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[No.15909]
今日は何の日・10月12日
投稿者:
投稿日:2010/10/12(Tue) 05:34
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みなさん、今日は
今日は何の日、10月12日
大陸発見記念日(Columbus Day),新大陸発見の日" (アメリカ合衆国,アルゼンチン,チリなどアメリカ大陸各国)
1492年、クリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)が率いるスペイン船隊が新大陸アメリカに到達した。
西周りの航海でジパング(日本)とインドを目指したもので、コロンブスは最初の到達地がインドだったと亡くなるまで信じていた。
芭蕉忌.時雨忌,桃青忌,翁忌
俳諧師・松尾芭蕉の1694(元禄7)年の忌日。
時雨の句をよく詠み、10月の別称が「時雨月」であることから「時雨忌」と呼ばれる。
豆乳の日
日本豆乳協会が制定。
10月は「体育の日」がある月であることから。12日は「とう(10)にゅう(2)」の語呂合せ。
1960(昭和35)年 日比谷公会堂で演説中の社会党委員長・浅沼稲次郎が右翼少年・山口二矢に刺され死亡
1983(昭和58)年 ロッキード事件丸紅ルートで、田中角榮元首相に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決
1987(昭和62)年 マサチューセッツ工科大・利根川進教授のノーベル生理学・医学賞受賞が決定
今日の誕生日の花:シュウメイギク、キブネギク
花言葉:忍耐
今日の 一句:観音の影のさまなる貴船菊 阿部みどり女
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15908]
Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語
投稿者:
投稿日:2010/10/11(Mon) 23:14
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男爵さん。まいど。
> > 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
> >
> > 著者の父は岡安喜三四郎で、西條八十の妻晴子の師匠である。
> 西條八十は高尚な詩も書いたが大衆の心に訴える流行歌も書いた。
> 西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。
> 彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。
そういえば、私どもの年配の人が、「詩が奇麗」という唄は、
この辺りの方の、唄が多いですねー。
聴いていて、疲れないそうです。
歳の所為かもしれないがーー。
Toshichan in Kyouto-fu
[No.15907]
Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/11(Mon) 21:34
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> 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
>
> 著者の父は岡安喜三四郎で、西條八十の妻晴子の師匠である。
正確に書けば
岡安喜三四郎は長唄三味線の師匠で、西條八十の妻晴子はその弟子である。
彼の東京の家が戦災で焼けたので、復員後に下館の妻の実家に住み、土地の芸者や娘たちに三味線を教えていた。
西條も戦争中に下館に疎開していたので、岡安喜三四郎のことを知った妻晴子が久しぶりにお稽古をしたいと弟子入りしたのであった。
こういう縁で、西條は頼まれて岡安喜三四郎の長女と長男の名付け親となった。
西條八十は高尚な詩も書いたが大衆の心に訴える流行歌も書いた。
西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。
彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。
[No.15906]
Re: 面白いほどよくわかるネコの気持ち
投稿者:
投稿日:2010/10/11(Mon) 21:15
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男爵さん。みなさん、まいど。
> > さて
> > 世の中には、ネコ好き人間とイヌ好き人間とがいるようです。
>
> ブログにしてる人も、ありまっせ。
>
> http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mewmew6420
ブログの猫から、皆さんへのお礼
ミュウミュウも”SEHR DANKE!”と言っていました。
>
Toshichan in Kyouto-fu
[No.15905]
Re: 今日は何の日・10月11日
投稿者:
投稿日:2010/10/11(Mon) 18:52
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KAMEさん、ぷわらさん、みなさん、まいど。
>
> > 今日は何の日、10月11日
> > 今日は体育の日です。
>
> これが私にはいまだにどうもしっくり来ません。
> 今は祝祭日は月曜日になってるんだそうですね。
> 私はいまでもまだ体育の日といえば10月10日のような気がしてなりません。
> 連休にするということで月曜日にしたんだそうですけど
> 私は必ずしも連休にしなくてもいいのではないかなと思います。
