本での話題だけにとらわれていては、その全体像を歪めてしまうことになる。

    しかも現実の彼女は、音楽だけではなく、政治にも強い関心を抱いていた。香港在住のテレサの友人は、彼女が政治を話題にするのをしばしば聞いていた。
    「アメリカの大統領のスピーチは間違いが多いですね」と語ったこともあれ
    ば、中国や台湾をめぐる国際政治を話題にすることもごく普通だった。

    「香港を離れるにしてもどうしてパリだったのか」と訊ねると「やっぱりパリじゃないですか。アーティストとしてね」とうれしそうに微笑んだ。
    「パリは洗練されているというか、あまり優しくないというか。イタリア人やスペイン人ほど明るくないと思っていたんです。フランス人はちょっとスノップ。でも、アーティストとしては勉強になりますし、それに言葉がきれいでしょう。それでパリを選んだんです。いちばん好きなのはカンヌがある南フランスです。天気も好きですね」

    上で紹介したインタビューは、1992年7月広島で平和音楽祭に来日したときのもの
    「香港は優しいですね。うん、まず言葉が通じる。それに海鮮料理が最高に美味しい。すごくのんびりというか、贅沢な生活ですよね。パリは言葉もわからなくてとても寂しい。だから香港にいてもいいのですけれど、そのままで人生終わっちゃうなと思って。ちょっともったいないなって感じたので、チャレンジしようと思ったんです。それに天安門事件があって、なんか夢が覚めたみたい」

    テレサは香港で天安門事件に反対するコンサートをしたが、それで多くの学生が殺されたと思っていた。
    その後、彼女はパリで天安門事件に抗議するコンサートを計画していたのだが、なぜか中止してしまった。

    香港が中国に返還されることが決まったのは1984年
    だが、一国二制度方式による返還が合意されことをきっかけに
    87年ごろからアメリカ、カナダ、オーストラリアなど海外への移住が増え始めた。中国共産党の一党支配への不安があったからである。
    その危惧をいっきょに現実のものとしたのが天安門事件だった。中国への不信は、さらに海外移民を促すことになった。

    そのあと
    1994年10月仙台でのインタビューでテレサは語る。(これが最後だった)
    「私のこれからの人生のテーマは中国と闘うことです」
    彼女が翌年に香港で長い時間を取って話をすると約束したことは、半年のちの95年5月のテレサのチェンマイでの急死で実現しなかった。

    この本のタイトルの「私の家は山の向こう」とは
    天安門事件のあとに香港での北京の学生運動の民主化を支援するため
    5月27日に香港でのコンサートで唄った歌だった。
    すなわち「我的家在山的那一辺」という歌で、これは日中戦争当時、張学良から東北守備の放棄を命じられた東北軍の望郷の思いがそこには込められていた。その後、大陸から台湾へ逃れてきた兵士たちが1960年代に入り、歌詞を変え望郷の念にかられて歌った歌だった。
    かつての抗日歌が反共歌として生まれ変わったのである。

    天安門事件の起きた年にはベルリンの壁の崩壊があった。
    天安門事件が起こって東ドイツの中国大使館に対する抗議デモがやがてベルリンの壁崩壊につながったと、この本の著者は考えている。
    天安門事件の年の11月20日にテレサはパリに行く。フランス政府は中国からの政治亡命者が希望すれば積極的に受け入れた。
    天安門事件のあった年にドイツ統一が成立しベルリンの壁崩壊があった。この年はフランス革命から二百周年を記念する年でもあった。


    [No.16363] Re: 山下文男:昭和の欠食児童 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 07:55
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    > 山下文男:昭和の欠食児童 本の泉社 2010

     この記事を書くのに、パソコンが途中で動かなくなったり、 書いた原稿が消えてしまって、3度も書き直すことになった。まったく VistaというOSは困ったもんです。
     他の3〜4台のパソコンは Vistaにしなかったのだが、いろいろなファイルやソフトに対応するために、このパソコンは Vistaのままにしているのです。

