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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・33 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・33 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/8/7 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 収容所にも春がきた・1

 春になった。日中でも暗くなるほど黄砂が空を覆うと春は近づいた。「寒いよ」と泣く子はいなくなった。朝鮮の春は五月だった。 レンギョウが黄色の小さな花をつけ、それから桜も挑もみんな同時に咲いた。なかでもにせアカシヤの白い花は、朝鮮の林野の特徴になっていた。朝鮮の山ははげ山が多かった。その禿山に朝鮮総督府は、寒冷地で荒れた土地にも適しているにせアカシヤを植えた。 学校や役所のまわりには、日本国の象徴として桜の木が朝鮮総督府のお声かかり植えられ、アカシヤの垣根が作られた。順安にもアカシヤと桜の木が目だった。アカシヤの白い花は甘い蜜がいっぱいあって、私たちが飢えていないときも口いっぱいにたべてその甘味を味わっていた。順安にあった二セアカシヤの中には大きな木になるものもあった。日本人収容所の周りには高いポプラとアカシヤが数本垣根のようにたっていた。順安駅から収容所の側を通ってまっすぐにのびる広い道の街路樹も二セアカシヤの並木だった。
 朝がやってくると子供達は二セアカシヤめがけて駆けつけた。そして咲き始めた白い房状になった二セアカシヤの花を手に入れそのまま口に入れた。私たちにとってただ一つの甘味だった。
 二セアカシヤにはとげがいっぱいあった。そのとげが子供達の皮膚に刺さりそれがまた化膿しておできの原因になった。しかし、おできがどんなに広がろうと飢えには勝てなかった。二セアカシヤの花が咲いている間、私たちは二セアカシヤのお世話になった。
 その頃、どこの家庭でも食べられる野草は何でも料理されていた。春の到来とともに道端や空き地にある野草を採取してきては食卓に載せていた。なにが食べられるかどう料理するのかが話題になっていた。たいていはおしたしにして塩をかけていた。その中でも二セアカシヤの葉っぱは煮付けにすれば、すこし苦かったがもっともおいしかった。
 その頃 「大江さんのところは物乞いをしているらしい」。そんな噂がひろがった。大江さんは、終戦の年の六月になって内地から順安に引っ越してきた家庭だった。お父さんは東京帝国大学法学部をでて、四〇才前の若さのなか、雲母会社の社長で順安に赴任してきた。順安では雲母がとれた。雲母会社は従業員四〇名ぐらいの小さな会社だったが、戦争中は飛行機の部品になる重要な軍需会社だった。国民学校三年生を頭に双子も含めて五名もいる子沢山だった。朝鮮に渡ってくる時、荷物をまとめたところ空襲に会い、家具はなにもなかった。終戦前だったが順安の日本人たちは大江さんの家庭に、鍋や釜や布団を含めてみんなで出し合って支えていた。
 大江家にとって、もともとなにもない状況での終戦だった。雲母会社の朝鮮人ともまだ知り合いになっていなかった。食糧を得るために行き当たりばったりに 「なにか食糧を」とたのんで歩いていた。
 わずかの対価は払っていたが、それを 「物乞い」といわれたようだった。

 五月のおわりに突如として晋司と紺野さんがかえってきた。何の連絡もなかったのでわが家ではびっくりもし、喜びもひとしおだった。兄達が迫撃砲弾をかたどった花瓶と手榴弾をかたどった灰皿をわが家の大きな穴の中に捨てた、それで財産隠匿の罪になり懲役三ケ月の刑期を終えて戻ってきたのだった。武器隠匿だったら返してもらえなかっただろう。そして返してもらえなかった長期刑になった多くの日本人は、その後の朝鮮戦争の中でほとんどが獄中で死亡したという。
 晋司は命拾いをした。晋司はあまり詳しい話しはしなかった。ただ責任を感じていた兄達に「安田君があれは武器でない。ただの飾り物だ。と証言してくれた」と漏らしていた。そのころ保安隊の隊長だった安田さんこと洪泰保が失脚したという話が伝わった。その理由はわからなかった。
 洪泰保はチーネがいっていたようにキリスト教のせいだったか、それとも晋司の証言に立ったことがその理由だったのかわからなかった。

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