戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・32 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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居住地: メロウ倶楽部
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満州からお兄ちゃんが一人で逃げてきた・2
二月が過ぎても内地に帰れる見こみはなかった。何回も今度は帰れるという話が伝わったがそのたびに立ち消えになった。かなり寒い日だった。みんなで子供達が遊んでいるとき、その一人が 「おれの従兄弟のお兄さんが今機関車の機関士で順安にきているんだ。みんなに来い来いといっているんだ」 と自慢した。私たちは寺山君を先頭に六・七人ぞろぞろ機関車の中に押しかけた。従兄弟のお兄さんはまだ二〇歳前の青年だった。鉄道の帽子をあご紐でしっかり固定して朝鮮人の助手二人をのせてつぎつぎに日本語で指示をしていた。狭い機関車の中に乗りこむと機関車は引き込み線に向かって勢いよく走っていった。朝鮮人の助手につぎつぎと指示をしているお兄さんはすばらしく見えた。機関車の中は初めてだった。前の釜のふたが左右にバッツとひらくと助手の朝鮮人が石炭をシャベルで放り込む、「もっとと(もっと)たくさん、早くしろ」 などお兄さんは命令していた。「おまえらの国のためだ。がんばれ」 と日本語で叱咤していた。朝鮮人の機関士が少ないので日本人の機関士がそのまま仕事をしているんだよと教えてくれた。機関車は、普通江の鉄橋を渡り、砂金会社の引込み線を一〇分ほど走った。そこには米を積んだ貨車が置き去りにされていた。朝鮮人の助手たちは連結の作業のために機関車を離れた。
そのお兄さんは、助手たちが機関車を離れて作業をしている間に、「連中はいまトンニムマンセイ (独立万歳) といえばなんでもやるからな」 といって笑った。
「昭和一八年の戦争中だが、おれが機関士なったその月に、列車が脱線してひっくり返ったたんだ。転轍手が間違ったんだ。でも、軍事列車だったからたいへんだった。すぐにおれも警察に捕まって留置所に入れられた。そこはひどかったな。夜も横になって寝られないほどいっぱいだった。その中に、独立運動家が二人つかまっていた。もう留置所に二年もいるようだったが、彼らに対して強盗やこそ泥たちも一目も二目もおいていた。彼らだけ横になって寝ていたな。おれはすぐに二日で留置所からでられたが、戦争が終わったら彼らは英雄だろうな。トンニムマンセイは今朝鮮人ではおまじないみたいだよ」。子供たちに独り言のようにつぶやいていた。貨車を機関車に連結するとまた順安駅のほうに向かって戻ってきた。 「これから新義州(満州の国境の府)まで行ってくるんだ」。私たちはこのまま三八度線のほうに向けて走って、みんなを内地に返してはしいと願った。「開城(三八度線上の都市)まで五時聞か六時聞かな」とお兄さんはいった。
「どうして日本人を引き止めるんかな。俺たちのように特別の技術を持っているものは別にして。今度君らが内地に帰るときは客車をいっぱいひっぱってくるからな」。そういってわかれた。かえりにお兄さんは石炭をほしいだけ持っていけといった。ポケットいっぱいの石炭を持って顔を真っ黒にして収容所に帰った。石炭は親たちが奪い取るようにとりあげた。
子供達は「寒いよ」というか「お腹がすいた」というしかない状況になっていた。寺山君を中心に「おい松をたべにいこう」ということで日本人墓地に向かった。「共産主義だから人のものは俺のものだ」そんなことをいいながら、墓地の上手にある松林に入った。持ってきた肥後守(小刀)で松の皮をむいて皮と木の間にある薄い白い皮をとりだした。太い幹はどたくさん皮がとれた。立派な松がつぎつぎに皮がむかれていった。皮はすこし甘い感じがして飢えを癒してくれた。私たちがその場所を知っていたのは、戦争が終わる前、松根油をとりいったところだった。松根油とは松の根から油を搾り取り、飛行機の燃料にするために国民学校の四年生以上は勤労奉仕《注1》をしたところだった。日本人墓地には新しい土盛りがしてあり、細い丸太を削り、そこに死んだ人の名前がかいてある卒塔婆が立っていた。「もう何人死んだのかな」。寺山君は 「今度はお前だ」 など脅かすようにいっていた。
私たちは数日続けて、松の薄皮を食べにいった。ただ、ときどき朝鮮人の大人から 「こらあ」と追われるようになった。
