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  • [No.15483] Re: 「智恵子抄」の世界 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 18:54
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    白兎山人さん  こんにちは

    >   YouTubeには 近くに初代ローズの歌もありました
    >   中学の同級生で 卒業後バスガールになった女性がいます
    >   同窓会のとき ローズの「東京のバスガール」は
    >   バスガイドを馬鹿にした歌だ と言ってました

    この歌も丘 灯至夫作詞の歌ですが
    バスガールの応援歌だと思います。


    [No.15482] Re: 「智恵子抄」の世界 投稿者:   投稿日:2010/07/13(Tue) 14:46
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    > たった一人の鑑賞者のために、一生懸命に制作していた智恵子は
    > そのとき最高に幸せだったのかもしれません。

      なんだか ジーンとしました

    > 智恵子の生家の前を歩くと
    > 丘 灯至夫作詞の
    > 「智恵子抄」が流れてきます。
    > 二代目コロンビア・ローズが歌ったあの歌は、丘 灯至夫にとっても最高の作品だったようです。
    > http://www.youtube.com/watch?v=s7wr5I1I9kg

      YouTubeには 近くに初代ローズの歌もありました
      中学の同級生で 卒業後バスガールになった女性がいます
      同窓会のとき ローズの「東京のバスガール」は
      バスガイドを馬鹿にした歌だ と言ってました
      へぇ〜〜 なんで?
      被害妄想じゃないの?と思ったもんです 


    [No.15481] Re: 高田好胤 投稿者:   投稿日:2010/07/13(Tue) 13:44
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    千葉の小猿さん、男爵さん、みなさんこんにちは。

    高田好胤さんのことで思い出すのは、1997.5.31 「奈良新緑オフ」
    (「メロウフォーラム」)で薬師寺を訪ねた時のことです。
    当日、写経道場に使っていた本坊から偶然かどうか出て来られ、「
    パソコン通信の全国の仲間」と云うと大変に興味を示され、立った
    ままで、長々といろんなお話をされました。今、そのオフの出席者
    名簿を見ると懐かしい方々の名前も見られます。
    その後、金堂に向かわれ、本尊薬師如来像の脇でじっと座っておら
    れたが印象的でした。
    その数年後に亡くなられました。


    [No.15479] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 12:59
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    > > 妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

    (この原稿を書いているうちにパソコンの調子が悪く全部消えてしまって、再度書いたりしたので、こまめにアップするようにします)

    「女生徒」は、若い女性の一愛読者から送られたノートに拠っている。
    これはS子さんの昭和13年、19歳の、4月30日から8月8日までの日記で、伊東屋の大判ノートブックに、ぎっしり書いてある。
    肉筆の書き流しで、大変読み辛い。これを一読ざっと「可憐で、魅力的で、高貴でもある」(川端康成評)魂を、つかみとった太宰は、傍らにあった岩波文庫の「女生徒」から題名をとって八十枚まの小説に仕立てて「文学界」昭和14年4月号に発表した。
    太宰が印をつけて書き入れたりしているそのノートが残っているが、「女生徒」の書き出しと終わりの部分は全くノートにはない。
    そのころ太宰の家に遊びに来ていた塩月氏が、この女生徒の人と結婚したいから世話役をしてくれと太宰に頼んできた。
    太宰もまだ本人に会ったことがないから、昭和14年の年末にS子さんの家を訪問し、翌年早々に太宰はS子さんの母親に手紙を書いた。
    その中で、太宰と同じ年の友人塩月氏は東大美学科を出て東洋経済社の編集部に勤めていること、まじめな人物で、初婚であることなど述べて、塩月氏がS子さんと見合いしたいという希望を伝えている。
    さて、見合いは無事終わったのだが、塩月氏は、S子さんの体格がよすぎることを理由に、断りたいと言って、大変落胆していたという。
     ☆ S子さんの方が塩月氏よりも数センチ背が高かったらしい。
    今ならそういうカップルもいるが、当時はなかなか抵抗があったのだろうか。
    小説「女生徒」の印象では、誰でも小柄な女生徒をイメージしそうである。

