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  • [No.15872] 金田一春彦:ケヤキ横丁の住人 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/05(Tue) 11:53
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    金田一春彦は金田一京助の息子
    父の貧乏暮らしを見ていたから、同じ学者の道を歩んでも
    辞書や教科書つくりも手がけて、経済的には家族を困らせないようにしたらしい。

    石川啄木については父京助は数少ない理解者の一人であったが
    京助の妻つまり著者の母親は激しく啄木を憎んでいた。
    貧しい学者の家に来て、借金を繰り返し、京助の妻の結婚時に持ってきた着物はすべて
    質屋の倉の中に消えた。それもこれも疫病神石川啄木のせいだと、幼い春彦に毎晩聞かせていたらしい。

    客観的に啄木の借金魔は数多くの証拠が残っているし、家族をかえりみないで自分だけ高騰の巷をさまよっていたことから、避難される面が多い存在であるが
    啄木ファンにしたら、金田一春彦の啄木批判は許すべきことでないらしい。
    現代の啄木ファンは、啄木からの被害はほとんどないのに、実際に影響を受けたのは金田一京助とその家族なのだから、金田一春彦のほうが啄木の光と影を語るには十分な資格があるはずなのだが。

    鱒の知恵
    静岡県富士宮からのぼったところにある猪の頭
    そこには大きな鱒の養魚場がある。行けば新鮮な鱒を、刺身でも、塩焼きでも、フライでも、安くおいしく食べさせてくれる。
    広い池の中には元気な鱒が泳いでいて、一つかみの餌を投げ入れると、落ちてくるのを待ちきれず、水面から飛び跳ねて奪い合うほど。
    一カ所、建物に近いところに小さい池があり、そこにはやせた、元気のなさそうな鱒が何匹か静かに泳いでいる。
    そこはお客が来て鱒料理を注文されても、急には広い池の鱒を捕るのはむずかしいから、すぐ使えるように何匹か入れておくのである。
    最初は勢いのよい肥ったのを入れるのだが、ここに入れておくと、不思議なことに何も食べなくなって痩せてしまう。
    もとへ戻すとまた元気になるのだが、ここに入れるとまるで人間に食べられるのが嫌で断食しているようだ。

    夏の避暑として山梨県北の八ケ岳の南麓の山小屋に住んでいる。
    このへんは禁漁区で小鳥も多い。
    少し下ったところに小海線も走っているが、小海線を境に南の方は12月1日以降は狩猟解禁で、放銃おかまいなしとなる。
    11月までは小海線以南には雀でもキジバトでもたくさんいる。
    ところが、明日解禁という11月30日になると、いっせいに飛び立つように小海線の北へ移動してしまう。それは壮観だという。

    中国の古典、淮南子に不思議な能力を持つ少年の話がある。
    鴎と仲良しで少年が海浜に出ると、たくさんの鴎が少年のそばに飛んできて、少年の肩に乗ったり、腕にとまったりする。
    ある人が鴎の肉を食べようと思って、その少年に頼み一緒に浜へ出てみたところ、鴎はたくさん飛んでいるものの、その日に限って一羽も少年のそばに寄ってこなかった。

    動物には、われわれ以上の危険を察知する能力があるのであろうか。

    もうひとつ、この本から紹介しましょう。

    釧路の宿で色紙を頼まれ
     啄木は小やっこ、京助は冷やっこ
    と書いた。

    父京助は岩手出身だが、春彦は東京育ちで岩手県は関係なし。
    どうも書きものを読むと、金田一春彦は岩手県にも盛岡市にも愛着はないようだ。
    すっかり東京育ちのようだ。

    金田一春彦は
    大学を卒業してすぐ中学校教師を二年体験した。
    それから数十年たって、当時の学生たちの同窓会に招かれ
    社会的にも相当の地位に就いた教え子たちから、当時の思い出を一言ずつ聞いた。
    ほめられた言葉もあったし、批判の言葉もあった。
    だが、ほとんどは、そんなことがあったのかなあと、今になったらすっかり忘れてしまったことばかりだったという。
    「人はどんなときのことを他人に記憶されるかわからない」
    教訓
    「人間は、悪い印象を与えるのを覚悟して、それを帳消しするくらいのいい印象を与えるようなことを積極的にすべきだ」