同感でっせ。
> サービス業の人なんかは関係なく仕事しますし。
> こちらにきて驚いたんですけど、「日本人は働きすぎだ」ってずっとそう信じてましたが、こちらから見ると日本人って実におやすみが多いですね。
働き過ぎだ!という、外国の非難に応えて、連休の休日を増やしているようですが
有給で、休めるのは、公務員と、国会、地方議員くらいの物かもーーー。
> こちらの庶民は日本人のおやすみの多さをうらやましがってます。
> たしかに、本当にこちらの人はよく働いてます。
日本人も、人材供給会社からの、派遣社員等は、殆ど、休めへん。
休んだら、収入が減る上、雇い止め、とかで、クビになりまっせ。
正規従業員も年次有給休暇は、ほとんど、取れへんがな。
おまけに、連休が増えて、客商売の、お店も流行らんみたいですわ。
その上、収入格差が広がったのに、所得税減らしたよって、赤字国債の乱発で
整合性が、とれてへん。
もう、むちゃくちゃで、ござりますわ。
議員さんと、公務員の給与を減らさなアカン。が、鐵の団結でとてもとてもーー。
敗戦の時に、大蔵省を残した連合軍の失敗のツケがきてるのかもしれへん。
Toshichan in Kyouto-fu
[No.15904]
藤沢周平:義民が駆ける
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/11(Mon) 13:16
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藤沢周平の郷里の山形県鶴岡には
天保一揆とか天保義民とかいう名で呼ばれている荘内藩領民の藩主国替え阻止騒ぎがあった。
そのことは鶴岡では誰一人知らない者がいないという。
著者藤沢は子どものころに、この話を聞かされたが、一方的な美談として聞かされたため
その話に疑問もしくは反感といったものをいだくようになったという。
たとえば百姓たちが旗印にした、百姓たりといえども、二君に仕えずというのは、やりすぎだと思った。
荘内藩は比較的裕福な藩で善政を行った藩ではあるが、それにしても封建時代であるから
藩主と領民の関係には厳しいものがあったはずで、当時の百姓ほど過酷な生き方をしいられたものはなかったろう。
そう考えると二君に仕えずというのには媚があると著者は思ったのだった。
著者はやがて鶴岡高専のS教授の記述を読み、荘内藩の百姓が藩主を慕うという美談が成立したのは
明治のあとの大正時代になってからだということを知る。
また、著者のような疑問をもった人は他にもいて、昭和十年代に郷土史家黒田伝四郎が本にまとめているということも知った。
著者藤沢はそれらの資料を読んで、この史実を小説にして書きたいと思ったようである。
この藤沢周平の「義民が駆ける」を読むきっかけとなった本があるのだが
その本については後日紹介することにして
ここでは、「義民が駆ける」のあらすじを書いておきます。
第十一代徳川家斉には子どもがたくさんいた。男の子は大名の養子に、女の子は嫁になどにやった。
二十四番目の息子斉省(なりやす)は川越藩主の養子となった。
斉省の養父川越藩主松平斉典は、川越藩の経済状態が苦しいので、裕福な荘内藩へ国替えを徳川家斉に頼んだ。
家斉は子家慶に将軍を譲り大御所となっていたが、老中水野忠邦に川越藩と荘内藩の国替えを提案した。
水野はその案に長岡藩の国替えも加えて三方国替えを新たに提案し家斉にはかる。
徳川家斉と水野忠邦がこうしてつくった三方国替え案を老中たちに合意させてから
いよいよ荘内藩主酒井忠器に伝えたものだから、荘内藩はすっかり困ってしまう。
困ったのは藩主と家臣ばかりではなかった。
酒田港の豪商本間は藩の財政を一手に支えている存在で、荘内藩が長岡の地に移転ともなれば将来は全くなくなってしまう。いまや荘内藩と豪商本間は運命をともにする存在になっていた。
したがって豪商本間は、荘内藩の密かな依頼のあった資金を必死に用意し、荘内藩が国替えをしないよう手づるをはかって政治工作につとめた。
豪商本間からの資金は、国替え反対の運動資金として、老中たちや水戸藩主などに送られ次第に国替え阻止支援の声が高くなってくる。
また、領民にとっては新しい藩主は年貢の取り立てに厳しいという噂のある藩主であるから、なんとしても現在の藩主にいてほしかった。この突然の国替えを阻止したかった。
それぞれの立場や思惑はあっても、荘内藩主の国替えを阻止することで共通の目標があったから、それぞれが運動を続けて半年後に国替えは中止となった。それは当時の状況を考えるから非常な幸運であった。
この間に、家斉も亡くなり、それを追うかのように斉省もなくなったことが、老中たちが三方国替えを無理に実施することをやめた理由である。彼らも諸藩からこの国替えはやめるようにという要望を聞いて、無理なことはしたくないという気になったらしい。
小説なので、豪商本間と荘内藩家老との会話とか、幕府に直訴するため必死に関所を避けて裏道をいく百姓たちの苦労を、彼らの食べ物や身の回りの服装などを記述することで現実感を高め、読者をひきつけている。
[No.15903]
Re: 今日は何の日・10月11日
投稿者:
投稿日:2010/10/11(Mon) 12:27
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KAMEさん、みなさん、こんばんは。
> 今日は何の日、10月11日
> 今日は体育の日です。
これが私にはいまだにどうもしっくり来ません。
今は祝祭日は月曜日になってるんだそうですね。
私はいまでもまだ体育の日といえば10月10日のような気がしてなりません。
連休にするということで月曜日にしたんだそうですけど
私は必ずしも連休にしなくてもいいのではないかなと思います。
サービス業の人なんかは関係なく仕事しますし。
こちらにきて驚いたんですけど、「日本人は働きすぎだ」ってずっとそう信じてましたが、こちらから見ると日本人って実におやすみが多いですね。
