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  • [No.15672] もしもし奥さん、ネコはゴミですか? 投稿者:   投稿日:2010/08/24(Tue) 21:12
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    と思わず聞いてみたくなる、チョッとひどい風景。見た後は、こういうひとの子供や孫のことがにわかに心配になってくる。

    http://video.corriere.it/?vxSiteId=404a0ad6-6216-4e10-abfe-f4f6959487fd&vxChannel=Animali&vxClipId=2524_4a3b09ae-aee2-11df-92e9-00144f02aabe&vxBitrate=300


    [No.15671] 池田維:カンボジア和平への道 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 10:52
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    カンボジア、ポル・ポト革命など、何冊か本を読んできましたが
    この本は政府側の立場の本です。

    副タイトル
    「証言 日本外交試練の5年間」

    カンボジア和平の過程は、大別して三つの局面に分けて考えることができるだろう。
    第一は、政治・外交交渉とその結果としての合意形成の局面であり、第二は、国連による平和維持活動(PKO)の局面であり、第三は、カンボジア新政権に対する人権・難民支援、経済支援などの局面である。これらは本来、相互に密接に関連しあって和平の過程を形作ってきたものである。

      (中略)

    カンボシアにおけるPKOへの日本の参加は、国際協力という角度から見る限り、日本は総参加国約100カ国の一国であった。またUNTAC要員2万2000人のうち、わが国からのべ1300余名が参加しただけであった。
    しかし、日本の外国努力という角度から見れば、第二次世界大戦後の日本外交において、一つの分水嶺となる一大事業であったことは、いまさら他言を要しないだろう。

    二人の日本人の尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであったが、なんとか日本のPKO派遣要員は、もっとも困難な時期において、カンボジアから撤収するという道をたどることなく、カンボジアに踏みとどまった。そして、その選択が正しかったことは、選挙の実施、新政権の樹立、カンボジア国民の日本人派遣に対する評価などの数々の事実によって裏づけられた。
    もし、もっとも困難な時期において、日本が撤収の道をたどっていたとしたら − そしてそのことは、もう遠い昔のように忘れられているが、当時、野党や一部報道機関によって強力に主張された − 日本外国の信頼性は、今頃地に墜ちていたことだろう。
    また、それは日本の信頼性にとどまることなく、UNTACの活動そのものに悪影響を及ぼして、場合によっては、UNTACの活動を瓦解させるきっかけとなっていたかもしれない。
    そして、そのことは選挙遂行に反対していたクメール・ルージュの乗じるところとなっていたことは間違いないだろう。すぎさったこととはいえ、あの当時の薄氷を踏むような危うさと日本政府の行った選択を、もう一度よくかみ締めてみる必要があろう。

    他方、PKO派遣要員として派遣された人々の安全性の問題をいかに考えるか、という点について、カンボジア和平への参画は、今後にいくつかの反省材料を残した。PKO派遣要員には可能な限りの安全を講じるとしても、危険は常に隣り合わせではないのか、そしてそのことを政府の側は率直に認める必要があったのではないか、国連傘下での参加である以上、日本人だけが特別の安全策を講じることは果たして可能か等など、については今後の論議に待たなければならない。

    ただし、カンボジアの経験を経て、自衛隊の派遣が「国連傘下のものであっても軍国主義復活に通じる」といったようなステレオタイプの批判だけは、内外からほぼ姿を消した。
    このことは、カンボジアにおけるPKOへの傘下がもたらした大きな成果の一つといわなければならない。

    むしろ、シンガポールをはじめ東南アジアのいくつかの国が、一時撤収論が日本国内において真剣に議論されつつあった1992年5月ころ「日本は犠牲にめげず、カンボジアに最後まで踏みとどまるべきた」と訴えかけたことが印象的だった。
    中国、韓国を含むアジア諸国をはじめ、国際社会は今日では例外なく、日本がカンボジアで行ったPKOへの貢献に積極的評価を与えている。
    そして何よりも、日本のPKOへの協力が、全体として、カンボジア政府関係者と一般のカンボジア国民によって高く評価されたことは、わが国にとって初の事業であっただけに、今後の同種の協力に対して、励みと支持示を与えることになった。

