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  • [No.16197] 1日2合日本酒いきいき健康法 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/01(Wed) 11:46
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    著者の滝澤行雄は新潟大学医学部卒業で秋田大学名誉教授
    だから
    日本酒は飲むべしという考え方らしい。

    酒飲みを元気にさせる内容
    ・日本酒を愛飲する人は肝硬変になりにくい
    ・日本酒には発ガン抑制効果がある
    ・動脈硬化のリスクを軽減する
    ・虚血性心疾患の発症を予防する
    ・心筋梗塞の血液凝固防止に役立つ
    ・適度な飲酒は糖尿病患者の心疾患を予防する
    ・老化と痴呆の予防に役立つ
    ・日本酒には千種類以上の栄養素がたっぷり含まれている
    ・日本酒にはストレス発散効果がある
    ・骨粗しょう症のリスクを軽減する
    ・日本酒は胃液の分泌を高める名料理人
    ・不眠症に有用である
    ・日本酒は、日本文化の結晶であり、日本酒に親しむほどに歴史、文化、地方、環境問題などへの知識も豊富となり、精神的に豊かな生活が広がる。

    日本人の肝硬変の原因はウィルス性肝炎が7割である。
    日本酒を飲めるくらいの体の元気な人は肝硬変になりにくいということらしい。

    さくらももこによれば
    発ガン抑制効果のあるのは日本酒だけでなく、静岡のお茶もそうである。

    ほかの本にも書いてあるが
    ワインを全然飲まない人や飲みすぎる人にくらべて
    ワインを適量(1日に2〜3杯)に飲む人は心臓病やガンで死亡する割合が低い。

    まことに結構な本であるが
    ほかの本にあったように
    適量飲むことがその人に大切なことで、それは1日2合と決まっているものではない。
    人によっては1合かもしれないし、2合かもしれない。
     もしかしたら0.5号?

    日本酒の名称と品質
    吟醸酒、大吟醸酒は米、米こうじ、醸造アルコールを使用する。
    純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒は米、米こうじを使用する。
    本醸造酒、特別本醸造酒は米、米こうじ、醸造アルコールを使用する。
     戦前の日本酒は米、米こうじでつくられていた。


    [No.16196] Re: 眼で食べる日本人 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/01(Wed) 11:18
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    > 野瀬泰申:眼で食べる日本人
    >  食品サンプルの本です。

    それまで食品模型とか飲食物見本といっていたものを
    野瀬が英文パンフレットで解説したときから、食品サンプルなる言葉が登場したようである。

    > ・記録による限り、日本で最初に「料理模型」を製作したのは京都の西尾惣次郎で、それは大正6年ころである。

    西尾も博物館の人体模型つくりから始まったらしい。
    島津製作所で博物館用の模型つくりの仕事をする。

    > ・系統的な「飲食物見本」を陳列し今日のサンプルケースのもとになったのは対象12年にオープンした白木屋日本橋本店仮店舗食堂だった。
    > ・そのときの「飲食物見本」の製作者は須藤勉である。
    > ・当初のサンプルは植物や病理模型をつくる蝋細工の技術を基本としていた。

    須藤もやはり(博物館展示の)模型つくりから始めた。

    > ・「食品模型」の製作と同時に組織的販売を意図して実行したのは岩崎龍(さんずい)三である。

    岩崎は見よう見まねで独自の工夫で食品サンプルをつくっていったが
    いきつくところは同じだった。
    型は寒天でとり、その型に溶けたパラフィンを流し込んでつくることにおちついた。
    ほかの模型製作者たちが固まった蝋に絵の具で色付けしたのに対して
    岩崎は絵の具を混ぜてパラフィンを溶かし、それを固めたという。

