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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・14 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・14 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/18 8:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 栗本鐵工所の疎開

 砂金会社が縮小したり、お父さんが出征して家族が内地に帰ったりして、国民学校の子供が少なくなって二十名を割るほど少なくなっていた。
 ところが三年生の後半の昭和十九年おわりごろ、大阪からぞろぞろと転校生があった。国民学校の子ども達は倍以上になって四十名をこえていた。順安砂金会社は、金の採集をやめにして規模を縮小して、工場や社宅などの施設がいっさい栗本鐵工所という大阪の会社に売り払ってしった。砂金会社の社宅を栗本鐵工所に売り渡したので、林家の京義国道の反対側で、順安神社の麓にあたるところに数軒の社宅を作り砂金会社の社宅も移ってきていた。椙山君の家はその一軒を面長公舎にしていたものだった。砂金会社の移転が進むなか、栗本鐵工所の工場が大阪から疎開しはじめていた。駅前にあった砂金会社のクラブも社宅も栗本鐵工所のものになった。普通江の川岸にあった工場も朝鮮人向けの社宅も栗本繊工所のものになった。職員の家族はクラブの順安駅の前の社宅に入り、職工の家族は普通江の川沿いの工場に並んだ朝鮮人向けの社宅に入った。
 栗本鐵工所が疎開してくる前の年の昭和十八年、北朝鮮では激しい洪水に見舞われた。北朝鮮の気候は旱魃か大雨の被害か一年おきにくりかえす激しい気候だった。その洪水の時、普通江があふれて、どろどろの水が河をこえ京義本線の線路のところまでひろがり、砂金会社の普通江沿いの社宅は床上浸水になった。夜中、その社宅の子ども達が、晋司や和雄の背に負ぶわれて何家族も林家に避難してきて一夜を過ごしたことがあった。それを機にその社宅は使われていなかったが、栗本鐵工所がくることになって修理して再び使われるようになっていた。ただ職員の子弟は少なかった。戦争が激しくなっていたので家族を内地に置いてきた家庭も多かった。しかし、職工は家族ぐるみで順安に移ってきていた。
 三年生には転校生はいなかったが、全部で二十数名転校してきて学校はにぎやかになっていた。
 大阪からきたこどもたちはたくましかった。それまで順安日本人国民学校にはないタイプの子が多かった。学校には大阪弁が幅をきかせるようになった。
 順安では九州とか中国・四国とか西日本の出身者が多かった。しかし、言葉は標準語で話し合われた。家庭でも方言を使う家はいなかった。それだけに大阪弁は新鮮な響きを感じた。今までいた子ども達も大阪弁を真似て話すようになった。
 大阪から来る関釜連絡船の中で、救命具を体につけて何度も避難訓練があったと話をしていた。
 関釜連絡船は、崑崙丸(こんろん丸)がアメリカの潜水艦に沈没させられてから昼間に運行されるようになり駆逐艦が護衛についていたことも教えられた。大阪より朝鮮のほうが白いご飯が食べられることや「お父さんのお給料が倍以上になったんだ」と嬉しそうに話していた。
 「大阪から栗本鐵工所の子供たちがはいってきて国民学校の柄が悪くなった」などいう大人たちも多かった。しかし、私たちにとって別の世界からきたようなこの子達と遊ぶことは楽しかった。
 なかでも一年上の四年生の寺山美智雄君は、元気もよかったし悪いことも平気でした。下級生の人気のまとになった。寺山君は普通江の側の職工住宅から通ってきていた。大阪の友達のおかげでパッチン(メンコ)という遊びをおぼえた。それまでは全体として動きの少ない遊びが多かったが軍艦ごっこや鬼ごっこや缶けりなど放課後も遅くまで遊ぶことができた。「パーマネントに火がついてあっという間に焼けちゃった。パーマネントはやめましょう」などの歌も覚えた。