    東北大凶作で
    ワラビを食べたり木の実をとったり、あるいは畑でとったばかりの大根をかじる少女たちの写真などが紹介されているが、これは当時の農村ではよく見られたことで基金でも何でもないのに都会生活者の誤解と偏見なのであろう。
    (中国の留学生と話をしていたとき、彼は都会出身者であったのだが、ある地方出身者の友人のことを話したとき、その友人の故郷では住民が畑で大根をぬいて食べていたと私に話してくれた。要するに彼が言いたかったのは、自分は都会出身であるが、その友人のいたところは田舎であって、畑からぬいたばかりの大根を食べるような田舎であるということ。中国人はこの例のように、自分の出身地の自慢をするが、他の留学生の出身地のことは評価しないものである。みなお国自慢をするわけです)
    ワラビも木の実も毎年、東北では季節のものとして食べますよ。

    この本には、馬と一緒に生活する農民の家の中の写真が、これも飢饉のためという説明がついているが、それも誤解であって、東北の地方によっては、馬小屋と住居が一体となっているから、生活空間のとなりに馬がいるのは普通のことだった(曲がり屋のこと)。

    この本には
    東北大凶作のときに、友人たちと相談して納豆売りをしてお金をため
    そのお金を東北に送った絵本作家の加古里子(かこさとし)のことを紹介している。
     (3年生の時)「折からの東北ききんを救うため」「ニュースか新聞の写真の影響だったのだろうが」、同級の友だち三人と語り合い「学校裏の納豆のお店のおかみさんに『東北の子にお金を送りたいから売らせて』くれと頼んだところ『えらい、おばちゃんも手伝うよ』と涙声になって協力してくれた」
    「来意をのべ、四人が交互に事情を話すとどこでも快く買ってくれた。こうして一週間後におばちゃんが精算してくれ、上がりを新聞配達の店にいって『送ってくれと頼んだ』」
    この話は、東北救済の美談の一つとして当時の新聞にも載っている。

    このほか、この本には
    東北の飢饉地への同情寄付を募る街頭募金活動の写真も載せている。

    加古里子は私も別のことで手紙を書いて返事をもらったことがありますが
    昨今は地震見舞いとか色々な名目で街頭で募金をしていますが
    どうもあれは被害者に関係なく、実際は自分たちの資金集めをしていることが少なくないから要注意です。 困った世の中になったものです。 


    [No.16362] 山下文男:昭和の欠食児童 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 07:13
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    山下文男:昭和の欠食児童 本の泉社 2010

    江戸時代から多くの飢饉があった東北では
    その気象条件から、昭和にも大凶作がたびたびあった。
    凶作報道に見るやらせと誤解について、この著者は怒りをこめて書いている。

    すなわち
    凶作で貧しい農民の子どもたちが年季奉公に出ていったのは真実であったが
    当時の新聞記事や学者の論文にあった、多くの娘たちが遊郭に身売りされた
    というのは誇張であった。
    たとえば
    教師が吉原にひやかしにいったら教え子がいたという話はつくり話であったし
    山形県伊佐沢村の役場に「娘身売の場合は、当相談所へ御出で下さい」という張り紙の写真は、救援物資や義援金の増額を企てて、役場と新聞社がしくんだ「やらせ」であった。
     この張り紙のおかげで大量の救援物資が各地から届いて、「村長は偉い」と近郷からも羨ましがられたという。

    「山形県史」にある
    「昭和初期の農業恐慌の時期から関東方面に、大量に婦女子が出稼ぎに行くようになった。その就職先は女工が一番多かったが、芸妓、娼婦になって行くものも少なくなかった」というのがこの問題の真実だったと著者は書く。

    当時、身売り娘と呼ばれていた娘たちの「その大部分が売春婦であった」などと決めつけて書いている有名な学者の執筆による大手出版社刊行の「日本の歴史」に対して、厳重抗議を何度もするが応じなかった。
    とうとう怒った著者は、それは中央公論社が昭和42年に刊行し、その後、文庫化された「日本の歴史」のNo.24「ファシズムへの道」であり、著者は大内力東大名誉教授であると書いている。
    出版社に手紙を書いても返事がないので、とうとう学会の名簿で調べて、大内先生に直接手紙を送ったら、つぎのような返事がこの本の著者のもとに届いた。
    「ご指摘のように少し誇張がされており、誤解を与えるような文章になっているようで、修正の機会があればなおした方がいいと思いますが、もう絶版になってそのことも久しく、また改訂版を出す計画もありませんので、何ともしようはなさそうです。ただ、直接に当時『醜業』といわれるような世界に入った娘たちのほか、女工さんとか女中さんとかになったものの中にも結局苦界に落とされざるをえなかって不幸な女性が多かったともいわれており、そのことも頭にあったこともご理解ください」