    > 料理模型、食品見本は最初は博物館の展示模型の技術を転用されたものだった
    > というのは興味深いことである。

    医学には人体模型の制作という仕事があったから、この技術者のはたらく仕事があったのだろう。


    [No.16195] 檀ふみ:父の縁側、私の書斎 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/01(Wed) 11:05
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    無駄の必要度
    不思議なイタリア料理店
    どこが入り口かわからない。やっと建物の横にあるのを探し当てた。
    中に入ると、吹き抜けの広々とした空間、水がある、木がある、光が入る。
    そこは、いわば屋根つきの中庭だった。その庭を通りすぎて、階段を上るとレストランにやっとたどりつく。
    (変だとか不便だとか言わないように注意して)不思議な建物ですねとの著者の感想に
    店の女主人が苦笑いした。個人住宅を買ったのだが、普通のつくりではなかったため、レストランに改装するのが一苦労だったそうだ。
    「たとえば、あの電球...」と中庭の壁の上方についている電球を指し示し溜息をつく。
    「一個百円くらいのものなんですけどね、交換するのには百万円かかるんですよ。足場を組まなくちゃならないから」
      こんな建築は某東大教授だった人の作品、ちなみにこの教授は工学部の教授だが博士ではない。建築の世界は構造系なら博士でなくては教授になれないが、計画系では博士は必要ではない。
      このあと、電球が切れたら対応が不便な家のほかの例として、必要のないところに階段をつけて、しかも手すりをつけなかったため、あるとき著者がその階段から落ちて怪我をする話が書いてある。
       使う人のことを考えない建築家のワガママ、私は建築学会の会員でもあるが、建築には合理性をわざと無視する傾向がある。これはいかがなものかと思う。無駄とか建築家の個性といっても維持管理に莫大な費用がかかったり、そこに住む人が怪我をしては、目的を自覚していない設計者ということになる。使う人のことを考えない工業製品を作れば売れないだろうに。

    美輪明宏の言葉
    「ヒトってね、保護色なの」
    「マホガニーの壁、ふかふかの絨毯、観葉植物、名画、そういう立派なオフィスにいたサラリーマンがね、左遷されて、プレハブに蛍光灯の、味もそっけもないところで長いこと仕事していると、やっぱり、人間もなんだかそんなふうになってきちゃうの」
      服もその着ているとヒトと調和する。ヒトが着ている服に調和するのかもしれない。
      住まいとか環境に合わせるのが人間楽だから。
      西田幾多郎流にいえば、主体と客体が一致しているほうが心が穏やかになるということだろう。
      美輪明宏の保護色説は、人間の保身術ととらえたい。

    「戦後、日本人が失ったのは、縁側である」
    正確な言葉は忘れたが、森繁久彌がそんなことを言っていたと著者は書いている。
    縁側の文化のこと  縁側には、玄関ほどのよそよそしさ、ものものしさはない。勝手口のような、せわしなさもない。外に向かって、ゆったり、温かく開いている。
    「男はつらいよ」で、「母はね、寅さんのこと、好きだったのよ」と、亡くなった母親の心を明かしたのも、縁側だった。寅さんは、庭先で静かに聞いていた。ああいう話は、玄関ではしないだろう。秋の陽射しをいっぱいに浴びた縁側だからこそできた打ち明け話だったのかもしれない。
    季節と心を通わせる場所、家の中のようにくつろいで、外に向かえるとろこ。子どもにも動物にも愛される...。
    そんな場所を、戦後の日本人が本当に失ってしまったのだとしたら、こんなにさびしいことはない。
      シリーズ第18作 「男はつらいよ 寅次郎純情詩集|のことでしょうか。
      http://www.tora-san.jp/toranomaki/movie18/


    [No.16194] 12月メロウ伝承館便り 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 09:02
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     師走になりました。
     流感も流行りだしたそうですがお元気でお過ごしでしょうか。

     さて、メロウ伝承館ですが
     
     1.11月の投稿から

      『実録・個人の昭和史』
        
      ・被爆55年 忘れらないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―

       連載が終わりました。この記録はお読みになる方も辛いと思います。
       しかし、65年前に、この日本で実際にあったことです。


      ・38度線を越えた!

       戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集

       静岡県 青 木 輝様によるものです。

       戦後、シベリアへ抑留された方は多いのですが、
       子供の時にソ連に抑留されたという方は少ないようです。
       その貴重な体験談です。
       ぜひ、お読みください。


     2.「私の戦後史」を書いてください。
      
       メロウ倶楽部では、公開のページに「期間限定会議室」を設けております。

       ここでの12月と新年1月のテーマは「あなたの戦後は?」です。
       戦後から高度成長期(東京オリンピック)くらいまでの期間を考えています。
       戦前・戦中・戦後生まれのシニアは全国各地で
       様々な体験をして来られたと思います。
       この機会に「あなたの戦後は?」を色々お書きください。