    [No.15871] Re: 回想の太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/05(Tue) 10:59
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    津島美知子「回想の太宰治」
    大学図書館にある本だが、何度も読む。 読むたびに新しい発見がある。

    太宰がI先生に、朝、仕事にとりかかるのが億劫で困ると訴えたら
    先生は自分は筆ならしに手紙を書くことにしているよ、とおっしゃった。
    感心して聞いたので未だに忘れられない。

    これは一種の頭の活動のアイドリングなのだが、こういう生きる知恵は大切だ。
    いきなり本格的な仕事にとりかかる前に、調子を出すために
    気楽にできることから始めるとよい。
    自分の好きな仕事から始めていると、だんだん調子が出てくるものである。

    太宰ははがきをよく使っていたのだが、絵はがきもよく使った。
    三鷹に引越したときには、一閑張の文箱いっぱいあった絵はがき、それは妻美知子が
    旅先や美術館などで求めたものがたまっていたのだが、かなりの枚数があったのに、彼の死んだ頃にはほとんど空っぽになっていた。
    文箱の中の絵はがきを太宰から受けとった方から、歿後、書簡集を編纂することになったとき何年ぶりかで見せていただいたときは、二重になつかしかったと
    妻美知子は書いている。

    次の文章は心に残る文章である。
    私の手もとにある太宰の絵はがきの中に、三島から青森の小館家に嫁したすぐ上の姉に出したのがあるが
    太宰とこの姉とは親しかったのでこの絵はがきを手にすると、姉弟の情愛が伝わってくるような気がする。
    「藍壷の富士」の風景の絵はがきで消印は昭和九年八月十四日、三島 修治とだけ署名してある。
    その文面、そのペン字の書体、三島の風景、それらが渾然と交じりあって、一つのいい雰囲気をつくっていた、これはとうてい印刷されたものから味わうことはできない。
     この絵はがきもそうだが、太宰は書簡に日付を記さぬ方が多かった。


    [No.15870] Re: 回想の太宰治 投稿者:   投稿日:2010/10/05(Tue) 10:25
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    太宰は原稿が売れてくると、しだいに税務署から目をつけられるようになる。
    昭和23年2月に、前年の所得は21万円と決定したという通知と
    それにかかる所得税額11万7千円、納付期限3月25日という通知書が舞い込む。

    妻は生活費が必要なときだけ夫に言って、夫からもらっているから
    全体の収入がいくらあるかは知らない。
    太宰自身も自分の収入を把握していないようだ。

    彼は税金のことを放置したまま長編を書くため熱海に行ってしまった。
    納付期限がすぎてしまったが、まだ何も返事していない。
    とにかく武蔵野税務署に行ってみたほうがいいと妻は勧めた。
    太宰は税務署からの通知書を前にして泣いた。
    そのころの太宰は心身ともによほど弱っていたのだろう。
    正月にも、I先生のお宅に年始に伺って、それもしぶっているのを毎年のことだからと
    押し出すようにしたのだが、帰ってから茶の間で泣いた。
    みんなが寄ってたかって自分をいじめる、といって泣いた。
    その泣き方は彼自身が形容している通り、メソメソという泣き方で
    坊ちゃんが外で腕白共にいじめられて泣いて訴えているのと同じで、正月にはなんとかなだめて力づけて元気を回復したように見えた。
    だが税金のことなると、ふだんいくら入って、どのように消費されているのか
    妻は知らないのだから、妻も途方にくれるばかりだった。

    結局、美知子は太宰に代わって武蔵野税務署に行き
    それでもたりずに、子供を背負って美知子は千代田区の国税局にも行くことになる。
    6月2日に、国税局の係が太宰宅にやってきて
    太宰の行きつけの店「千草」に案内した。
    どんな話し合いがあったかは美知子は知らない。
    そして14日に太宰は死んでしまったから、国税局も驚いたかもしれない。