ある日「君たちは日本人か」 と中国服を着て、しかもそれがぼろぼろになったひどい姿をした若いお兄さんが声をかけてきた。「ワー」 と逃げようとしたとき 「おれも日本人だ」 といった。
「一人で満州から逃げてきたんだ。君たちの家に案内してくれ」。お兄さんは真っ黒な顔でしもやけがいっぱいだった。綿入れの袖が切れていて物乞いの格好だった。日本人墓地らしいところにさしかかったので、休んでいたところだった。
そのお兄さんは開拓団に入っていたがみんなとちりじりになり、一人で歩いて日本にかえる途中だといった。
満州から歩いてきて、歩いて三八度線をこえるという、このお兄さんを私たちは特別な親しみをもった。収容所に案内し、日本人会の事務所にしている大村さんの社宅に連れていった。お兄さんは翌日もその翌日もわらじを作っていた。お兄さんの靴はぼろぼろになっていて「これからはわらじを履いて歩くんだ」と藁やら麻袋をほどいてわらじをたくさん作っていた。わらじを作る側に子ども達が群がっていた。お兄さんはわらじを作りながら「徐州、徐州と人馬は進む。徐州いよいか住みよいか」など戦争中の軍歌を聞かせた。 「開拓団ではこの歌を歌って元気を出した。
おれは一人で歩く時この歌を歌っている」など語っていた。
お兄さんは満州や朝鮮の話をいろいろしていた。
「満州では、日本人が道ばたで転がって死んでいるんだよ。飢え死しているのか病気かわからないんだがね」「たくさん死んでいるの」「そう。たくさん死んでいるんだよ。死んでも死体を片づける人が居ないんだよ」
「ソ連兵もすごいんだ。日本人の男は次々に捕虜にして収容所に送り込んでいたよ。おれはそれに巻き込まれないように逃げ出したんだ」。
満州では内戦がはじまって中国人同士が激しく鉄砲で撃ち合っている様子を話していた。ソ連兵の横暴が順安での比でないことを話した。「同じ共産軍でもパーロは違う。針一本略奪しない。国民党軍も保安隊もひどい。だがパーロはちがう」。このお兄さんは「パーロは違う」ということを繰り返した。パーロというのは八路軍(中国共産党軍)のことだった。このお兄さんの話を聞いて、ソ連兵がひどいことをくりかえしていたので、パーロに会いたくなった。どんな兵隊さんたちか知りたくなった。お兄さんは数日日本人会にいただけで、いなくなった。無事、三八度線をこえられたかその後の噂は聞かなかった。
私は兄たちにパーロのことを聞いてみた。兄達は「そうらしいね」とあまり関心はしめさなかったが、否定はしなかった。
注1:勤労をもって奉仕活動を行なう事
二月が過ぎても内地に帰れる見こみはなかった。何回も今度は帰れるという話が伝わったがそのたびに立ち消えになった。かなり寒い日だった。みんなで子供達が遊んでいるとき、その一人が 「おれの従兄弟のお兄さんが今機関車の機関士で順安にきているんだ。みんなに来い来いといっているんだ」 と自慢した。私たちは寺山君を先頭に六・七人ぞろぞろ機関車の中に押しかけた。従兄弟のお兄さんはまだ二〇歳前の青年だった。鉄道の帽子をあご紐でしっかり固定して朝鮮人の助手二人をのせてつぎつぎに日本語で指示をしていた。狭い機関車の中に乗りこむと機関車は引き込み線に向かって勢いよく走っていった。朝鮮人の助手につぎつぎと指示をしているお兄さんはすばらしく見えた。機関車の中は初めてだった。前の釜のふたが左右にバッツとひらくと助手の朝鮮人が石炭をシャベルで放り込む、「もっとと(もっと)たくさん、早くしろ」 などお兄さんは命令していた。「おまえらの国のためだ。がんばれ」 と日本語で叱咤していた。朝鮮人の機関士が少ないので日本人の機関士がそのまま仕事をしているんだよと教えてくれた。機関車は、普通江の鉄橋を渡り、砂金会社の引込み線を一〇分ほど走った。そこには米を積んだ貨車が置き去りにされていた。朝鮮人の助手たちは連結の作業のために機関車を離れた。
そのお兄さんは、助手たちが機関車を離れて作業をしている間に、「連中はいまトンニムマンセイ (独立万歳) といえばなんでもやるからな」 といって笑った。