    たけさんに美知子が初めて会ったのは終戦翌年の4月末であった。
     昭和20年7月  疎開していた甲府の妻の実家が空襲で全焼し、妻子を連れ津軽の生家へたどりつく。
     昭和21年11月  妻子とともに三鷹の自宅に帰る。
    兄文治は国会議員の選挙に当選したので、まだ春寒い4月に
    たけさんは当選祝いの挨拶や、祖母の見舞いや、また疎開中の修治も会いたくて、小泊から金木の実家に出てきて、津島家を訪れたのであろう。
    当時は太宰一家は離れに暮らしていたが、知らせがあって離れの奥座敷から出て行くと、母屋に一番近い座敷の外側の廊下で、たけさんが七つか八つくらいの女の子を連れてくるのと出会った。
    案外若いと思った、と美知子は書いている。あの津軽を読んだ私もなんとなくお婆さんと思っていたが、目の前にいるたけさんは、店番でもなんでもできそうな中年すぎのおばさんであった。それもそのはず、太宰より11歳くらい年上のたけさんは、そのときまだ50前だったのだ。
    たけさんと美知子が廊下で立ったまま挨拶していると、傍らの障子をあけて、書斎にいた太宰が出てきた。
    そして妻にほんの二こと三こと言葉をかけると、怱々(そうそう)に母屋のほうに立ち去った。
    たけさんに「よくきたな」とも言わず、笑顔も見せず。意外に思う美知子。
    たけさんは太宰のうしろ姿を眼で追いながら「修治さんは心の狭いのが欠点だ」と、これまた突拍子もないことを言った。
    妻も驚く、金木での太宰とたけさんとの再会。
    ここにも書いてあるように、美知子は現実と小説をごっちゃにしていた。
    「たけさん現わる」と聞き、「津軽」の終わりの方の、劇的場面が再現されるような期待を抱いていたのではないか。あの小説では久々の対面であり太宰の脚本も加わっていたのだ。そのことを妻は忘れていた。
    たけさんの語らんとする太宰の人物評は、妻も感心するくらい的を射ている。
    (もちろん、たけさんは常識人として、太宰をの欠点を批評するのである)
    そして太宰はすばやくその「人物評」が女房の前で、とりだされるのを予感して逃げたのだ。
    事前に一瞬の差で逃げ去った太宰も太宰だが、たけさんもよく彼の「人」を見抜いている。
    太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人で、できればいつも蒲の穂綿のような、ほかほかの言葉に包まれていたいのである。
    たけさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、きびしい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。
    一方で、たけさんの素直な、粗野な飾り気のない性格から、いつ耳に痛い言葉が飛び出すかわからないことを太宰は知っている。
    「思い出」と「津軽」に、たけさんが太宰に言った言葉として、「油断大敵でせえ」「たけは、本を読むことは教えたが、酒だの煙草だのは教えねきやなう」と記されている。
    育てた人は強い、と美知子は思う。こんなことが言えるのだから。
    たけさんの人柄は、美知子は後日接して知ったが、裏と表を使い分けできる、演出のうまい型ではない。
    太宰は「逃げるに如かず」と直感したのであるが、もしたけさんが「心が狭いのが云々」と言ったのを、太宰が聞いていたら、きっと「真向唐竹割りにやられた」という風に感じたであろう。
    うまく逃げて聞かなかったのは、かえってよかったのかもしれない。
      ☆ 感じたままストレートに言うたけさん。それを聞くのは太宰は辛いこと。
    小説「津軽」にあるような劇的な再会は、かなり太宰に劇味ショックを与えたのかもしれない。会いたくもあり、聞きたくない言葉も聞かねばならなかった太宰。
    妻はあのクライマックスをもう一度と期待したかもしれないが、太宰にとっては二度とはごめんという気持ちだったろうか。


    [No.15478] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 11:40
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    > 妻美知子の書いた本  人文書院  昭和53年