 たくさんの標語が繰り返されていた。「欲しがりません。勝つまでは」 「贅沢は敵だ」というのは戦争が始まってすぐだされた。戦争が末期になると「撃ちてし止まん」 (勝つまではたたかい続けよう)とか、「一億総突撃」など覚えきれないくらい標語が出た。そして、街角にも、標語が張り出されるようになった。女性の髪のパーマネントは贅沢の印だった。
 栗本鐵工所が順安に疎開になって、会社の人たちも私の家に遊びに来るようになった。栗本鐵工所の人たちは前から順安にいて在郷軍人会長でもあり有力者でもある林家に、当番でも決めたように交代でやってきた。そしてお酒を飲んでは帰っていった。「いや、お宅での酒が一番おいしい」などハナを喜ばせていた。栗本鐵工所の所長の花田さんは、陸軍中尉で中国戦線で負傷をした傷痍軍人だった。足を負傷したといってかなり足を引きずって歩いた。京都帝国大学を出ているそうだと父は、息子が京大に行っているせいもあって他の人とは違った親しみをみせてお客扱いをしていた。増山さんもよくやってきた。増山さんも中国戦線へ伍長で出征して実際に戦線で戦ってきた人だった。早速、在郷軍人会の会計をしているらしく帳簿を持って晋司に報告に来ていた。
 増山さんに「戦争の話をして」と頼んだ。増山さんの話は上手だったし、面白かった。家族みんなで聞いては楽しんでいた。増山さんは大阪弁で、いかに日本軍が強いかすごいかを繰り返しして聞かせた。「俺たちは和歌山の連隊だった。大阪の連隊は、また負けましたか。八連隊とってあんまり強くなかった」。私は日本軍にも強い軍隊と弱い軍隊があるんだなと興味をそそられた。増山さんは砲兵だった。「砲兵が敵に狙われて砲手がばったり倒れた。その時、小隊長はえらかったですな。普通は「おいどうしたか」とすぐ起こしに行くのに、小隊長は「砲手交代。打ち方つづけ」と号令をかけてそれから「おい。どうしたか」と抱きかかえたですな」。増山さんは、隊長の心得を説教したかったようだった。
 「戦死するとき天皇陛下万歳というの」。私は聞いた。「もちろん万歳するが」と口を閉じた。それから、「急に敵の弾が飛んできてばったりというときにはそうもいっておれない」。私はみんながみんな「天皇陛下万歳」といって死ぬわけでないようだとおもった。晋司も戦場の経験はあった。しかし、戦争の話をめったにしたことはなかった。増山さんは「ここだけの話だけど。」とよく言った。「いま、日本軍にはあっと驚くような秘密兵器があってそれが出動すると、アメリカなどいっぺんにふっとんでしまう。ただ、秘密兵器だから使うときには必ず勝たないといけないから簡単にはだせないんだ」。
 私は、ちょうど神風が吹いたようにいま、日本軍は勝つ準備をしているんだなと信じた。
 昭和二〇年の冬は寒い冬だった。和雄兄さんは寒暖計を見ては「今日も零下二十度をこえた」と大きなニュースのようにつたえた。朝鮮では雪はあまり降らなかった。しかし気温は零下十度や十五度にはなった。街中が凍りつき普通江にも厚い氷が張りその上でスケートやそり遊びが出来た。しかし、零下二十度を超えることは珍しかった。朝鮮の冬の気候は母が「三寒四温というがほんとうに言葉どおりよ」といっていた。三日寒い日がつづいて四日比較的暖かい日がつづく。それをくりかえしながら、寒さが厳しくなっていくことをさしていた。しかし、その冬は三寒四温ではなかった。寒い日が続いた。戦争中はいっさいの気象情報はなかったがその冬が異常な寒さであったことはわかった。便所の中が凍り付いてウンチがだんだん高く盛りあがって、その冬はとりわけ高くなり、雪隠のすぐ側まで届くこともあった。直径二〇センチにもなったわが家のりんごの木の半分ほどが立ち木のままつぎつぎに凍って割れていた。