「昭和一八年の戦争中だが、おれが機関士なったその月に、列車が脱線してひっくり返ったたんだ。転轍手が間違ったんだ。でも、軍事列車だったからたいへんだった。すぐにおれも警察に捕まって留置所に入れられた。そこはひどかったな。夜も横になって寝られないほどいっぱいだった。その中に、独立運動家が二人つかまっていた。もう留置所に二年もいるようだったが、彼らに対して強盗やこそ泥たちも一目も二目もおいていた。彼らだけ横になって寝ていたな。おれはすぐに二日で留置所からでられたが、戦争が終わったら彼らは英雄だろうな。トンニムマンセイは今朝鮮人ではおまじないみたいだよ」。子供たちに独り言のようにつぶやいていた。貨車を機関車に連結するとまた順安駅のほうに向かって戻ってきた。 「これから新義州(満州の国境の府)まで行ってくるんだ」。私たちはこのまま三八度線のほうに向けて走って、みんなを内地に返してはしいと願った。「開城(三八度線上の都市)まで五時聞か六時聞かな」とお兄さんはいった。
「どうして日本人を引き止めるんかな。俺たちのように特別の技術を持っているものは別にして。今度君らが内地に帰るときは客車をいっぱいひっぱってくるからな」。そういってわかれた。かえりにお兄さんは石炭をほしいだけ持っていけといった。ポケットいっぱいの石炭を持って顔を真っ黒にして収容所に帰った。石炭は親たちが奪い取るようにとりあげた。
子供達は「寒いよ」というか「お腹がすいた」というしかない状況になっていた。寺山君を中心に「おい松をたべにいこう」ということで日本人墓地に向かった。「共産主義だから人のものは俺のものだ」そんなことをいいながら、墓地の上手にある松林に入った。持ってきた肥後守(小刀)で松の皮をむいて皮と木の間にある薄い白い皮をとりだした。太い幹はどたくさん皮がとれた。立派な松がつぎつぎに皮がむかれていった。皮はすこし甘い感じがして飢えを癒してくれた。私たちがその場所を知っていたのは、戦争が終わる前、松根油をとりいったところだった。松根油とは松の根から油を搾り取り、飛行機の燃料にするために国民学校の四年生以上は勤労奉仕《注1》をしたところだった。日本人墓地には新しい土盛りがしてあり、細い丸太を削り、そこに死んだ人の名前がかいてある卒塔婆が立っていた。「もう何人死んだのかな」。寺山君は 「今度はお前だ」 など脅かすようにいっていた。
私たちは数日続けて、松の薄皮を食べにいった。ただ、ときどき朝鮮人の大人から 「こらあ」と追われるようになった。
ある日「君たちは日本人か」 と中国服を着て、しかもそれがぼろぼろになったひどい姿をした若いお兄さんが声をかけてきた。「ワー」 と逃げようとしたとき 「おれも日本人だ」 といった。
「一人で満州から逃げてきたんだ。君たちの家に案内してくれ」。お兄さんは真っ黒な顔でしもやけがいっぱいだった。綿入れの袖が切れていて物乞いの格好だった。日本人墓地らしいところにさしかかったので、休んでいたところだった。
そのお兄さんは開拓団に入っていたがみんなとちりじりになり、一人で歩いて日本にかえる途中だといった。
満州から歩いてきて、歩いて三八度線をこえるという、このお兄さんを私たちは特別な親しみをもった。収容所に案内し、日本人会の事務所にしている大村さんの社宅に連れていった。お兄さんは翌日もその翌日もわらじを作っていた。お兄さんの靴はぼろぼろになっていて「これからはわらじを履いて歩くんだ」と藁やら麻袋をほどいてわらじをたくさん作っていた。わらじを作る側に子ども達が群がっていた。お兄さんはわらじを作りながら「徐州、徐州と人馬は進む。徐州いよいか住みよいか」など戦争中の軍歌を聞かせた。 「開拓団ではこの歌を歌って元気を出した。
おれは一人で歩く時この歌を歌っている」など語っていた。
お兄さんは満州や朝鮮の話をいろいろしていた。
「満州では、日本人が道ばたで転がって死んでいるんだよ。飢え死しているのか病気かわからないんだがね」「たくさん死んでいるの」「そう。たくさん死んでいるんだよ。死んでも死体を片づける人が居ないんだよ」
「ソ連兵もすごいんだ。日本人の男は次々に捕虜にして収容所に送り込んでいたよ。おれはそれに巻き込まれないように逃げ出したんだ」。
満州では内戦がはじまって中国人同士が激しく鉄砲で撃ち合っている様子を話していた。ソ連兵の横暴が順安での比でないことを話した。「同じ共産軍でもパーロは違う。針一本略奪しない。国民党軍も保安隊もひどい。だがパーロはちがう」。このお兄さんは「パーロは違う」ということを繰り返した。パーロというのは八路軍(中国共産党軍)のことだった。このお兄さんの話を聞いて、ソ連兵がひどいことをくりかえしていたので、パーロに会いたくなった。どんな兵隊さんたちか知りたくなった。お兄さんは数日日本人会にいただけで、いなくなった。無事、三八度線をこえられたかその後の噂は聞かなかった。
私は兄たちにパーロのことを聞いてみた。兄達は「そうらしいね」とあまり関心はしめさなかったが、否定はしなかった。
注1:勤労をもって奉仕活動を行なう事