       戦争直後の暮らし、特に食生活、学校、娯楽 など、
       「あなたの身の回りの戦後史」を、ぜひ書いてください。
       メロウ倶楽部の会員以外の方も、どうぞ、書き込んてぐださい。

       メロウ倶楽部のトップページ、左側「メニュー」より「(期間限定)あなたの戦後は?」
       からお入りください。

     
     3.一度、ぜひお読みください。

       すでに掲載されております投稿は「メロウ伝承館」のトップページの下のほうの
       「新着情報」からご覧いただけます。
       すべての投稿をご覧いただくには左端「メニュー」から
       「伝承館フォーラム」を開いてご覧ください。
       登録などしていただかなくても、どなたでもご覧いただけます。

     4.掲載・転載させていただく記録を探しています

       全国各地で、それぞれ戦前・戦中・戦後の記録を保存しておられると思います。
       自分史、町内会報、社内報、地域のミニコミ紙などに掲載されたもの    
       ウェブサイト・ブログなどからの転載をお待ちしています。
       公開し、末永く保存させていただきます。


     どうぞ、今月も、メロウ伝承館をよろしくお願い申し上げます。


    [No.16193] 今日は何の日・12月1日 投稿者:   投稿日:2010/12/01(Wed) 05:37
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、12月1日
    映画の日
    映画産業団体連合会が1956(昭和31)年に制定。
    1896(明治29)年11月25日、神戸で日本で初めての映画の一般公開が開始された。この会期中のきりの良い日を記念日とした。
    この日は入場料の割引等が行われる。

    鉄の記念日
    日本鉄鋼連盟が1958(昭和33)年に制定。
    1857(安政4)年、岩手県の釜石高炉(現在の新日鉄釜石製鉄所)が操業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった。

    "世界エイズデー(World AIDS Day)"
    世界保健機関(WHO)が1988(昭和63)年に制定。国際デーの一つ。
    エイズ問題への人々の意識を高めることを目的として制定された。

    いのちの日
    厚生労働省が2001(平成13)年に自殺予防活動の一環として制定。
    精神的危機に追い込まれ誰にも相談できずに1人で悩んでいる人たちのため、この日から1週間、無料の相談電話「いのちの電話」が設けられる。

    冬の省エネ総点検の日
    資源エネルギー庁が実施。
    1980(昭和55)年10月24日の総合エネルギー対策推進閣僚会議で制定が決定された。

    1873(明治6)年 郵便はがきを初めて発行。2つ折で1枚5厘

    1934(昭和9)年 丹那トンネル(熱海〜函南7804m)が開通。御殿場廻りだった東海道本線を丹那トンネル経由とし、元のルートを御殿場線として分離

    1941(昭和16)年 御前会議で、「ハル・ノート」によるアメリカの要求は受け入れられないとして対米・英・オランダ開戦を決定

    1958(昭和33)年 初の一万円札を発行開始。図柄は聖徳太子

    1997(平成11)年 地球温暖化防止京都会議(COP3)が開会

    今日の誕生日の花:エラチオールベゴニア
    花言葉:高貴
    今日の一句:棚吊ればすぐ物が載り十二月     岡本差知子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16192] 眼で食べる日本人 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/30(Tue) 13:14
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    野瀬泰申:眼で食べる日本人
     食品サンプルの本です。

    ここは画像が載せられないので、喫茶室のほうもご覧ください。
    http://mllwclb.b18.coreserver.jp/cgi-bin/bbs/danwasitu/wforum.cgi?no=33776&reno=33774&oya=33730&mode=msgview

    外国ではあまり見られないが、日本ではいたるところで活躍している
    食品サンプルは、いったい、いつ誰がつくったのか。
    著者は一生懸命調べます。関係者に会って話を聞きます。
    だいたい大正から昭和のはじめに、先人が苦労して試行錯誤をくりかえしながらつくってきたもので
    当時のことを記憶している人は少なく、なかなか記録もないのですが
    著者はできるだけ調査して整理しました。