    妻としては
    この税金のことが死の原因のひとつになっていたとは思わない。
    税金のことは美知子に一任したと考えていたと思うから。

    文壇関係者が集まれば太宰の死が話題になっていた頃
    太宰についての直接の話の種を提供できる人は、みな得意でそれをしゃべり一座の中心となっていたらしい。

    真相は誰にもわからない。おそらく本人に聞いてもわからないだろう。
     ノーベル賞作家だって自殺した。


    [No.15869] 今日は何の日・10月5日 投稿者:   投稿日:2010/10/05(Tue) 05:36
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、10月5日
    世界教師デー(World Teachers' Day)
    国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が制定。国際デーの一つ。
    1966年のこの日、「教師の地位向上に関する勧告」が調印された。

    レジ袋ゼロデー
    スーパーマーケットの業界団体である日本チェーンストア協会が2002年に、ゴミ減量のために買物袋(マイバッグ)の持参を呼びかけるために制定。

    時刻表記念日
    1894(明治27)年、庚寅新誌社から日本初の本格的な時刻表『汽車汽船旅行案内』が出版された。福沢諭吉の勧めにより手塚猛昌が発行したもので、イギリスの時刻表を参考に、発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていた。

    折り紙供養の日
    折り紙作家の河合豊彰さんが提唱。

    1931(昭和6)年 アメリカ人クライド・パンクボーンとヒュー・ハーンドンが、青森県淋代からシアトルへの太平洋横断無着陸飛行に成功

    1936(昭和11)年 立教大学登山隊がナンダ・コットに登頂成功。日本人初のヒマラヤ登頂

    1980(昭和55)年 山口百恵が日本武道館で引退コンサート

    今日の誕生日の花:イタドリ
    花言葉:回復
    今日の一句:秋晴の何処かに杖を忘れけり    松本たかし

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15868] Re: 今日は何の日・10月4日 訂正 投稿者:   投稿日:2010/10/04(Mon) 19:46
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    可否さん、今日は
    ご指摘ありがとうございました。
    訂正します。

    今日は何の日、10月4日

    世界動物の日
    動物の守護聖人であるアッシジのフランチェスコの聖名祝日。1931年にイタリアのフィレンツェで開かれた環境保護家の会議で提唱された。

    古書の日
    全国古書籍商組合連合会(全古書連)が2003(平成15)年に制定。

    天使の日
    婦人下着メーカーのトリンプインターナショナルジャパンが2000(平成12)年に、同社の製品「天使のブラ」の1000万枚販売達成を記念して制定。
    「てん(10)し(4)」の語呂合せ。

    いわしの日
    いわし食用化協会が1985(昭和60)年に制定。
    「い(1)わ(0)し(4)」の語呂合せ。

    陶器の日
    愛知県瀬戸市の提唱により日本陶磁器卸商業協同組合連合会が1984(昭和59)年に制定。古代日本で、陶器を「陶瓷」と言っていたことから、「とう(10)し(4)」の語呂合せ。

    都市景観の日
    建設省(現在の国土交通省)等が1990(平成2)年に制定。
    「と(10)しび(4日)」(都市美)の語呂合せ。都市景観に対する意識を高める日。

    里親デー
    厚生省(現在の厚生労働省)が1950(昭和25)年に制定。
    1948(昭和23)年、里親制度の運営についての厚生事務次官通告が施行された。

    宇宙開発記念日
    1957(昭和32)年、ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。アメリカとの間で熾烈な宇宙開発競争が始った。

    探し物の日
    NTTの電話番号案内が104番であることから。
    失くした物をもう一度本気で探してみる日。

    1945(昭和20)年 GHQが「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」(民権自由に関する指令)を発表。政治犯の即時釈放・治安維持法廃止などを指示

