戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・11 (林ひろたけ)
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朝鮮人が日本人学校に転校してきた・3
四年生になると教育勅語と天皇歴代一二四代の暗唱があった。もちろん三年生の私たちはこれから覚えることになっていたのでまったくおぼえていなかった。しかし、椙山君と新井君はふたりとももうすっかりおぼえていた。修身の時間に新井君が教育勅語を暗唱してみせた。つづいてそれに負けじと椙山君が天皇陛下一二四代の暗唱を 「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく」 とはじめて、いつ終るかわからないほど続いて 「孝明、明治、大正、今上陛下」 と暗唱しおわったとき先生は 「よくできました」 といったがすこしおかしな顔をした。多分よく覚えていると感心しているのだと思った。
四年生でもまだ覚えていないのに二人とも三年生で全部暗唱できた。順ちゃんも洋武もひとつも覚えていなかったので、先生も暗唱などできないことを分かり切っていたのか指名しなかった。
ある時、順ちゃんと私は先生のところによばれた。先生は 「椙山君も新井君も同級生が百名もいる普通学校で一番できる子だから算数は君たちも負けると思っていたが、国語まで半島人にまけるの」といって漢字のテストを返してくれた。その頃一年生ではカタカナを習い、二年生になってひらがなを習い、漢字を習うのは二年生の終りごろからだった。漢字の試験も三年生になってはじまった。
椙山君も新井君も百点だったが、順ちゃんが九五点、洋武は八十点だった。「武ちゃんは自分の字もかけないの。太平洋の洋の字がまちがっている」。洋の字の羊の方に先生は赤インクで大きく一本線をいれて 「半島人に負けるなって」 と自分のことのようにくやしがった。正直いって私も悔しかった。「日本人は一等国民、朝鮮人は四等国民。だから日本人は朝鮮人よりえらいんだ」とくり返し教えられていた。いくら普通学校で成績が良くても日本人なのに朝鮮人に負けることは耐えられなかった。
新井君や椙山君と仲良くなって聞いた話しでは、二人とも、三才の時から塾に行って、漢文と日本語を勉強していたことを知った。これでは日本人の子供が成績で負けてもしかたないなと思った。末永先生が考えてたのと違って、新井君も椙山君も漢字や歴史はものすごくよくできたけれど、算数は順ちゃんや洋武の方ができがよかった。
あるとき 「大きくなったら」 という授業があった。「ぼくは大きくなったら海軍兵学校いって手柄をたてて、海軍大将になります」。私は元気よく答えた。学校に上がるまでわが家にあった数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章つけて剣下げて。お馬にのってハイドードー」 という歌があった。そして軍人になるのなら海軍に行くことにしていた。めった誉められることない洋武だったが、このときばかりは 「しっかり勉強して海軍兵学校に合格してください」 とほめられた。順ちゃんは 「ぼくは大学にはいって博士になります」 と答えた。先生はにこにこしていた。椙山君は 「満州軍官学校にいって満州国大将になります。」 と答えた。新井君は「平壌医専にいってキム先生のようなお医者さんになります」 と答えた。先生は 「キン先生でしょう」 といいなおして注意した。新井君はお医者さん希望だった。順安にはキリスト教の病院が撤収になった後、唯一のお医者さんが 「金医院」 を経営している金先生だった。当時の朝鮮では伝染病が周期的に住民を襲っていた。