こちらの庶民は日本人のおやすみの多さをうらやましがってます。
たしかに、本当にこちらの人はよく働いてます。
[No.15902]
今日は何の日・10月11日
投稿者:
投稿日:2010/10/11(Mon) 05:35
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みなさん、今日は
今日は何の日、10月11日
今日は体育の日です。
安全・安心なまちづくりの日
2005(平成17)年12月に閣議決定し、2006(平成18)年から実施。
「全国地域安全運動」の1日目。
鉄道安全確認の日
1874(明治7)年、新橋で日本初の鉄道事故が発生した。
「リンゴの唄」の日
1945(昭和20)年、戦後初めて制作・公開された映画『そよかぜ』が封切られた。並木路子が歌う挿入歌「リンゴの唄」は戦後を象徴する大ヒットとなった。
ウィンクの日(オクトーバーウィンク)
10と11を倒して見ると、ウィンクをしているように見えることから。
女子中学生の間ではやったおまじないで、この日、朝起きた時に相手の名前の文字数だけウィンクをすると、片思いの人に気持ちが伝わる……のだそうだ。
1945(昭和20)年 マッカーサーが幣原喜重郎首相に「五大改革」(女性の解放・労働者の団結・教育の自由化・専制政治の廃止・経済の民主化)を指令
1947(昭和22)年 ヤミ米を拒否し配給食糧による生活を守った東京地裁の山口良忠判事が栄養失調で死亡
1985(昭和60)年国鉄の6社分割・民営化を閣議決定
今日の誕生日の花:ダリア
花言葉:栄華、優美
今日の一句:運動会午後へ白線引き直す 西村和子
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15901]
Re: これならわかる東北の歴史Q&A
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/10(Sun) 12:09
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補足です。
> 弘前・盛岡両藩は、ともにアイヌ民族を「内なる異民族」と位置づけていたところに松前藩との大きな相違点がある。
> 文化年間(1804〜1817年)になると、両藩とも領内のアイヌ民族を和人と同じ取り扱いをするという同化政策を実施するようになった。
江戸時代には、東北にも北海道にもアイヌ人が住んでいた。
なにしろアイヌ由来の地名が東北各地の残っています。
江戸時代に松前藩のアイヌ人の対応が悪くて何度かアイヌの反乱がありました。
困った松前藩は江戸幕府に助けを求めます。
その結果、津軽藩が援軍を送りますが、そのとき津軽藩の武士のなかにアイヌ人たちも混じっていたそうです。彼らは通訳をしたり戦争の手伝いをしたという記録を富山大学の先生の講演で聞いたことがあります。
だから、江戸時代に北東北で暮らしていたアイヌ人たちはしだいに同化していったのでしょう。
> 山岳信仰を基礎に、それに仏教が入り込んで本地垂迹の体系をつくっていた。
出羽三山の信仰が神仏混淆だったのは
比叡山の最澄や空海の仏教信仰にも見られます。
既存の神道との争いを避け共存をはかるかたちでの神仏混淆は初期の仏教が日本に受け入れられるための関係者の知恵だったのでしょう。
> 東北地方にも被差別部落の人々はいたのか
> それによると東北地方の被差別部落の人々は穢多と称される人々のみでも計4662人を数えている。東北地方の場合、彼らの主要な生業は皮革業であった、この方面の研究は進展していない。
たとえば太鼓の皮ですが
盛岡のさんさ踊りの太鼓をつく技術者の伝統の店
秋田の鷹巣つづれこ太鼓
津軽の藩主の江戸での太鼓自慢あるいは津軽三味線(皮は犬の皮)
などなど、この技術者集団はほかの階級にはできなかったでしょう。
私はマタギもこの範疇に入る人たちではないかと思うのですが。
あと
書きませんでしたが
東北の夏祭りの「青森のねぶた」は津軽のねぷたの流れですが
ねぷたは、眠気をはらい水に流す習俗と、七夕祭りと盂蘭盆会が融合したものであり
秋田の竿灯も江戸時代には眠り流し燈籠または七夕燈籠と呼ばれていたことなどがあります。
仙台七夕の特徴あるアイテム、紙衣、巾着、投網などが紹介されていますが、これらはすでにメロウサロンで別の本に紹介で書きましたので省略します。
[No.15900]
Re: 高橋喜平:雪女
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/10(Sun) 10:19
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> 高橋喜平は雪の研究者である。
> 雪崩の専門家だった。
昭和二十二年の秋
高橋喜平は、新潟県で天皇陛下に「雪の科学」についての講話をしたという。
そのとき天皇は
「雪国で何か明るい話題はないか」と質問されたが
とっさに高橋喜平は思いつかず、スキーのことなど話してお茶をにごした。
それから
高橋喜平は天皇陛下の質問にまじめに答えを考えて
それが雪を楽しむ「雪まつり」となったのだという。
昭和二十五年二月に新潟県十日町での雪まつりが
世界最初の雪まつりであった。(ギネスブックに登録されているという)
札幌雪まつりはそのあとなのだが、本家の十日町より有名になってしまった。
ということを
高橋喜平氏から直接聞いたことがあるのだが
十日町に行ってためしに何人かの地元の人に尋ねたが
誰も高橋喜平の名前を知らない。
しかし、何人かに聞いたあとで、「知っています」と答えた人がいた。
記念すべき雪まつり大会のときには、もう高橋喜平氏は亡くなっていて娘さんが岩手県からわざわざ出席したということも、そのとき話に出たのであった。
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