      ----------

    カンボジアには多数の地雷が埋められていた。
    地雷を作って売ったのは日本以外の大国である。中国やソ連や他の国などである。
    日本が地雷を取り除くノウハウをもって現地で作業をしたことは忘れてはならない。


    [No.15670] ポル・ポト革命史 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 10:00
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    ポル・ポト革命史
      山田寛著  講談社  2004

    人口800万人足らずの小国で、推定150万人もの国民を死なせた。
    ポル・ポト政権は教育をほぼ全面否定した。その後遺症は大きい。
    (軍事政権下のミャンマーも教育者研究者にとっては暗黒時代、私の知っている研究者はオーストラリアに逃げて大学教授として生活している)

    民族解放という名前だけで、日本の文化人は応援した。中身も知らないのに。

    1997、ポル・ポトは米ジャーナリスト、ネト・セイヤーに語る。
    フランス留学中は本を読んでいた。インドのガンジーの運動の本も読んだ。(彼のしたことはガンジーとは正反対だ)
    比較的裕福な農家に生まれた。姉は国王夫人の一人だった。

    シアヌークは信長によって飾り立てられた足利義昭将軍みたいなもので、信長に相当するのが中国だろう。
    中国はシアヌークを利用したのだろう。中国の狙いは、カンボジアをはじめ東南アジア支配だから。
    ベトナムが長い民族独立の歴史を誇るとき、宿敵は中国だろう。

    クメール・ルージュ兵士に不満をぶつけたり、兵士と口論して、連れ去られ殺された者は多い。

    1975年頃、シアヌークは周恩来に語る。
    「内戦勝利後はクメール・ルージュとは協力できない」
    周恩来はそれに理解を示しながら
    「今それを公表したら、殿下の大儀のために戦っている人民がたちまち戦意を失い、ロン・ノルとアメリカに負けてしまう」と釘をさした。
    毛沢東も、シアヌークとクメール・ルージュは分裂しないほうがよいと言った。
    シアヌークとクメール・ルージュの仲介の労をとった金日成を、シアヌークは世界一の親友と呼んだ。
    シアヌーク危機の時、中国は彼を北京に招く。シアヌークはポル・ポト派のために国連の演壇に立った。中国はシアヌークを利用した。シアヌークも中国もベトナムの圧力を感じていたから。

    ポル・ポトの発言
    僧侶は寄生虫であり、黄色い衣裳の怠け者で、売春婦と同じで生かしておいてもためにならない特殊階級。いかにも共産主義。
    (ポル・ポト時代迫害され消滅したかにみえた仏教は、また奇跡的に復活した)

    1976、選挙において新人民はほとんど投票が認められなかった。
    ポル・ポトは北京訪問で大歓迎を受けた。

    カンボジアの工業は弱い。朝鮮は日本が投資した工業基盤があった。
    とポル・ポトは認めている。
    (これを聞くと朝鮮半島の人々は怒るかもしれないが、歴史的事実であると著者は述べる)
    (中国大陸、台湾、朝鮮半島にインフラ整備した戦前の日本。日本本土より外地に金をかけた)

    こども看守に毎晩イソップ物語を話して聞かせた元英語教師、楽しんだこども看守は、彼だけ殺さなかった。他の囚人は全員殺された。

    子ども医師、子ども看護師は毛沢東の裸足の医師の真似。子どもといっても二十歳くらいの若者を指す。

    アルコール遺跡修復・保存の専門家育成に取り組んできた石澤良昭上智大学教授は言う。
    若い頃カンボジア国立遺跡保存事務所でともに研究した30人あまりの研究生は、ポル・ポト時代に殺された。いま後進のカンボジア人専門家を育てることが、彼らへの鎮魂である。