洋武が学校に上がる前年の夏、林家の兄弟は次々にパラチフスにかかった。ちょうど浪人して夏休みで朝鮮に帰っていた俊雄を先頭にパラチフスのため、座敷には、枕を並べて寝込むことになった。幼少だった洋武の病状はもっとも重く長く寝込んだことがあった。金先生は毎日のように通ってくれて兄弟たちの病気を治してくれた。洋武は扁桃腺も弱く毎年冬になると扁桃腺をやいてもらいに通った。兄和雄は肺結核の療護を自宅でしていたので、やはり金先生のお世話になった。いつもにこにこしていてやさしい先生だった。ただ日本人からはお金をたくさん取るんだとハナがときどき笑っていた。その先生は金という姓にこだわっていたようだった。
ハナも 「金先生も下に山とか田とかつけてくれるといいのにね」 といったことがある。朝鮮人に日本名を名乗ることが強要されて、金という姓の多い朝鮮の人は下に山とか田とかつけて金山とか金田と名乗る朝鮮人がおおかった。日本名に変えない金先生には日本人社会では批判があったようだった。朝鮮読みではキムといい、日本読みではキン先生だった。その金先生も昭和一九年を過ぎると星という字を下につけて金星医院となのった。金星医院になってからも日本人は読みにくかったのだろうか、キンセイ先生とはいわずにキン先生といった。
椙山君も新井君も漢字とか歴史とかとてもよくできた。つづり方ではまだ私たちが習っていない漢字もどんどん使った。「僕」 という漢字を使っていた。椙山君はかけっこも早く私もかけっこでときどき椙山君にまけることがあった。そんなとき、順ちゃんは「ぼくのお父さんは椙山君や新井君たちが転入してきたとき、朝鮮人だからといって馬鹿にしてはいけないよ。立派なお友達だからといわれたんだ」 とそっと教えてくれた。
大人たちの思惑にもかかわらず、私たちはすぐ仲よくなったし、またけんかもした。
あるとき、新井君と椙山君がけんかをした。原因はなにかよくわからなかった。二人とも朝鮮語をまじえてけんかをしていた。その時、新井君が「それなら警察にいこう」といった。椙山君はみるみる萎えてこの一言が最後のとどめになった。これには順ちゃんも洋武もびっくりした。朝鮮人の子供達には警察と言うととても恐ろしいところだった。子供達が「警察にいこう」というのは最後の脅しだった。日本人の子供にとって警察は身内みたいなもので恐ろしい存在でもなかったし、警察署長さんは日本人で洋武たちは小さな時からよく警察署にお使いに行かされて、ついでに遊んできた。まだ、学校に上がる前、お使いで警察署にいき、おまわりさんの椅子にすわっていたら、若い朝鮮人の青年たちが数人縄で数珠つなぎになって警察に連れてこられた。
「あいつら、神社の前でお辞儀をしなかった。だから署長さんから叱ってもらうんだ」 と朝鮮人のお巡りさんが教えてくれた。警察では署長さんは日本人だったが、朝鮮人のお巡りさんのほうが多かった。裏の道場の方から悲鳴が聞こえてきた。朝鮮人の若者達が鞭で殴られていたようだった。朝鮮には苔刑というのがあって天皇陛下に従わない人達は懲らしめに苔刑が繰り返し行われていた。朝鮮人にとって警察はとても怖い存在だった。それからも椙山君や新井君とけんかになったとき、「警察に行こう」 といわれるたびに 「いいよ」 と答えた。その脅しの効果がなくなると悔しそうにしていた。