     これを読んだ著者は反論する。
    これは単なる「誇張」ではなく、「事実誤認」であり、女中や女工さんの中には苦界に身を落とした人がいたのは事実だが、それをいうならば、反対に苦界から自力で這い上がって幸せな生活に戻った女性も少なくなかったということもある。要するに、それもこれも、当時の新聞が、同情の名において垂れ流した一種の風聞によるものであって「その大部分が売春婦であった」などという誤った断定を合理化する理由には全くならないと述べておいた。そして最後に、改訂版は先生にその意思があっても難しいと思うが、もし、何らかの機会にこのことについて書くとしたら、その点はもっとあっさりと訂正なり修正なりしたほうがいいとも書いておいた。

    (これを読んで、活字になったものをことごとく信ずるのは間違いであることがわかる。また世の中には活字にならない真実もある。活字になったものはすべて真実で、活字に残らないものは真実ではないという態度は、真実から目を背ける態度であるということを示す一例でありました)
    (こういうことを知っているから始皇帝は、気に入らない書物をことごとく焼いたりしたのであった。活字になったものが一人歩きする怖さを知っていたから。我々は書物の怖さを知り、正しい使い方をしなくてはいけないのです)

    この本によると
    軍事費は国家予算の30〜45%をしめ年々増額されていった。
    その予算のしわ寄せが貧しい農民対策となって表れた。
    政府は、貧困の農村の解決を、自力更生や経済更正運動という、
    いわば精神運動におきかえ、
    欠食児童への給食費も国の補受金はぎりぎりの最小限におさえ、できるだけ民
    間の義援金や教職員の自己犠牲にたよって問題の解決をはかろうとした。
    すべては、軍事優先、軍事費優先のためであって、国に依存せず、足りない分
    はそれぞれの地方が努力し、自力でまかなって子どもたちに食べさせなさいと
    いうのが政府の基本姿勢だった。

    一例をあげれば、山形県では1934(昭和9)年の秋、欠食児童の急増によ
    り、学校給食を必要とする児童数が全校生徒の約三割にもなると予想される事
    態に至った。このままでは、予算が足りなくなって欠食児童に求職が出せなく
    なる。
    困った県下の校長らが集まって対策を検討した結果、県下約4000名の教師
    たちがそれぞれ俸給の1/100ずつ出し合って当面の欠食児童たちへの給食
    費に充てることにした。同様のことは岩手県の教職員組織でも行われている。


    [No.16360] 今日は何の日・1月2日 投稿者:   投稿日:2011/01/02(Sun) 05:36
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、1月2日
    初夢
    昔から初夢で1年の吉凶を占う風習がある。
    室町時代から、良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「永き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という回文(逆さに呼んでも同じ文)の歌を書いたもの枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。

    初売り,初商
    商店等は2日に店を開けて初売りを始める。
    最近では元日から店を開ける所も多くなって来た。

    初荷
    新年の商い始めの荷物。現在では仕事始めの4日ごろに荷物を送ることが多くなっている。

    仕事始め(農初め,舟の乗り初め,初舟,初山入り,山初め,縫い初め)

    書き初め
    年が明けて初めて書や絵をかく行事。
    書き初めで書いたものを左義長で燃やし、その炎が高く上がると字が上達すると言われている。

    1904(明治37)年 報知新聞が俳優・川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真

    1905(明治38)年 日露戦争の陸上戦のポイントであったロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落

    1955(昭和30)年 箱根駅伝がこの年から2日に往路、3日に復路の開催に

    1959(昭和34)年 ソ連が世界初の月ロケット「ルーニク1号」を打上げ。軌道が逸れて太陽を周回する人工惑星に

    1997(平成9)年 島根県沖の日本海でロシア船籍のタンカー「ナホトカ」が沈没。重油3700キロリットルが流出

    今日の誕生日の花:オモト
    花言葉:母の愛、長寿
    今日の一句:初夢の扇ひろげしところまで     後藤夜半  

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


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