    [No.15669] なぜ同胞を殺したのか 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/24(Tue) 09:46
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    なぜ同胞を殺したのか
      ポル・ポト 墜ちたユートピアの夢
        井上恭介・藤下超  NHK出版   2001

    ポル・ポト(サロト・サル)はパリに留学し共産主義を学んだはずだったが、その理論は空想的だったようだ。
    計画性もなく具体性にも乏しい政策、思いつきで人々を強制移動させ強制労働させ、反対者は命を奪って口を封じたようだ。

    自分に逆らうものはすべて殺したポル・ポト、ふりかえれば、スターリンみたいな面があったということ、毛沢東にもそんな面があった。
    ポル・ポトにはスターリンや毛沢東のような光の部分が少ないから、暗い面ばかり目立ってしまう。

    コンポントム州のイスラム教徒チャム族はポル・ポトにより強制移住をさせられた上、豚を無理矢理食べさせられた。食べなければ殺された。

    フン・センがポル・ポトからの粛清を避けてベトナムに逃げ込み、ベトナムはフン・センたちを助けてカンボジア侵攻を計画する。
    そうなると
    ベトナムを支援するソ連に対抗するため、中国はポル・ポトを支援する。

    政権奪取後 ポル・ポトはシアヌークを幽閉し、一方中国はポル・ポト政権に経済顧問を派遣し「パトロン」として振る舞いながら、アメリカとの国交回復という歴史的大転換を画策していた。

    アメリカは人権重視を掲げるクリントン政権下でポル・ポト派幹部たちの責任追及に執念を見せ始めていた。
    旧ユーゴでの民族浄化とルワンダでの虐殺をめぐって国連主導の国際法廷が設置され、それなりの成果を上げようとしていた。
    ポル・ポト死後に、アメリカはポル・ポト政権時代の大量虐殺に係わった幹部を沙漠国際法廷設置を国連安全保障理事会にに提出した。
    中国は、ポル・ポト政権への中国の関与が国際法廷で明らかにされるのを怖れて反対した。

    大国の都合で振り回され続けてきた小国カンボジアの歴史。

    読んでもさっぱりわからない本だった。
    内ゲバ、ポルポトの狂気、ベトナムとの昔からの対立、タイとの関係も原因のひとつ。

    1863 カンボジアがフランス保護領
    1940 日本軍北部仏領インドシナ進駐
    1941 日本軍カンボジアを含む南部仏領インドシナ進駐
    1945 3.9 日本インドシナ駐留フランス軍を武装解除
       3.12 シアヌーク国王カンボジア独立宣言
       8.15 日本降伏
       10 フランス軍カンボジア再植民地化
    1946 フランス軍とベトミン武力衝突 第一次インドシナ戦争勃発
    1949 サロト・サル パリ留学
    1953 シアヌーク カンボジア完全独立宣言
    1954 第一次インドシナ戦争終結
    1963 サロト・サルらクメール・ルージュ幹部プノンペン脱出 ベトナム国境を拠点に地下活動入る
    1964 アメリカ ベトナム戦争に直接介入
    1968 クメール・ルージュが武装闘争開始
    1969 米軍カンボジア領内の秘密爆撃開始
    1970 3.18 ノン・ノルによるクーデター シアヌーク国家元首から追放
       3.23 シアヌーク 民族統一先生結成 カンボジア内戦勃発
    1973 アメリカと北ベトナムがパリ和平協定に調印 ベトナム軍カンボジアから撤退始まる
    1975 4.17 クメール・ルージュ プノンペン制圧
       4.24 ポル・ポトらプノンペンで開放記念式典開催
       4.30 サイゴン陥落 ベトナム戦争終結
       10 米増産のためプノンペン周辺から北西部へ新人民強制移動
    1976 4.14 ポル・ポト首相就任 シアヌーク国家元首解任 キュー・サムバン国家元首に
    1976 9.20 ポル・ポト首相辞任 ネイ・サランら古参有力幹部の粛清始まる
       12.20 ポル・ポト党内の敵の粛清支持
    1977 6.20 フン・セン粛清を避けベトナムに逃亡
       12 ベトナム軍戦車舞台が警告のためカンボジア東部に侵入
    1978 8.6 東部の住民数十万人北西部に強制移動
       10 北西部に移動させられた東部住民の組織的大量虐殺始まる
       11.3 ベトナム ソ連との友好協力条約締結
       12.15 米中国交正常化発表
    1993 カンボジア王国発足 シアヌーク国王就任 
    1997 6.18 ポル・ポト 派内で失脚 タ・モクに逮捕される
       7.6 フン・セン派部隊がプノンペン制圧
    1998 4.15 ポル・ポト死亡
       11.30 フン・セン首相就任
    2000 カンボジアと国連で特別法廷設置で合意


