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  • [No.16047] 今日は何の日・11月6日 投稿者:   投稿日:2010/11/06(Sat) 05:34
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、11月6日
    戦争と武力紛争による環境搾取防止のための国際デー(International Day for Preventing the Exploitation of the Environment in War and Armed Conflict)
    2001年11月の国連総会で制定。
    戦争や武力紛争が終結後も長年にわたって環境被害が続くことから、その防止を目的としている。

    お見合い記念日
    1947(昭和22)年、東京の多摩川河畔で集団お見合いが開催された。
    結婚紹介雑誌『希望』が主催したもので、戦争のため婚期を逃した20〜50歳の男女386人が参加した。会場で相手を探し、終了後、最高3人までの身上書を申し込むという仕組みだった。

    アパート記念日
    1910(明治43)年、東京・上野に日本初の木造アパートが完成した。
    東京・上野の「上野倶楽部」で、5階建て70室の木造アパートだった。

    1860年 米大統領選で共和党のリンカーンが当選。南部9州は連邦離脱を宣言

    1945(昭和20)年 GHQが「持株会社の解体に関する覚書」を提示。財閥解体を指令

    1968(昭和43)年 米大統領選で共和党のニクソンが当選

    1972(昭和47)年 北陸本線・北陸トンネル内で大阪発青森行急行「きたぐに」が火災。死者30人

    1973(昭和48)年 オイルショックにより大手電気会社が大都市の広告ネオンを中止

    今日の誕生日の花:ノコンギク
    花言葉:指導
    今日の一句:頂上や殊に野菊の吹かれ居り   原石鼎

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16046] Re: 太宰治:津軽 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 21:09
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    > > 太宰治の「津軽」を読みました

    > この旅行で
    > 太宰は深浦町に泊まります。

    > 行き当たりばったりの宿屋に入り、汚い部屋に案内されます。
    > 夕食に出されたお酒を二本飲んでまだ飲み足りない太宰は、もうお酒はないと言われ
    > 教えられた料亭に行って続きを飲むことができました。
    >
    > 翌朝、宿屋の主人がきて
    > 「あなたは津島さんでしょう」と聞きます。
    > はたして兄英治の中学校の同級生だった。
    > かくして兄のおかげて朝からお酒と鮑のはらわたの塩辛をごちそうになる。

    思いがけず歓待を受けた深浦の宿

    のちに太宰は終戦間際に
    妻の実家の甲府で焼け出されたので
    妻子を連れて津軽の金木に向かった。
    東能代まできて、もう五所川原は近いというところで
    (五能線に乗り)わざわざ遠回りをして深浦にたどりつく。
    どうしても、この宿に泊まりたかったのだ。
    http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15497&reno=15478&oya=15181&mode=msgview
    >川部でもう一度乗り換えれば五所川原につけるというときに
    >太宰は能代から五能線に乗り深浦泊まりにしようと言い出した。
    >疲れて早く実家にたどりつきたい妻美知子であったが
    >太宰が深浦に泊まりたい目的も知っていたのでやむをえずついていった。

    太宰一家が約一時間も駅から歩いて苦労してその宿に泊まった
    秋田屋旅館はそれから改装され、2004年に「ふかうら文学館」として観光客を迎えている。


    [No.16045] 太宰治:津軽 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 20:32
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    > 太宰治の「津軽」を読みました。
    > この作品は、1944年5月から執筆依頼のため、3週間にわたって津軽半島を旅行したもので、一種の紀行文になっています。
    > 終戦中の物資の乏しいときに、しかし、彼の一族は金持ちだったので、どこに行っても何とかお酒が飲めたようです。幸せでしたね。

    > 太宰の亡くなった父親の出身の町、五能線の木造駅に降りる。
    > 知り合いの家に寄ると貴重なお酒をご馳走になる。

    いまはもう、木造にはコモヒ(雁木)はないとか。 行って確かめたいものです。

    太宰がある雑誌社から「故郷に送る言葉」を求められ
    「汝を愛し、汝を憎む」と返事をして
    弘前に対する思いを語ったという。
    この言葉は、津軽鉄道の列車の内側の壁に書かれてありました。

    太宰が書いているように
    代々の立派な城がある城下町弘前なのに、県庁は青森にいったことに、青森県の不幸があったのです。弘前も不幸となったのです。
    (旧南部藩の盛岡に言わせてもらえば、津軽は奥羽越列藩同盟を裏切って官軍となったものの、旧南部藩の下北半島をくっつけられたから、新しい青森県の重心は弘前でも八戸でもあってはならず、青森に県庁所在地をもってこなくてはいけなかった。そこから青森県の悲劇が始まった、そういうことになります)
    (裏切ったりしなければ、むかしの津軽藩そのままだったので、今もまとまっていたのではないか。今は選挙のたびに、津軽と南部の対立が続く)
      とかなり一方的なことを書いてしまいましたが...... 要するに弘前は藩主の城があった町なのに県庁はないのです。