 「今朝、順安駅で朝鮮人の物乞いが二人はど凍死したそうだ」。晋司はこともなげにいった。ハナは「まあ、可哀想に。今年は物乞いが多くて困っているのよ」とつづけた。京義国道沿いの林家には二、三日おきに物乞いがきた。物乞いたちは日本語はほとんどしやべれないので、ただパカチの鉢をだすか、頭を下げて物乞いをした。ハナは一銭か二銭を与えたり残りのご飯など差し出していた。寒さの厳しさと戦争での物不足が深刻になっていた。
 「今年はりんごは食べられないな。あまりよい年でないようだ」。父がそういったが冬の寒さだけでないたいへんな事態が進行していることを感じさせていた。
 フィリッピンで日本の敗色が濃くなり、サイパンから飛び立った米軍機がつぎつぎ日本本土に空襲をくりかえしていた。ハナが「アメリカはデマ・ビラを飛行機からまいているそうよ。『東京、大阪みな焼けた。花の京都と奈良はこの次だ』と書いてあるそうよ」と憤慨していた。ラジオでは「リスボンハツドゥメイ」という報道がさかんにされた。洋武は、このリスボン発同盟というのが嫌いだった。それは日本には不利な報道ばかりだったからだ。ヨーロッパ戦線ではドイツがどんどん押されて後退していることが伝えられていた。
 和雄は「ポルトガルは中立国でリスボンはその首都。同盟というのは新聞社がいっしよになった新聞社で外国のニュースを伝えてくるのだ」と説明した。
 神風特攻隊の話が新聞やラジオでもくり返し報道された。ほんとは「シンプウ特攻隊」と読むことになっていたが、みんなは「カミカゼ」とよんだ。最初の特攻隊の「敷島隊」の話はなんどもきかされた。「敷島の大和心を人間えば朝日に匂う山桜かな」という和歌から命名された敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊などがつぎつぎに飛び立って行った。そのうちに隊の名前も報道されなくなった。特攻隊で戦死した軍神は二階級特進するということもくりかえし強調された。時々、軍艦マーチがなって、特攻隊の戦果が報道された。神風特攻隊のことが繰り返されるたびに 「きっと日本には神風が吹いて、ミニッツやマッカサーなど吹き飛ばしてくれる」 という必勝の信念が子供心にも醸《かもし=注》し出された。校庭には少年飛行兵になるために人が中に入ってくるくるまわるサークルのような用具が持ちこまれ、五年生以上の男の子は体操の時間にはくるくるまわる練習をした。
 昭和二十年の三月、晋司は将校の服を着て軍帽をかぶりサーベルをつって京城まで出張した。
 父のいでたちは久しぶりに見るきりりとした軍服姿で頼もしかった。朝鮮のすべての在郷軍人会の会長会議が開かれた。晋司は三日ほど留守にしたが、帰宅してからも口数はすくなかった。和雄兄さんとちょうど春休みで寄宿舎から帰ってきていた典雄兄さんを相手に戦況がきびしいことを伝えていた。「今年中には本土決戦で戦争は終わるかも知れない。」 など少し声を落として話をしていた。
 四年生になって五月ドイツが敗北した。あれほど繰り返し宣伝していたヒットラーが自殺してドイツが無条件降伏をしたことをラジオが報じていた。この時には、軍艦マーチも海ゆかばも鳴らなかった。イタリアが負けた時 「裏切り者のイタリア人」 といっていたが、ドイツが負けても誰もそんなことは言わなかった。六月には沖縄で一般人も巻き込んだ戦いが繰り返されていた。小島校長先生は米軍と竹やりで戦っている沖縄の子供たちの話をしていた。
 ラジオでも、十五才の海軍少年兵が、船が敵に沈められ海に浮かびながら最後には「天皇陛下万歳」と勇ましく戦死した物語を流していた。
 「ぼくたちもあと五年たったら、お国のために天皇陛下万歳と叫んで戦死しましょうね」と末永先生は話した。ある日、順ちゃんは、学校からの帰り道で「武ちゃんは海兵をでて手柄をたてて名誉の戦死をするんだろう。そうしたら、海軍大将にはなれないのじゃないか」。このむづかしい質問に私は答えられなかった。いづれにせよ早く大人になり、大人になったら兵隊さんか特攻隊になり名誉の戦死をすることが子供達の夢であり目標だった。

注:つくり出す

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