    [No.15668] 今日は何の日・8月24日 投稿者:   投稿日:2010/08/24(Tue) 05:34
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、8月24日
    大噴火の日,ポンペイ最後の日
    西暦79年、イタリアのヴェスビアス火山が突然噴火し、麓のポンペイの市街が約8メートルの火山灰により埋没した。
    1738年に農夫がこの遺跡を発見し、発掘により当時の町の様子がそのまま出現した。歴史小説家リットンの『ポンペイ最後の日』は、この大噴火を題材にしたものである。

    ラグビーの日
    1823年、イングランドのパブリックスクール・ラグビー校で開かれたフットボールの試合中に、興奮した生徒・ウィリアム・エリスがルールを無視してボールを抱えて相手チームのゴールへ突進した。これがラグビーの発祥であるとされている。

    1938(昭和13)年 東京大森の上空で日本航空輸送の輸送機と日本飛行学校の練習機が空中衝突。救助活動中に爆発し死者70人

    1949(昭和24)年 「北大西洋条約」発効。NATOが発足

    1962(昭和37)年 三宅島が22年ぶりに大噴火。住民1800人が島外に避難

    1968(昭和43)年南太平洋でフランスが初の水爆実験

    1991(平成3)年 ソ連のゴルバチョフ大統領が書記長を辞任し、共産党中央委に自主解散を勧告。ソ連共産党が事実上解体

    2006(平成18)年 冥王星が惑星からはずされる

    今日の誕生日の花:カラスウリ
    花言葉:よき便り
    今日の一句:垣に咲きあるじも知らずからすうり   水原秋桜子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15667] Re: 盗まれ癖 投稿者:   投稿日:2010/08/23(Mon) 15:55
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    >  じつは昨土曜、エジプトの首都カイロの近代美術館(ナイル川左岸にある)でゴッホの、米ドル貨換算で5000万ドルにもなる「ひなげし」という題の絵画が盗難にあった。

    紋爺探偵の推理。まず、ひとつは盗まれたのが当日ではなく、前夜であったかもしれぬこと。第2に、当日だとすれば、観覧車はロシア人、スペイン人、イタリア人に限られるので、主犯、または共犯者は、かならずこの中にいること、とするとすでに絵は犯人の手を離れ、べつの人物に渡っていること、第3に、美術館の関係者に犯人ないし、幇助者がいること。小説などではよく館長や、美術鑑定人、美術評論家などが加担している場合が多い。

     
     