    で結論的に書けば下記のようになります。
    ・記録による限り、日本で最初に「料理模型」を製作したのは京都の西尾惣次郎で、それは大正6年ころである。
    ・系統的な「飲食物見本」を陳列し今日のサンプルケースのもとになったのは対象12年にオープンした白木屋日本橋本店仮店舗食堂だった。
    ・そのときの「飲食物見本」の製作者は須藤勉である。
    ・当初のサンプルは植物や病理模型をつくる蝋細工の技術を基本としていた。
    ・「食品模型」の製作と同時に組織的販売を意図して実行したのは岩崎龍(さんずい)三である。

    この本によると
    関西で食品模型を知って、それを見ながら独自の工夫と技術で食品サンプルをつくった岩崎龍三が戦後に東京にも乗り込んで、子ども稔の代で大きく発展する。

    料理模型、食品見本は最初は博物館の展示模型の技術を転用されたものだった
    というのは興味深いことである。


    [No.16191] 林芙美子「放浪記」 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/30(Tue) 11:48
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    いま 江戸東京博物館で「林芙美子と東京放浪」の展示中です。
    http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/project/index.html
    >  2010年(平成22)は林芙美子の『放浪記』が刊行されて80年になります。
    >1930年(昭和5)の刊行当時、大ベストセラーとなった『放浪記』は、舞台化や映画化もされるなど、時代を超えて読まれてきた作品です。
    >昨年5月には、女優の森光子さんが2000回の舞台を踏んだ事でも話題となりました。
    >行商の両親に連れられて北九州を転々とした後、広島・尾道で青春時代を過ごした芙美子は、1922年(大正11)、恋人を追って上京するも破局。
    >ひとり残った東京で、事務員や女工、カフェーの女給などをしながらたくましく生きていきます。

    > 展示では、関東大震災を機に大きく変貌をとげた東京の様相や風俗も紹介します。
    >都市に一人で生活をする女性の先駆けとも言われた林芙美子の作品と人生をとおして、単身生活者が増加する東京の現在と未来についても考える機会にします。

    私は一時期、新潟県の雁木通りを見て回り
    直江津まで行ったことがあります。 とうぜん直江兼続に関する展示があり、それも見てきました。
    安寿姫と厨子王の像を発見して見てきました。
     陸奥(むつ)国の岩城判官正氏は讒言によって筑紫に流されるが、その子安寿姫と厨子王は母とともに父を尋ねて流浪の旅に出て直江津に至る。
     そこで人買い山岡太夫にだまされ、母は佐渡へ、二人は由良の山椒太夫に売られて、奴婢として酷使される。

    駅の近くに継続だんごの店があり、駅構内にも林芙美子の放浪記の中の一節が紹介され、継続だんごが宣伝されていました。
    このだんごを買ってきたのですが、いわゆる普通の団子ではなく日もちがするだんごで家族の評判はいまいちでした。
    帰ってから「放浪記」を読んだのですが、江戸東京博物館の展示を見て昨日
    改めて大学図書館の林芙美子全集1巻(文泉堂出版、昭和52年)を借りて読み直ししました。

    彼女の母親は、駆け落ちのようにして、彼女と彼女の父親の三人で鹿児島を出てきたのだが
    母は商売で成功して金持ちになった男に捨てられ、しかたなく母娘は実父の店の店員と暮らすようになり、この男が彼女の養父となるのです。
    貧しい行商人をして暮らしたので、毎日木賃宿の生活だったといいます。
    蛇足ですが、木賃宿(きちんやど)とは、江戸時代以前から、燃料代程度もしくは相応の宿賃で 旅人を宿泊させた最下層の旅籠のことです。

    のちに彼女が作家として大成し生活も安定すると、両親を引き取って世話するようになりますが
    長年の生活の習慣がぬけないのか、両親はだまって生活していればよいのに
    彼女からの資金で何か商売をして損をしてしまいます。そんなことを繰り返します。
    彼女はあきれて、母親にも父親にも内心あいそをつかすのですが、育ててくれた恩があるので死ぬまで世話を続けます。
    母娘のつらい生活の時期に、母親にも父と別れるよう彼女は言うのですが、理屈でわかっていても母は夫と別れられず、かえって娘に「あんなはむごいことを言う」とこぼします。

    乱暴な詩人の男と別れて、おだやかな画家の夫と結婚した林芙美子は
    以後は生活も心も落ち着き、作家としても成功します。
    男で苦労して最後は幸せな人生にたどりつき、いろいろな思いを小説に書いた彼女は
    もっと生きていたらまだまだ作品が残せたことでしょう。