順ちゃんと洋武たちは、新井君の家にも椙山君の家にも遊びにいった。新井君の家は順安の一番南の方にありすこし遠かった。家でもまったく日本風でお母さんも上手な日本語を話した。しかし、家は朝鮮風で、林家が住んでいる館北里の朝鮮家屋とは全く違って大きな家だった。屋根は瓦葺で瓦の間に白い漆喰をはさみ、軒が大きくそっくり返ったいる伝統的な朝鮮風の家屋だった。そしてカギ状の建屋に部屋がたくさんあって中庭もある立派な家だった。新井君の家にはおじいさんがいた。おじいさんはあごに白いひげをたくわえ白い服をきて机に向かっていた。部屋のなかには漢字ばかりある難しそうな本が一メートルもの高さにも平積みしてあった。おじいさんは「よく来てくれたね」と歓迎してくれたが、洋武たちには近寄りがたかった。中はオンドルと板の間と子供部屋もあり林家より大きな家だった。板の間には椅子と机があって、まだ珍しかった洋風の部屋もあった。和雄兄さんは「あれが朝鮮の典型的なヤンバンの家なんだろうね」と新井君の家のことを評した。
椙山君の家は、砂金会社の社宅の一軒をオンドル付に改造して面長公舎にしていた家だった。
その社宅はわが家から順安神社をはさんで反対側の山の中腹にあったが、砂金会社でも所長さんなどえらい人が住む社宅に並んでいた。椙山君の家はおかあさんも日本語はたどたどしかったが、私たちが遊びに行くと家でも日本語で話していた。兄弟もどちらかというと朝鮮風だった。
順ちゃんと遊びにいったとき、お母さんから「ご飯たべたか」と聞かれたので二人とも「まだです」と正直にこたえた。椙山君の家は、砂金会社にお父さんが勤めていた渋井さんの家のとなりだった。そこで「義子ちゃんも呼んでコイ」とお母さんが梅山君に言って、三人で昼ご飯をいただくことになった。子どもたちが食事をするということで椙山君の兄と姉はオンドルから追い出された。あとでハナから叱られたのだが、「朝鮮人はあいさつのかわりに『ご飯たべましたか』ときくのだよ。朝鮮の人はご飯が食べられない人が多いのでそう聞くのが一番親しみを示すことになるの」 と説明をされた。
「うちは朝鮮風にやります」。おかあさんは朝鮮風に立膝ですわり、真鍮のサバリ (お椀) に白いご飯をついだ。お皿もお箸も黄金色に輝く真鍮製だった。お母さんが何か朝鮮語で椙山君にいって、椙山君だけ瀬戸物の茶碗だった。「真鍮のサバリは供出で出してしまったんだ。それで、真鍮のほうがお客さん用にとってあるのを使っているんだ」 と椙山君が自分の茶碗が瀬戸物であるを説明した。真鍮のサバリを朝鮮人達が使っていることは知っていた。しかし、それで食べるのは初めてだった。戦争が始まると金属類の供出が繰り返された。林家でも金属類の供出にとりくんでいた。朝鮮人の家庭では、通常真鍮製の黄金色の茶碗、皿箸や匙を使っていて、大変きれいなもので私も一度それで食べてみたかった。金属類の供出には、どこの朝鮮人の家庭にある真鍮の食器がねらわれていた。
真っ赤な朝鮮漬けとワカメの入ったお汁だった。そして、椙山君が先に食べて見せたのだが、タンチユジャンという唐辛子の味噌をチシャにくるんでおかずにした。椙山君は上手にくるんだが、日本人の子供たちはくるむだけで大騒ぎだった。そして、椙山君の家の漬物は林家の漬け物とは味が違っていて、ものすごくからかったがおいしかった。義子さんはときどき椙山君の家に行くらしく家族の人にもなれていた。私たちは椙山君の家がすっかり気に入って、食事は遠慮したがそれからもしばしば遊びにいくことになった。
椙山君の兄弟は多かった。そのなかに 「鮮鉄」 (朝鮮鉄道) の鉄道員になって平壌のに出ている二十才前のお兄さんがいた。お兄さんは私たちともよく遊んでくれた。遊ぶといっても、機関車がどうして動くのかとか、なぜタブレット (鉄道用具) が必要なのかなど鉄道の話をきくのが楽しみだった。
いつだったかお給料の話が出て 「朝鮮人の助役の方が日本人の切符切りより給料が少ない。」と話していた。私にはそれがどんな意味があるかわからなかった。日本人はもともと朝鮮にいた人にも、朝鮮の会社や鉄道や役所につとめると 「在鮮手当」 が六割ほどついて朝鮮人の倍以上に給料が高くなってしまうということを話していたのだった。林家は自営業の農家だったからあまり関心はなかったが、「日本人だから給料が高くても当然」 だと思って聞いていた。しかし、椙山君はなんどもお兄さんに 「なぜ。どうして」 と聞きなおしていた。