    [No.15666] Re: 音楽力 投稿者:   投稿日:2010/08/23(Mon) 11:43
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    > 日野原重明と湯川れい子が、それぞれ音楽の効能を述べている。
    >
    > もし、言葉を使うことだけで、人と人の心がコミュニケーションできるならば、音楽などはなかったし、音楽が生まれる必要もなかったでしょう。
    > (米国でミュージック・セラピーを最初に提唱したガストンの言葉)
    >
    > 脳卒中になってから二年間失語症になってしまった患者に対して
    > 日野原先生は主治医に
    > 「音楽療法のテストだから、難しいと思うけど、患者さんを貸してください」と言った。
    > 主治医は
    > 「日野原先生、二年間言葉が出ないんですよ。今さら」と言ったが
    > 「でもまあ」といって音楽療法をしたのだった。
    > どうやらその患者はカラオケが好きだったようで、奥さんに
    > 「何の曲が好きでしたか? 得意な曲はありましたか?」と尋ねて、その音楽をかけた。
    > しばらくすると、曲に乗って
    > 「アー」と声が出てきた。さらにもうしばらくすると、歌に言葉が乗ってきた。
    > 日野原先生も驚いて
    > 「あー、歌は歌えるね」と言ってあげて、部屋に帰ったのだが、なんと部屋に入ってきた看護婦さんに
    > 「ありがとう」「おはよう」と言うではないか。言葉が二年ぶりに出たのだった。
    > まさに奇跡的なできごとだった。
    >
    > もう一つの例として
    > 日野原先生と高校の同級生だった患者がいる。日野原先生の名前も、3+5もわからない痴呆の患者であるが、驚くことには母校である第三高等学校の寮歌を何番もズーッと歌いだしたのだ。
    > 「時間がないから最後はどうなの?」と言うと、十何節もある歌の最後をしっかりと歌ったという。
    > 日野原先生は寮生でなかったから、長い寮歌を覚えていなかったが、痴呆の人が、日野原先生の歌えないような歌を曲と一緒に歌うのであった。
    > 痴呆の人だからといって、何でもかんでも痴呆なわけではないのである。

     音楽については、ノーベル賞学者の、ブライアン・ジョセフソン氏は、
    「音楽という現象の本質は何か?について、生命を支配する原理と心を支配するに密接な関係がある、」
    という、仮説をたててられるようです。

     読んでも良く分からないけどーーー。

     「科学は心霊現象を如何にとらえるか?」という本に、ごちゃごちゃと書いてあったけどーー。

                                 Toshichan in Kyouto-fu


    [No.15665] 記憶すること・記録すること 投稿者 投稿者:男爵  投稿日:2010/08/23(Mon) 06:23
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    歴史文化ライブラリー
    香月洋一郎:記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート

    聞き書きによる記録とは、きわめて恣意的な性格を持つ資料である。

    宮本常一のほめる
    聞き上手岩倉市郎
    岩倉は一ヶ月かかって良い語り手を見つけ
    聞き上手で、相手に思うように話させる人であった。

    宮本の言葉
     話というものは語り手が年を取ってしまうとだめになることが多いんです。
    やはり自分に情熱があって、その情熱をぶちまけていく中で話が立派な「語り」になるのであって
    年取ってくるというと説明的になり、筋だけを話すようになる。いわゆる「話」になってしまう。
     生き生きした「語り」、そこには精(スピリット)があるという。語り手に力がこもっていれば行間から伝わってくる何者かがある。それを聞き取って文章にするとき、すくいとれないかもしれないのだが。

    旧家の聞き書きをすませた宮本に、地元の世話役が声をかけた。
    「あの家で話を聞かれたんですか。あそこの主人は自分の家に都合のいい言い伝えしか話さんでしょう」
    「それでいいんです。そうじゃなきゃ人間は生きていけません」
    宮本はそう返していた。
    著者自身が、ある考古学者から言われたことがある。
    「民俗学者って根性が悪いね。じいちゃんの話を感心して納得して聞いているようなあいづちをうっておきながら、一方で眉にツバつけてんだから。とてもあんなまねはできないよ」

    聞き書きするときはともかく聞いたことをそのまま記録して
    (あとで)資料の検証に慎重を期すのは当然のことであろう。

    進藤「宮本先生、民俗というのは別の言葉で言うと、古くから伝わってきたもの、ということですね」
    宮本「そうなんですがね、ひとつ条件がつくんですよ。自分はそれで生きてきた、という」