    1957(昭和32)年 インドのネール首相が初来日

    1988(昭和63)年ベトナム・ホーチミン市産婦人科病院で二重体児・ベトちゃんドクちゃんの分離手術に成功

    今日の誕生日の花:ワレモコウ
    花言葉:愛慕、変化
    今日の一句:吾亦紅信濃の夕日透きとほる   藤田湘子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15867] 筒井清忠:西條八十 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/04(Mon) 14:41
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    この本は
    読売文学賞、山本七平賞特別賞・日本児童文学学会賞特別賞を受賞している。

    なかなか読みごたえのある本だ。

    北原白秋は西條八十をライバル視していたらしい。
    手塚治虫も福井英一や石森章太郎をライバル視して一時的にノイローゼになったらしい。
     石森章太郎は手塚治虫系統だからわかるが、福井英一は手塚漫画とは雰囲気が違うと思うのだが。

    関東大震災で、西條八十は落ちてきた屋根瓦で額を怪我するが、それでも妻子や母親や兄の安否を求めて東京中を走り回る。幸いみな無事だった。
    大混乱の人混みでなかなか進めず、深夜の上野の山で過ごすことになった西條八十は
    疲労と不安と飢えで無口になった群衆のなかで、一人の少年がポケットからハーモニカを出して吹くこうとしていたのを見る。
    西條八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないかと案じ、止めようとしたがもう少年は吹きはじめた。
    「それは誰も知る平凡なメロディであった。だが吹き方はなかなか巧みであった。
    と、次いで起こった現象、これが意外だった。群衆はわたしの危惧したように起こらなかった。おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった」
    上野の山の群衆はこのハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、絶望のなかに一点の希望を与えられた。
    この情景を見ていた西條八十はあとで自伝に書いている。
    「わたしは大衆のための仕事の価値をはじめてしみじみと感じた」
    「このときの感動が、後日ぼくにレコード歌を書かせる契機となったのであった」
    後年、西條八十はNHKのラジオ番組「私の秘密」でこの少年(山北藤一郎)と再会している(昭和34年10月23日)。

    さて
    この関東大震災だが、同じ頃野口雨情作詞中山晋平作曲の「船頭小唄」が映画化され全国的に流行して、あまりの流行に退廃的だという批判がなされ、関東大震災後に、この歌の流行のために震災が起きたのだと幸田露伴が新聞に書いたほどである。
     阪神大震災の時も、世の中の道徳的でないことがあったため大震災が起きたと指摘する人もいた。いつの世も、事件や天災とその当時の世相を結びつけ警告を与えようとする人間はいるものである。


    [No.15866] 投稿記事の訂正法 投稿者:   投稿日:2010/10/04(Mon) 12:41
    [関連記事URL:http://http 

    男爵さん、こんにちは。

    1. 訂正したい記事をコピーする。(選択し右クリックでコピー)
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    慣れれば1分程度でできます。
    幹事会でこの「メロウサロン」のあり方を検討中とのことなので、
    「修正機能」も必要ならば加えて頂けばと思います。
    問題なのは、もっと多くの人にこの「メロウサロン」を利用いた
    だくことと思います。
    改善策(閉店も含めて)を期待しています。


    [No.15865] Re: 誰も語らなかった津軽キリシタン 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/04(Mon) 12:16
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    さて あまりキリシタンのことを書いていなかったので
    ここにいちおう補足しておきます。 もちろん津軽藩におけるキリシタンのことです。

    徳川幕府はキリシタンを弾圧するようになって
    信者を伊豆や八丈島に島流しした。
    そのうちにしっかりした監督者のいる本州最北端の津軽藩に流すことを考えた。
    津軽藩はけっこう徳川幕府に協力的だと判断したのだろう。
    当時、東北には伊達政宗がいて、家康から煙たがられていた存在だった。
    伊達政宗は通商交渉を結ぼうとして支倉常長をスペインに派遣していた。
    政宗はキリシタンではないが、スペインやポルトガルと貿易することを考えていた。
    幕府が鎖国政策にふみきって、キリシタン弾圧の政策を始めても
    政宗は支倉常長が帰国するまで領内でのキリスト教信者の弾圧の実施の延期願いを幕府に申し入れていたという。
    とうとう、成果があがらず支倉常長が仙台に戻ってきたので、やむなく政宗も幕府の方針にしたがう。
    しかし、幕府としては政宗は要注意なので、背後からにらみを利かせる意味でも、津軽藩にキリシタンの毅然とした態度をとらせたらしい。(政宗よ勝手なことをするな。津軽藩を見習え)