    この旅行で
    太宰は深浦町に泊まります。
    深浦の町外れに円覚寺の仁王門があります。
    その寺には国宝の薬師堂がありました。
    お参りした太宰はこの町をひきあげようと思いながら
    日も高いので子どもの顔を思い出し郵便局に行って
    東京の家族にハガキを出します。
    それから行き当たりばったりの宿屋に入り、汚い部屋に案内されます。
    夕食に出されたお酒を二本飲んでまだ飲み足りない太宰は、もうお酒はないと言われ
    教えられた料亭に行って続きを飲むことができました。

    翌朝、宿屋の主人がきて
    「あなたは津島さんでしょう」と聞きます。
    はたして兄英治の中学校の同級生だった。
    かくして兄のおかげて朝からお酒と鮑のはらわたの塩辛をごちそうになる。
     当時のことを考えたら、こんなにお酒が飲めた太宰はなんと幸せだったのでしょう。

    太宰治も宮沢賢治も、父親の権威や経済力を否定したのですが、結局はその庇護のもとに好きなことを言って恵まれた生活をおくっていたようで、私はやっぱりどことなくうさんくささを感じてしまうのです。


    [No.16044] 五木寛之:みみずくの夜メール2 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 17:23
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    読んでいて
    以前に読んだことがあることに気がついた。
    まあ、いい本は何度読んでもいいのだが。

    ずいぶん昔の頃
    あるお医者さんと共通の友人の話をしていて
    「彼はいま男の更年期らしくて、あまり調子がよくないんですよ」
    と言ったら、即座に
    「男の更年期などありません」と叱られた。
    そんなこと言ったって、五木本人は更年期だったという自覚があった。
    このお医者さんはたくさんの患者におしかけられ、ゴルフもする暇もなく働きづくめなので
    新しい医学書など読むこともないのだろうと推定する。
    この本の後のほうに
    「知恵蔵」や「イミダス」(2005年版)には、男の更年期は載っているという。

    宇治の黄檗山万福寺は隠元が建てた。
    宝蔵院に収蔵されている一切経(大蔵経)の版木を見て驚いた。
    20字詰め、20行
    いまの400字詰め原稿用紙の元祖であった。

    浅草の浅草寺は天台宗の流れをくむ
    聖観音宗(しょうかんのんしゅう)の寺である。
    628年に漁師が隅田川から拾い上げた観音像をまつったというから
    とても古い。
    奈良東大寺が745年の創建というから、それより百年以上も古い寺ということになる。


    [No.16043] 東光博英:マカオの歴史 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 11:02
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    そろそろ一年前になる
    マカオ旅行を思い出しながら......

    海賊退治に協力したから、あるいは明朝に税を納めたから
    ともかくポルトガルはマカオに居住地を得られた。
    マカオの運命は母国ポルトガルの運命のまま、ときにはオランダと争ったりもした。

    日本での2年間の滞在でともかくキリスト教の布教ができたザビエルは
    戦乱の日本での布教よりも、まず日本に影響を与える中国からキリスト教化することを考え
    いったんインドに戻り、日本に渡る後続の宣教師らと一緒に中国に向かった。
    途中で彼らと別れたザビエルは、マカオのやや南方にある上川島で入国の機会を待った。
    しかし、許可がなかなか下りず、そのうちに病にかかりマカオの手前で亡くなった。
    ザビエルは、マカオの建設以前に亡くなっているので、直接の関わりはないが
    マカオの聖ジョセフ修道院にザビエルの遺骨の一部が保存されている。
    これは、かつてキリシタン迫害下の日本に送られた遺骨であったが
    迫害の激化でマカオに安置されることになったものである。

    マカオではポルトガル人は学院教会なるものを建て、高等教育(ポルトガル語、ラテン語、古典学、修辞学、倫理神学)を行った。
      学院の教会では、有資格者に学位が授与される。その志願者は、各々の地より
      友人や代父を伴って訪れるが、ヨーロッパ諸大学の習慣通りに、皆、馬に乗り
      シャラメーラが先導する。
       「シャラメーラ」というのは木管楽器の一種で、現代のポルトガル語では
       そう発音するが、当時は「チャルメーラ」であったと考えられる。
       この名称は日本語に取り入れられ、今日、夜鳴きそば屋が吹く楽器「チャルメラ」   として知られている。ちなみに、このチャルメラは名称こそポルトガル語に
       由来するとはいえ、楽器自体は16世紀末に中国から伝来したものであり
       ポルトガルの楽器シャルメーラが普及せず、名称だけが転用されて今日にいたった。 