    昭和14年1月に太宰は御崎町の借家に移った。
    新婚夫婦が引越す前に、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの
    太宰にとって不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと
    妻美知子の実家の人たちにひやかされたが、その点は便利だった。
    酒の肴はもっぱら湯豆腐で「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と隣近所のうわさとなったという。
    太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯が悪いのと、何丁買っても高が知れているから豆腐を買うのであった。
     この家で太宰は待ちかまえていたように、美知子に口述筆記をさせる。
    「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合う」から始まったが、
    彼女は前半を全く読んでいなかったから唐突な感じがした。
    また今こそ珍しくないが、当時赤いコートなどはほとんど見かけなかったから
    揃いの赤い外套を着た娘さんから写真のシャッターを切ることを頼まれるところで
    赤い外套をほかの色に変えるように言おうかと思いつつ遠慮はて言わなくてよかった。
    赤いコートでこそ効果的なので、何十年も昔に、太宰はファッションの先どりをしていたことになる。
    「女生徒」では、下着の胸に赤いバラの花を刺繍したとあるのを、下着には白い刺繍の方がよいと思うと口出ししたのだが、これはよかったかどうか。

     ☆ 妻美知子は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業で高等女学校教師だったから、口述筆記をさせたことは適切だったであろう。
    今この本を読むと、富嶽百景のころには写真はモノクロであってカラー写真は珍しかったのではなかろうかと思う。
    下着には白い刺繍がふさわしいだろう。

    昭和20年2月末に、「惜別」237枚は完成した。
    空襲警報におびえ、壕を出たり入ったり、日々の糧にも、酒、煙草にも不自由し、小さなこたつで、凍える指先をあたためながらの労作であった。
    (戦局の緊迫した時期、太宰は最も緊張し仕事をした。資料集めのため仙台に行き多くの人に会って話を聞いた。土地の人から太宰は悪酔いしたと言われたのも、妻からすれば初めての人と酒を飲むので緊張したらしいと推察する)
    3月末に、妻と二児が妻の実家に疎開したとき、太宰は妻名義の郵便貯金通帳を作り、妻がかつて持ったことのない預金を入れて持たせた。
    これが「惜別」の印税であったと妻が記憶しているので、原稿とほとんど引き換えで支払われたのであろう。
     ☆ 「惜別」誕生のきっかけは、日本文学報国会が昭和18年、大東亜共同宣言の
    文学作品化を企画し、内閣情報局とともに執筆希望者を募ったこと。
    資料集めや切符人手、印税、用紙割り点てなどの便宜が図られる好条件で、執筆希望者は約50人に上った。
    太宰や高見順ら5人が選ばれたが、作品を完成させたのは 太宰と森本薫2人だけ。
    上記の妻美知子の記述のように、原稿は昭和20年2月に提出、9月刊行。
    取材のため訪れた河北新報社で取ったメモは、200字詰め原稿用紙14枚と厚手の紙などにぎっしり書かれている。
    うち3枚は「惜別」の構成案を書き込んだ創作メモであった。
    太宰治は「惜別」を書くため魯迅の資料を集めようと
    仙台の河北新報社、東北大学などを訪れ、関係者から取材したのであった。
    太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように
    「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。
    そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に
    価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」
    のであろう。
    しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容ではない
    ことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」「失敗作」などという評価を
    くだした。そのためこの作品は長い間葬られていた。
    近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から真価が語られるようになった。
    早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、日本の友人ら
    との交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、太宰なりの魯迅解釈である。
    友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」
    と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。
    ”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、魯迅に自分を重
    ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。
    当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を
    作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。
    学術的研究の伝記ものではなく、魯迅という題材をもとに文学の意味と
    自分の生き甲斐を訴えたかったのが、太宰治のいいたいことであったのだろう。
    (河北新報 1998年10月4日)


    [No.15477] Re: 「智恵子抄」の世界 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/13(Tue) 07:22
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    KAME(亀井)さん、こんにちは

    > 智恵子は病気になってから九十九里で療養しました。
    > 光太郎は毎週お菓子を持って東京からかよったそうです。

    > 九十九里には記念碑があります、千鳥と遊ぶ智恵子の詩が書いてあります。
    > 子供たちが近寄るとお菓子がもらえたそうで、お菓子をもらった人は今老人クラブで活躍しています。

    智恵子は
    昭和9年5月から昭和9年12月に九十九里で病気療養していたとのこと。
    それから智恵子は昭和10年に品川のゼームス坂病院に入院し
    昭和13年に結核で亡くなります。
    (戦災でアトリエが焼けたので、光太郎は花巻の宮沢家に疎開し、十和田湖畔裸婦像製作のため昭和27年帰京)