    津軽藩はキリシタンを受け入れて荒地を開拓させた。
    開拓地から農作物が収穫できるようになるまで、最低限の食料は保障していたらしい。
    信者は食べるものや着るものは与えられたらしい。
    本人の信仰は認める。しかし、他人に布教してはならない。
    そのことは、完全な迫害ではなかったので、信者はなんとか津軽での生活を受け入れたらしい。
    だが、しだいに幕府の締め付けが厳しくなってくる。
    津軽藩でも、こっそり布教していたものが見つかり、火刑の刑を受けている。

    今日、津軽藩に当時の信者の末裔はいない。一代きりの信仰で、子孫に布教することは厳禁されたから。
    当時のキリシタンの資料もあまり残っていない。

    南部藩や秋田の佐竹藩でもキリシタンがいてなんらかの措置があったという話は残っている。(佐竹藩主義宣が側室お西に棄教を迫り、彼女がそれを拒んだため、ついに追放された等)
    鉱山などで働く者はキリシタンでもおとがめがなかったので、かなりの数の信者が働いていたらしい。
    岩手県南、つまり当時の伊達藩の鉱山関係の場所には、そういう資料がある。
    いわゆる隠れキリシタンの資料は、ここではけっこう残っている。
    岩手県の水沢の後藤寿庵は有名なキリシタンで、伊達藩でも伊達政宗が存在を容認していたふしがある。
    この本でも津軽藩に流されたキリシタンたちがヨーロッパ人の宣教師たちや後藤寿庵と連絡を取り合っていたことが述べられている。
    ほかの本でも、伊達藩や南部藩における後藤寿庵の活動はくわしく述べられている。


    [No.15864] Re: つのだじろう「悪魔の手毬唄」 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/04(Mon) 11:43
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    可否さん、 Toshichan   こんにちは

    > > > この掲示板はあとから訂正がきかないのです。
    > > > 議論をしたとき、都合の悪い自分の過去の書き込みを訂正する人がいるので
    > > > その防止のために。

    > > この掲示板の記事の訂正は、一旦削除して再度投稿することでお願いしています。
    > > すでにコメントが付いた場合は、「訂正」のコメント投稿か、システム担当者に
    > > 削除を依頼することでよろしくお願いします。

    >  いや、きちっと、推敲してあげる人は偉いなあ!。
    >  案外、投稿すると、変換ミスや、家内がごちゃごちゃ、云うのんに、気取られて
    > 打ち損ないのママ、上げてまいまんねん。

    Toshichan 私も何度か見直してアップしているのですが
    やはり、その後で打ち間違いに気がつきます。

    会員に限定の喫茶室などは
    後での修正がきくから書くのが楽なのですが。


    [No.15863] Re: つのだじろう「悪魔の手毬唄」 投稿者:   投稿日:2010/10/04(Mon) 11:29
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     可否さま。皆様、まいど。
    >
    > > この掲示板はあとから訂正がきかないのです。
    > > 議論をしたとき、都合の悪い自分の過去の書き込みを訂正する人がいるので
    > > その防止のために。
    >
    > この掲示板の記事の訂正は、一旦削除して再度投稿することでお願いしています。
    > すでにコメントが付いた場合は、「訂正」のコメント投稿か、システム担当者に
    > 削除を依頼することでよろしくお願いします。

     いや、きちっと、推敲してあげる人は偉いなあ!。
     案外、投稿すると、変換ミスや、家内がごちゃごちゃ、云うのんに、気取られて
    打ち損ないのママ、上げてまいまんねん。
     直したいけど、直せへん。まあ、まあ、ええか?解るやろう、の連続ですわ。
     えらい、すんまへん。堪忍な。

                             Toshichan in Kyouto-fu


     


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