    聖パウロ学院教会(マカオ観光の代表的存在)
     いわゆる聖ポール天主堂のことを、著者はこう呼ぶ。
     聖ポールは英語読みだから、マカオの歴史にふさわしくない。聖パウロであろう。
      ザビエル:バスク人なので、本来はエチェベリーア
      マゼラン:ポルトガル人、言語の発音にしたがえばマガリャンイス
    丘のうえにそびえる廃墟の前壁の最下段の中央にある入口の上部には
    ラテン語で MATER DEI(神の母、つまり聖母)と記されている。
    これが教会の正式名称なので、ポルトガル語では「マードレ・デ・デウス」という。
    1603年にマードレ・デ・デウス学院教会が竣工してから、いつしか聖パウロ学院教会となった。
    1835年の大火により、今ではわずかに前壁と石段を留めるばかりである。

    今日、出島と聞けば多くの日本人はオランダを想起するであろうが
    出島はもともとポルトガル人を収容するために建設されたのであり
    オランダとの関係は、ポルトガル人が日本から退去した後の1641年
    幕府の命によってオランダ人が商館を平戸から出島に移したことに始まる。

    ポルトガル船は日本から締め出されたため
    マカオと日本との間の貿易などの交渉はここに終わり
    以後マカオの衰退の道が始まる。
    ただ、宗教の面でマカオは、主に中国に対する布教の基地として機能し続けた。


    [No.16042] Re: ごり押しの韓国人 きれい事の日本人 投稿者:   投稿日:2010/11/05(Fri) 09:18
    [関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

    Toshichanさん、男爵さん、お早う御座います。

    東方神起というコリアのグループをご存知ですか。
    コリア本国よりも 日本の方で人気が高いそうナ…。
    そのグループが、下記のような歌を歌っています。

    ♪独島は我らの土地    日本の妄言ファッ〇ファッ〇♪
    ♪ドクトヌンウリタン!  ドクトヌンウリタン♪

    ♪対馬も我らの土地    日本の妄言ファッ〇ファッ〇♪
    ♪ごみ餃子食ってろ    このてんかんジャップ野郎♪

    ♪日本の存在は世界の不幸 海に沈んでしまえ♪
    ♪ビバコリア イェーイ! ああ この素敵な国♪

    どうですか??
    こんな侮日歌を、血道を上げて聴いている日本の能天気な
    ファンの気持ちが私には判らない。
    (ファッ〇は、以前に私の詩をアップしたときに卑猥語
    を含んでいると言う理由で削除された事があるので、
    今回は伏字にしました。)

               瀬里恵 
     


    [No.16041] 今日は何の日・11月5日 投稿者:   投稿日:2010/11/05(Fri) 05:35
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、11月5日
    電報の日
    電報を申しこむ時の電話番号「115」から。

    雑誌広告の日
    日本雑誌広告協会が1970(昭和45)年に制定。
    「読書週間」「教育文化週間」のある時期ということで、この日を記念日とした。
    消費者の保護と雑誌広告の信頼を高めることを目的としている。

    縁結びの日
    島根県の神話の国・縁結び観光協会が制定。
    旧暦10月(新暦11月ごろ)に出雲大社に全国の神が集まり縁結びなどの会議をするとされていることと、「いい(11)ご(5)えん」(いいご縁)の語呂合せから。


    1928(昭和3)年 NHKが初めて全国中継放送を行う。ラジオ放送開始から3年目

    1943(昭和18)年 東京の帝国議事堂で日本・満洲・中国(南京国民政府)・フィリピン・タイ・ビルマ・インドの代表が参加して大東亜会議を開催。「大東亜宣言」を採択

    1972(昭和47)年 上野動物園で、日中国交恢復を記念して贈られたパンダ・カンカンとランランの一般公開を開始。初日の入園者約5万6千人

    1976(昭和51)年 三木武夫内閣が予算編成で防衛費をGNPの1%以内とすることを決定


    今日の誕生日の花:マリーゴールド
    花言葉:友情、生きる
    今日の一句:事多き十一月のはじまりし   桂信子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16040] Re: 「男はつらいよ」うちあけ話 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/04(Thu) 19:35
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    あやさん  こんばんは

    > > しばらくしてから雨も止み
    > > あじさい寺まで案内されたことがあります。
    >
    > あじさい寺? というと鎌倉が頭にぱっときますが、
    > 熊谷ですか? 千葉にもあったかしら?