四年生になると教育勅語と天皇歴代一二四代の暗唱があった。もちろん三年生の私たちはこれから覚えることになっていたのでまったくおぼえていなかった。しかし、椙山君と新井君はふたりとももうすっかりおぼえていた。修身の時間に新井君が教育勅語を暗唱してみせた。つづいてそれに負けじと椙山君が天皇陛下一二四代の暗唱を 「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく」 とはじめて、いつ終るかわからないほど続いて 「孝明、明治、大正、今上陛下」 と暗唱しおわったとき先生は 「よくできました」 といったがすこしおかしな顔をした。多分よく覚えていると感心しているのだと思った。
四年生でもまだ覚えていないのに二人とも三年生で全部暗唱できた。順ちゃんも洋武もひとつも覚えていなかったので、先生も暗唱などできないことを分かり切っていたのか指名しなかった。
ある時、順ちゃんと私は先生のところによばれた。先生は 「椙山君も新井君も同級生が百名もいる普通学校で一番できる子だから算数は君たちも負けると思っていたが、国語まで半島人にまけるの」といって漢字のテストを返してくれた。その頃一年生ではカタカナを習い、二年生になってひらがなを習い、漢字を習うのは二年生の終りごろからだった。漢字の試験も三年生になってはじまった。
椙山君も新井君も百点だったが、順ちゃんが九五点、洋武は八十点だった。「武ちゃんは自分の字もかけないの。太平洋の洋の字がまちがっている」。洋の字の羊の方に先生は赤インクで大きく一本線をいれて 「半島人に負けるなって」 と自分のことのようにくやしがった。正直いって私も悔しかった。「日本人は一等国民、朝鮮人は四等国民。だから日本人は朝鮮人よりえらいんだ」とくり返し教えられていた。いくら普通学校で成績が良くても日本人なのに朝鮮人に負けることは耐えられなかった。
新井君や椙山君と仲良くなって聞いた話しでは、二人とも、三才の時から塾に行って、漢文と日本語を勉強していたことを知った。これでは日本人の子供が成績で負けてもしかたないなと思った。末永先生が考えてたのと違って、新井君も椙山君も漢字や歴史はものすごくよくできたけれど、算数は順ちゃんや洋武の方ができがよかった。
あるとき 「大きくなったら」 という授業があった。「ぼくは大きくなったら海軍兵学校いって手柄をたてて、海軍大将になります」。私は元気よく答えた。学校に上がるまでわが家にあった数少ないレコードのなかに 「僕は軍人大好きよ。勲章つけて剣下げて。お馬にのってハイドードー」 という歌があった。そして軍人になるのなら海軍に行くことにしていた。めった誉められることない洋武だったが、このときばかりは 「しっかり勉強して海軍兵学校に合格してください」 とほめられた。順ちゃんは 「ぼくは大学にはいって博士になります」 と答えた。先生はにこにこしていた。椙山君は 「満州軍官学校にいって満州国大将になります。」 と答えた。新井君は「平壌医専にいってキム先生のようなお医者さんになります」 と答えた。先生は 「キン先生でしょう」 といいなおして注意した。新井君はお医者さん希望だった。順安にはキリスト教の病院が撤収になった後、唯一のお医者さんが 「金医院」 を経営している金先生だった。当時の朝鮮では伝染病が周期的に住民を襲っていた。洋武が学校に上がる前年の夏、林家の兄弟は次々にパラチフスにかかった。ちょうど浪人して夏休みで朝鮮に帰っていた俊雄を先頭にパラチフスのため、座敷には、枕を並べて寝込むことになった。幼少だった洋武の病状はもっとも重く長く寝込んだことがあった。金先生は毎日のように通ってくれて兄弟たちの病気を治してくれた。洋武は扁桃腺も弱く毎年冬になると扁桃腺をやいてもらいに通った。兄和雄は肺結核の療護を自宅でしていたので、やはり金先生のお世話になった。いつもにこにこしていてやさしい先生だった。ただ日本人からはお金をたくさん取るんだとハナがときどき笑っていた。その先生は金という姓にこだわっていたようだった。