    [No.16189] Re: 桂文珍:窓際のウィンドウズ 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/30(Tue) 11:11
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    > そこで考えて「ウィンドウズ96」に関する小噺をつくったという。

    窓際族と言われて
    会社でつらい立場に置かれる団塊世代のサラリーマンも
    四十代後半でインターネットを勉強しなければならない。
    窓際なのにウィンドウズを勉強するのは疲れる。
     窓際なのにウィンドウズというオチがあったのですね。


    [No.16188] 今日は何の日・11月30日 投稿者:   投稿日:2010/11/30(Tue) 05:36
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、11月30日
    シティズ・フォー・ライフの日(Cities for Life Day)
    世界500都市以上で行われる死刑廃止運動の日。
    1786年のこの日、神聖ローマ皇帝レオポルト2世がヨーロッパでは初めて死刑制度の廃止を宣言した。

    本みりんの日
    全国味淋協会が制定。
    「い(1)い(1)み(3)りん(0=輪)」の語呂合せと、鍋物などで本みりんを使う季節であることから。

    カメラの日
    1977(昭和52)年、小西六写真工業(現在のコニカ)が世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラ「コニカC35AF」を発売した。
    「ジャスピンコニカ」という愛称で呼ばれ、誰でもピンぼけせずに撮れるということで、それまでカメラに縁のなかった女性や中高年層の市場を開拓した。

    鏡の日
    「いい(11)ミラー(30)」の語呂合せ。
    鏡を大切にすることで、健康で美しい生活を目指す日。

    シルバーラブの日
    1948(昭和23)年、歌人の川田順が弟子の大学教授夫人とともに家出した。当時、川田順は68歳で、3年前から続いていた教授夫人との恋の行く末を悲観して、死を覚悟しての行動だったが、養子に連れ戻された。その後2人は結婚した。
    川田が詠んだ墓場に近き老いらくの恋は恐るる何もなしから「老いらくの恋」が流行語になった

    1892(明治25)年 福澤諭吉の後援で北里柴三郎が大日本私立衛生会伝染病研究所を設立

    1946(昭和21)年 「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着

    1963(昭和38)年 都電14系統杉並線(荻窪〜新宿駅西口7.3km)がこの日限りで廃止。都電撤去第一号

    1969(昭和44)年 巨人の金田正一投手が引退

    1977(昭和52)年 米軍が使用していた東京・立川基地が32年ぶりに全面返還

    1990(平成2)年 台風28号が紀伊半島に上陸。観測史上最も遅い時期の台風上陸

    今日の誕生日の花:ハナカタバミ,別名:オキザリス
    花言葉:決してあなたを捨てない 
    今日の一句:大根引大根で道を教えけり    一茶

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16187] 桂文珍:窓際のウィンドウズ 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/29(Mon) 12:37
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    この本のタイトルになっている話
    あるとき放送局から依頼があって
    毎朝1分30秒で落語を一週間やってほしい
    という無茶な注文があった。

    そこで考えて「ウィンドウズ96」に関する小噺をつくったという。
    団塊世代のサラリーマン、四十代後半でインターネットを勉強しなければならない。
    慌ててパソコン教室に通いはじめても
    「立ち上がっていますか?」「いえ、座っています」
    「設定環境は?」「四畳半」
    やっとわかったころには定年になる。
    家でも始めると、奥さんのほうが触れるチャンスが多いので上達も早い。

    テリヤ犬の母子を相次いで亡くし寂しかったのか
    迷い込んできた子猫を妻が家に入れた。
    ねずみ年生まれの著者は猫が苦手だったが
    子猫はゴロゴロと喉を鳴らして近寄ってスリスリするので
    その努力を買って飼うことにした。
    桂の家にきたというので、名はコゴローとした。(桂小五郎)
    小五郎は毎朝5時半に起きて、ニャーと鳴いて妻を起こす。
    阪神大震災の朝も、いつものようにニャーと鳴くから
    妻も渋々起き出して餌を与えていたときドーンときた。
    慌ててテーブルの下に避難したから助かった。
    もしあの場で寝ていたら、妻はタンスにゴンで、その下敷きになっていただろう。
    小五郎のおかげで助かった。


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