    日蓮聖人ゆかりの本土寺です。
    本土寺は常磐線「北小金」下車、徒歩10分ほどの所にあります。
    http://www.hondoji.com/


    [No.16039] Re: 「男はつらいよ」うちあけ話 投稿者:   投稿日:2010/11/04(Thu) 19:17
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    男爵さん

    > > 夕食はどうなってんですか?
    >
    > はい 今夜は家族そろって6時に夕食を食べました。

    そんな早い時間に食事ができるのですね。健康だわ。
    我が家は9時、9時半となります。

    >
    > おつかれさまです。

    ありがとう。
    明日はホームの泊まり、6日の昼に帰ってくるが
    自治会館へまっすぐ、夜は会議、7日は朝から
    ホームへ、そのまま泊まりです。なにをやっているやら。
    怖い思いがあります。

    > いつか案内されたときは
    > 柴又駅で待ち合わせをして
    > それから門前町を歩いて見物して
    > 矢切の渡しを船で渡りました。
    > それから野菊の墓のモニュメントなど見て
    > 松戸の町に入りましたが
    > あいにくと雨になりました。 悲惨!

    雨となってはほんと、悲惨でしたね。
    でも、ずいぶんと歩いたのですね。

    >
    > しばらくしてから雨も止み
    > あじさい寺まで案内されたことがあります。

    あじさい寺? というと鎌倉が頭にぱっときますが、
    熊谷ですか? 千葉にもあったかしら?


    [No.16038] 樋口隆康:西域紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/04(Thu) 12:07
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    樋口隆康は、福岡県に生まれ、第一高等学校を卒業後、京都大学文学部で考古学を専攻する。
    1957年には戦後最初の日本人学者として敦煌を訪問。
    インド、パキスタン、アフガニスタンなどシルクロードの仏教遺跡の調査・発掘にあたる。
    京都大学名誉教授である。
    かつて、私が奈良県立橿原考古学研究所附属博物館を見学したとき
    当時橿原考古学研究所所長だった樋口隆康の著書を買ってきたことがある。

    この本は詳しく楽しい内容であるが
    例によってメモだけ書いておきます。

    アフガニスタンのカブールは現地の発音にしたがうならカーブルのほうがよい。
    最初の日本のマスコミがカブールと誤表記してしまったからいまだにカブールだが
    この著者は、きちんとカーブルと書いている。、

    アフガニスタンの発掘で日本大使館の日本大使に世話になったが
    大使によってはそうでない大使もいたこと、全然協力してくれなかったヒドイ大使館員の名前を書いているのはいかにも学者らしい。

    この本ではなくて、私が橿原考古学研究所附属博物館を見学したとき
    買ってきた本に書いてあったのだが
    著者がまだ若くて大学院生か無給の研究者のころ
    ある発掘に携わって、なかなかの成功をあげたのだが
    研究室の教授が、自分ひとりの名前で報告書などを書こうとしたそうである。
    実際に発掘に携わった若い研究者たちの名前を記載しないで、自分ひとりの功績にしたかったらしい。
    もっとも、発掘の費用などを外部から集めたのは教授の力なのだから
    現地に行かなくても、それなりの功績はあったと教授は考えたのであろう。

    ところが、そのとき発掘に立ち会った助手がそれはおかしいと告発したらしい。
    そんなことをしたら教授ににらまれて、昇格もないし、研究者としての地位はあぶなくなるのだが、助手も何度も教授からそんな扱いをされたせいか我慢できなくなったらしい。

    昔のそんな話を活字にできたのも、著者が京都大学教授であったからで、教授になる以前ならなかなか危険な行為だったろう。
    先代の教授の悪口にあたることを書かない研究者もいるが、この著者は真面目な研究者なので、わりあい正直に書いているように思われる。良いことも悪いこともみな記録しておきたい性格らしい。

    話は変わるが
    今年ノーベル化学賞を受賞した北海道大学の名誉教授は、受賞のときに
    「ここまでこれたのは同僚と学生たちのおかげだ」というようなことを述べていたが
    実験のアイデアを立てても、実際に毎日実験してデータをとるのは大学院の学生たちなのである。
    忙しい教授がみずから実験室にこもって実験をする暇はない。
    講義とか学内外の会議に追われて、とても試験管を振る時間はない。
    しかし、長時間の実験の成果を発表するときは教授の名前で論文を発表する。
    せいぜい良心的な教授なら共同研究者としての大学院生や部下の研究者の名前を連名にするくらいだろう。

    研究者がまったく一人で研究をして、単独で論文を発表するなら
    それは明確な個人の成果になるが
    なかなかそういう例は少ない。 一人の仕事はたかがしれている。

    共同で研究して、うまくまとめて、若い仲間たちや部下の者たちの世話もできる研究者でなくては、これからの世界では生きていけないだろう。
    大学の世界も人間の社会なのである。


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