ハナも 「金先生も下に山とか田とかつけてくれるといいのにね」 といったことがある。朝鮮人に日本名を名乗ることが強要されて、金という姓の多い朝鮮の人は下に山とか田とかつけて金山とか金田と名乗る朝鮮人がおおかった。日本名に変えない金先生には日本人社会では批判があったようだった。朝鮮読みではキムといい、日本読みではキン先生だった。その金先生も昭和一九年を過ぎると星という字を下につけて金星医院となのった。金星医院になってからも日本人は読みにくかったのだろうか、キンセイ先生とはいわずにキン先生といった。
椙山君も新井君も漢字とか歴史とかとてもよくできた。つづり方ではまだ私たちが習っていない漢字もどんどん使った。「僕」 という漢字を使っていた。椙山君はかけっこも早く私もかけっこでときどき椙山君にまけることがあった。そんなとき、順ちゃんは「ぼくのお父さんは椙山君や新井君たちが転入してきたとき、朝鮮人だからといって馬鹿にしてはいけないよ。立派なお友達だからといわれたんだ」 とそっと教えてくれた。
大人たちの思惑にもかかわらず、私たちはすぐ仲よくなったし、またけんかもした。
あるとき、新井君と椙山君がけんかをした。原因はなにかよくわからなかった。二人とも朝鮮語をまじえてけんかをしていた。その時、新井君が「それなら警察にいこう」といった。椙山君はみるみる萎えてこの一言が最後のとどめになった。これには順ちゃんも洋武もびっくりした。朝鮮人の子供達には警察と言うととても恐ろしいところだった。子供達が「警察にいこう」というのは最後の脅しだった。日本人の子供にとって警察は身内みたいなもので恐ろしい存在でもなかったし、警察署長さんは日本人で洋武たちは小さな時からよく警察署にお使いに行かされて、ついでに遊んできた。まだ、学校に上がる前、お使いで警察署にいき、おまわりさんの椅子にすわっていたら、若い朝鮮人の青年たちが数人縄で数珠つなぎになって警察に連れてこられた。
「あいつら、神社の前でお辞儀をしなかった。だから署長さんから叱ってもらうんだ」 と朝鮮人のお巡りさんが教えてくれた。警察では署長さんは日本人だったが、朝鮮人のお巡りさんのほうが多かった。裏の道場の方から悲鳴が聞こえてきた。朝鮮人の若者達が鞭で殴られていたようだった。朝鮮には苔刑というのがあって天皇陛下に従わない人達は懲らしめに苔刑が繰り返し行われていた。朝鮮人にとって警察はとても怖い存在だった。それからも椙山君や新井君とけんかになったとき、「警察に行こう」 といわれるたびに 「いいよ」 と答えた。その脅しの効果がなくなると悔しそうにしていた。
順ちゃんと洋武たちは、新井君の家にも椙山君の家にも遊びにいった。新井君の家は順安の一番南の方にありすこし遠かった。家でもまったく日本風でお母さんも上手な日本語を話した。しかし、家は朝鮮風で、林家が住んでいる館北里の朝鮮家屋とは全く違って大きな家だった。屋根は瓦葺で瓦の間に白い漆喰をはさみ、軒が大きくそっくり返ったいる伝統的な朝鮮風の家屋だった。そしてカギ状の建屋に部屋がたくさんあって中庭もある立派な家だった。新井君の家にはおじいさんがいた。おじいさんはあごに白いひげをたくわえ白い服をきて机に向かっていた。部屋のなかには漢字ばかりある難しそうな本が一メートルもの高さにも平積みしてあった。おじいさんは「よく来てくれたね」と歓迎してくれたが、洋武たちには近寄りがたかった。中はオンドルと板の間と子供部屋もあり林家より大きな家だった。板の間には椅子と机があって、まだ珍しかった洋風の部屋もあった。和雄兄さんは「あれが朝鮮の典型的なヤンバンの家なんだろうね」と新井君の家のことを評した。