    この九十九里には
    東金からバスで行くようですね。
    地図で見たら
    竹久夢二の歌碑もあるようですね。

    近くの成東は銚子に行く時に通りましたね。
    銚子の海鹿島(あしかじま)に行って
    「宵待草」の歌碑を見た時は、わからなくて一時間以上も探しました。


    [No.15476] 今日は何の日・7月13日 投稿者:   投稿日:2010/07/13(Tue) 05:32
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、7月13日
    優生保護法の日
    1948(昭和23)年、「優生保護法」(現在の「母体保護法」)が公布された。
    戦前にナチスの「断種法」を元にして制定された「国民優生法」が、戦後の日本の状況にあわせて1948(昭和23)年7月13日に「優生保護法」に改正された。この法律により経済的な理由を含めた母性保護のための人工妊娠中絶等が可能となった。

    生命尊重の日
    医師・法律家・教育者・主婦等で構成される実行委員会が1984(昭和59)年から実施。1948(昭和23)年、「優生保護法」(現在の「母体保護法」)が公布された。「お腹の中から生命が尊重されること」を願って、講演等のイベントが行われる。

    オカルト記念日
    1974(昭和49)年、映画『エクソシスト』が日本で初公開され、オカルトブームの火附け役となった。

    ナイスの日
    「ナ(7)イ(1)ス(3)」の語呂合せ。
    ナイスなこと、素敵なことを見附ける日。

    1930(昭和5)年 ウルグアイで第1回サッカーワールドカップ開幕

    1977(昭和52)年 ニューヨークで大規模な停電。深夜から暴徒が出現し3千人以上検挙

    1985(昭和60)年 饑餓に苦しむアフリカの人々を救うロックコンサート「ライブ・エイド」開催。『We are the world』の大合唱でしめくくる

    今日の誕生日の花:カライトソウ
    花言葉:深い思い
    今日の一句:京染めの糸のひといろ唐糸草    伊藤敬子 

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15475] Re: 「智恵子抄」の世界 投稿者:   投稿日:2010/07/13(Tue) 05:15
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    男爵さん、今日は
    智恵子は病気になってから九十九里で療養しました。
    光太郎は毎週お菓子を持って東京からかよったそうです。

    >  毎日出ている青い空が
    > 東京には空が無い、と光太郎によく言っていたから
    > 高村光太郎はこういう詩を作ったのだということを知りました。
    >
    > この詩ができて50年もたったころ
    > 光太郎にしても智恵子との結婚が永遠の作品「智恵子抄」をつくることができたので
    > まあいい人生だったのではないでしょうか。

    九十九里には記念碑があります、千鳥と遊ぶ智恵子の詩が書いてあります。
    子供たちが近寄るとお菓子がもらえたそうで、お菓子をもらった人は今老人クラブで活躍しています。


    [No.15473] 「智恵子抄」の世界 投稿者:男爵  投稿日:2010/07/12(Mon) 09:47
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    大島龍彦/大島裕子編   新典社

    あどけない話
     智恵子は東京に空が無いといふ
     ほんとの空が見たいといふ。
     私は驚いて空を見る。
     桜若葉の間に在るのは
     切っても切れない
     むかしなじみのきれいな空だ。
     どんよりけむる地平のぼかしは
     うすもも色の朝のしめりだ。
     智恵子は遠くを見ながら言ふ。
     阿多多羅山の山の上に
     毎日出ている青い空が
     智恵子のほんとの空だといふ。
     あどけない空の話である。
        (昭和3年5月11日作)

    何も知らなかった(中学生の)私が
    この詩を読んだとき
    あどけない智恵子は子供だから
    東京の空と福島県の阿多多羅山の空とは違うと思ったのだろう
    子供はそんなものだと思ったのでした。

    それから私も大きくなって
    智恵子は時々里帰りして、やはり故郷はいい
    東京には空が無い、と光太郎によく言っていたから
    高村光太郎はこういう詩を作ったのだということを知りました。

    この詩ができて50年もたったころ
    上野駅に下りた私は
    東京の空も空気も、東北のそれとは全く違うことに気がつきました。
    感覚や感情が人より敏感だった智恵子は
    すでに未来の東京の空を予知していたのかもしれないと
    気がついたのです。