    舌は頭の知らないことをしゃべる(ロシアの諺)
    今から10年ほど前に
    ある人が「宮本常一の『土佐源氏』ってうそなんですって」と話しかけてきて
    続いて「ショックです」といったという。
    宮本の著作のなかで、おそらく最も知られていいるのは「忘れられた日本人」であろうが
    この書のなかでもっとも注目されてきたのは「土佐源氏」になろう。
    これは宮本が目の見えない老人から聞いたライフヒストリーをまとめたもので、内容の多くが女性遍歴であるからであろう。

    土佐源氏のなかにうそがあるというのは
    おそらく山田一郎の「土佐うみやまの書」を読んだからであろう。
    山田は土佐源氏の追跡調査を行い、その老人の生涯が必ずしもすべてが
    彼本人が語るような人生でなかったこと、また晩年は橋のそばの水車小屋で
    訪れて来るだれかれにも、おもしろおかしく広い世間を渡り歩いてきた体験や
    色ざんげや昔ばなしをして楽しんでおり、話は無類に上手で本当の話もあれば
    作り話も含まれていたことなどを、その老人の孫にあたる老人やむらの人たちから聞き
    報告されている。その文章が全掲書に収められている。

    その頃
    著者の身辺でもそのことが多少話題になった。
    反応ははっきりと二つに別れた。
    ひとつは前述したある人と同種の反応で
    もうひとつはけげんそうな表情をうかべて「それでなに」「だからなんなの」といった感じのものだった。
     この本の著者は後者の立場である。

    著者は宮本常一のフィールドでの姿勢や方法にひかれていた。
    「土佐源氏」を読んでそれをすべて事実として受けることより、
    この記録をもとに坂本長利が独り芝居を創り、講談の悟道軒圓玉が素話にしたてる、といった、ひとつの聞き書きが第三者に語りこまれて芸へと昇華していくさまに興味をひかれていた。

    --------------------

    語り手の嘘もまじる
    聞き書きの資料
    それでも
    使える資料もあるはずだから
    そのまま記録する。


    [No.15664] 今日は何の日・8月23日 投稿者:   投稿日:2010/08/23(Mon) 05:35
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、8月23日
    今日は処暑です、二十四節気の一、暑さが止み新涼が間近い。

    奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー(International Day for the Remembrance of the Slave Trade and Its Abolition)
    国際デーの一つ。1998年にユネスコが制定。
    1791年のこの日、フランス植民地のサン=ドマング(現在のハイチ)で、大西洋奴隷貿易廃止の重要なきっかけとなったハイチ革命が始った。

    白虎隊の日
    1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
    会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていた。会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていた。
    この日、飯盛山にいた白虎隊の二番士中隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津落が落城したものと思い、16人の隊員全員が自刃した。

    1859年 イギリスの貿易商グラバーが長崎・大浦にグラバー商会を設立

    1975(昭和50)年 中央自動車道・恵那山トンネルが開通。当時日本最長の道路トンネル

    今日の誕生日の花:ナデシコ
    花言葉:純愛、才能
    今日の一句:撫子につながる思ひいつも母  黒川悦子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15663] Re: 今日は何の日・8月22日 投稿者:   投稿日:2010/08/22(Sun) 23:31
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    みなさん、まいど。

    > 今日は何の日、8月22日
    > チンチン電車の日
    > 1903(明治36)年、東京電車鉄道の路面電車が新橋〜品川で営業を開始し、東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った。
    > 日本で初めて路面電車が走ったのは1890(明治23)年5月4日に上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内だった。また、日本で最初の一般の道路を走る路面電車は1895(明治28)年2月1日に開業した小路東洞院〜伏見京橋の京都電気鉄道だった。

     これ、去年も、上げたように、思いまっけど、京都電気鉄道は、車両は路面電車スタイルですが、
    当時の京都市と伏見市を結ぶ、都市間電車の草分けで、線路も一部は、道ばたに敷いてあったようでっせ。
     大袈裟にいうたら、新幹線の先祖ですわ。
                              Toshichan in Kyouto-fu


    | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 | 100 |


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