椙山君の家は、砂金会社の社宅の一軒をオンドル付に改造して面長公舎にしていた家だった。
その社宅はわが家から順安神社をはさんで反対側の山の中腹にあったが、砂金会社でも所長さんなどえらい人が住む社宅に並んでいた。椙山君の家はおかあさんも日本語はたどたどしかったが、私たちが遊びに行くと家でも日本語で話していた。兄弟もどちらかというと朝鮮風だった。
順ちゃんと遊びにいったとき、お母さんから「ご飯たべたか」と聞かれたので二人とも「まだです」と正直にこたえた。椙山君の家は、砂金会社にお父さんが勤めていた渋井さんの家のとなりだった。そこで「義子ちゃんも呼んでコイ」とお母さんが梅山君に言って、三人で昼ご飯をいただくことになった。子どもたちが食事をするということで椙山君の兄と姉はオンドルから追い出された。あとでハナから叱られたのだが、「朝鮮人はあいさつのかわりに『ご飯たべましたか』ときくのだよ。朝鮮の人はご飯が食べられない人が多いのでそう聞くのが一番親しみを示すことになるの」 と説明をされた。
「うちは朝鮮風にやります」。おかあさんは朝鮮風に立膝ですわり、真鍮のサバリ (お椀) に白いご飯をついだ。お皿もお箸も黄金色に輝く真鍮製だった。お母さんが何か朝鮮語で椙山君にいって、椙山君だけ瀬戸物の茶碗だった。「真鍮のサバリは供出で出してしまったんだ。それで、真鍮のほうがお客さん用にとってあるのを使っているんだ」 と椙山君が自分の茶碗が瀬戸物であるを説明した。真鍮のサバリを朝鮮人達が使っていることは知っていた。しかし、それで食べるのは初めてだった。戦争が始まると金属類の供出が繰り返された。林家でも金属類の供出にとりくんでいた。朝鮮人の家庭では、通常真鍮製の黄金色の茶碗、皿箸や匙を使っていて、大変きれいなもので私も一度それで食べてみたかった。金属類の供出には、どこの朝鮮人の家庭にある真鍮の食器がねらわれていた。
真っ赤な朝鮮漬けとワカメの入ったお汁だった。そして、椙山君が先に食べて見せたのだが、タンチユジャンという唐辛子の味噌をチシャにくるんでおかずにした。椙山君は上手にくるんだが、日本人の子供たちはくるむだけで大騒ぎだった。そして、椙山君の家の漬物は林家の漬け物とは味が違っていて、ものすごくからかったがおいしかった。義子さんはときどき椙山君の家に行くらしく家族の人にもなれていた。私たちは椙山君の家がすっかり気に入って、食事は遠慮したがそれからもしばしば遊びにいくことになった。
椙山君の兄弟は多かった。そのなかに 「鮮鉄」 (朝鮮鉄道) の鉄道員になって平壌のに出ている二十才前のお兄さんがいた。お兄さんは私たちともよく遊んでくれた。遊ぶといっても、機関車がどうして動くのかとか、なぜタブレット (鉄道用具) が必要なのかなど鉄道の話をきくのが楽しみだった。
いつだったかお給料の話が出て 「朝鮮人の助役の方が日本人の切符切りより給料が少ない。」と話していた。私にはそれがどんな意味があるかわからなかった。日本人はもともと朝鮮にいた人にも、朝鮮の会社や鉄道や役所につとめると 「在鮮手当」 が六割ほどついて朝鮮人の倍以上に給料が高くなってしまうということを話していたのだった。林家は自営業の農家だったからあまり関心はなかったが、「日本人だから給料が高くても当然」 だと思って聞いていた。しかし、椙山君はなんどもお兄さんに 「なぜ。どうして」 と聞きなおしていた。