    この詩が書かれた翌年昭和4年には知恵の実家は破産し一家離散となり
    昭和6年に光太郎が三陸に取材旅行中に
    智恵子の精神分裂病の最初の兆候が現れるのを
    上京した母と姪の春子が発見するのです。

    昭和7年には智恵子はアダリン自殺未遂を起こし
    昭和8年には光太郎は智恵子を連れて療養のため草津温泉に連れて行きます。
    そして、それまで同棲していたのを智恵子の将来を考えて
    8月23日に智恵子を入籍する手続きをとります。

    高村光太郎と智恵子の結婚は、芸術家どうしの結婚で
    同じ方面を志す者どうしの結婚は、互いにライバル関係なので
    なかなか難しいとされています。
    智恵子は作品を文展に出したところ落選して
    プライドを傷つけられたため以後光太郎がいくら勧めても
    文展に出品しなくなったというのが定説ですが
    この本では
    光太郎も文展に関しては「浅薄卑俗な表面技術の勧工場」と酷評して
    出品していないので
    智恵子としては出品しなかったし、出品できなかったのではないかと推察しています。

    しかし
    智恵子は創作意欲は持ち続け創作活動は死ぬまであったのです。
    それは生家の知恵子記念館に展示されている紙絵です。
    智恵子がゼームス坂病院に入院したとき
    姪の春子が看護婦として付き添い身の回りの世話をしましたが
    智恵子の症状が落ち着いてくると
    智恵子は病室でハサミと色紙を使って紙絵の制作を始めるようになります。
    約2年間の間に千数百点もの紙絵を制作しています。
    その中にいくつは、福島県二本松市にある智恵子記念館に展示されているのです。

    紙絵の題材は、食材、花、魚、箸、スプーン、カップなどの身近な日用品から
    二人が暮らしたアトリエや、光太郎の木彫り「蓮根」「石榴」などの
    過去の記憶だけを頼りに作られたものもあったのです。
    ゼームス坂病院で食事が運ばれてくると、それを見た智恵子は創作意欲にかられ
    食事もしないで、紙絵制作にとりかかり、早く食べるようにと催促されることもあったそうです。
    そして、光太郎がくると、作品をはずかしそうに見せて
    光太郎の言葉をただ聞くだけであったそうです。
    たった一人の鑑賞者のために、一生懸命に制作していた智恵子は
    そのとき最高に幸せだったのかもしれません。

    というわけで
    世間的にみれば、悲劇的な愛に終わった彼らの人生であって
    もし智恵子が光太郎と結婚していなければ別の人生をおくったかもしれませんが
    光太郎との結婚で永遠に名を残すことになったし
    光太郎にしても智恵子との結婚が永遠の作品「智恵子抄」をつくることができたので
    まあいい人生だったのではないでしょうか。

    智恵子の生家の前を歩くと
    丘 灯至夫作詞の
    「智恵子抄」が流れてきます。
    二代目コロンビア・ローズが歌ったあの歌は、丘 灯至夫にとっても最高の作品だったようです。
    http://www.youtube.com/watch?v=s7wr5I1I9kg

    丘 灯至夫の作品は
     「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」「山のロザリア」「高校三年生」
    などがあります。


    [No.15472] 今日は何の日・7月12日 投稿者:   投稿日:2010/07/12(Mon) 05:48
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、7月12日
    ラジオ本放送の日
    1925(大正14)年、東京放送局(現在のNHK)がラジオの本放送を開始した。
    仮放送が始まったのはその年の3月22日だった。

    ローリング・ストーンズ記念日
    1962(昭和37)年、イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズがロンドンのクラブに初出演した。

    人間ドックの日
    1954(昭和29)年、国立東京第一病院(現在の国立国際医療センター)で人間ドックが始められた。

    洋食器の日
    日本金属洋食器工業組合が制定。
    「ナ(7)イ(1)フ(2)」の語呂合せ。

    1963(昭和39)年 新産業都市に岡山県水島市など13か所、工業特別地域に茨城県鹿島など6か所を指定

    1993(平成5)年 北海道南西沖地震(M7.8)。死者202人。大津波により奥尻島で被害甚大

    今日の誕生日の花:ヤグルマソウ
    花言葉:優雅、幸福
    今日の一句:日めくりの減るも涼しきひとつにて   正木ゆう子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


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