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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・18 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・18 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/22 8:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 その日の昼 八月十五日と終戦前後・2

 ラジオは鈴木内閣は総辞職して、宮家出身の東久遷宮が総理大臣になったことを報じた。その夜、阿南陸軍大臣が 「天皇陛下に申し訳ない。一死を以って大罪を謝し奉る」 と割腹自害をしたニュースを伝えた。特攻隊の生みの親といわれた大西中将も自刃された。杉山元帥は夫婦で自害したことを伝えていた。新しいニュースがあるたびに我が家は陰鬱《いんうつ=注》なムードになった。
 「東条さんはいつ自害されるのでしょうね」。ハナはだれに言うとも独り言をいった。東条英機首相は大戦開始時の総理大臣だった。ハナはシンガポールが陥落した時にも、マニラが占領された時にも「東条さんがさぞ喜ばれているでしょうね」といって東条首相をたいへん尊敬していた。その東条さんはきっと自害されると思いこんでいたようだった。晋司は、その夜、ハナや家族の心配をよそに、激しく酒を飲んでいた。晋司の酒は激しく飲むとハナヘの暴力がつきまとった。
 しかし、その時は時々大きなため息をつきながらひたすら飲みつづけた。暴力はなかった。父晋司はそれから七五歳で死ぬまでアルコール依存から解放されることはなかった。
 次ぎの日も晴れていた。空に雲のない時、末永先生は「これが日本晴れというんですよ」と教えていたが、からりと乾いた朝鮮の空は文字通り日本晴れだった。
 洋武は家内の緊張感に耐えられなかったのだろう。じつとしていることのできない子でもあった。「今日は絶対に外に出てはいけません」というハナの禁足令にもかかわらず、午後、友達のところに出かけた。
 村田君の家に足を運んだ。村田君は洋武より一年上で寺山君達と同学年だった。そして栗本鐵工所の人たちが転校してきたあと、転校してきていた。お父さんは警察署長だった。面事務所と警察署が並んでいて、それぞれ官舎が裏にあった。その村田君の家はもう誰も居なかった。家中があわてて居なくなったように玄関の隣の部屋にあるオルガンもふたがあいたまま放置されていた。たんすも棚が空けたままなっていた。いつもいっしょに遊んでいた飼い犬の「雄太」がさびしそうにワンワンとほえていた。郵便局の配達をする朝鮮人の青年が「村田さんは昨夜トラックがきて荷物を運んでいったよ。戦争に負けたから先に逃げたんだよ」と少し朝鮮なまりで教えてくれた。私はよくいっしょに遊んだ「雄太」の鎖をはずしてやった。朝鮮人は犬を食べる習慣があった。雄太が食べられないように祈る思いだった。
 その警察署にはもう朝鮮人がいっぱいだった。そしてわが家にも出入りした青年たちが次々に警察に集まってきていた。留置場から釈放された人もいた。それを迎えにきた人もいたようだった。面事務所などともちがって警察署はごった返していた。
 「しかたないな」。洋武はその足で寺山君の家にむかった。寺山君の家は順安の街を横切って普通江沿いの栗本鐵工所の社宅にあった。昨日と違い街には人通りが多くなっていた。朝鮮語がいっもよりにぎやかだった。日本人の子が歩くとオマ二たちがふりかえる感じがした。寺山君の家は誰もいなかった。社宅の入り口の守衛の朝鮮人が「日本人はみんな会社に集まっている」といっていた。私は仕方なく普通江の側で一人で遊んだ。川の色はいつものようにどろどろした黄色だった。オマニ達がいつものように川岸で洗濯していた。川が黄色くても白い朝鮮服を砧でたたきながらなんども川の水にさらしていた。その側で子供たちが泳いでいた。私たちもそうだったが子供たちは泳ぐ時は、水泳パンツなどなくて素っ裸だった。寺山君の家の人は夕方まで帰ってこなかった。物足りない思いで洋武は家に帰った。
 洋武が家に帰ると門にハナが出ていた。そして洋武の姿をみるといきなり激しく殴りつけてた。「あれほど外にいってはいけないといったのに。いまね、朝鮮の人がきて日本人は外出してはいけないといってきたのよ。生命財産は保障できないといってきたのよ。お前は死にたいのか」。
 いつもはやさしいハナには有無を言わせない恐ろしさがあった。「生命財産」という言葉は洋武にとっても、多分ハナにとっても初めての言葉だった。しかしそれが何を意味するか国民学校四年生の洋武にもすぐわかった。
 ハナは、洋武がでたまま帰らないのを心配してずっーと門前で待っていた。そこへ朝鮮人の青年が「日本人の外出禁止」を伝えにきたという。
 由美がお使いから帰ってきた。「オマニたちが共同井戸の周りで蛍の光を歌っていたよ」とハナに報告した。「戦争が終わって、もうだれか転勤でもするのでしょうかね」。ハナはそうつぶやいた。
 一七日の夕方だった。何やら国道が騒がしかった。トラックに青年たちが鈴なりに乗って、日本軍の小銃をもち大きな声で二種類の歌を歌って通っていった。その一つは「蛍の光」の曲を朝鮮語で歌ったものだった。どうも転勤のための「蛍の光」ではなかった。はるかに行進曲風だった。節目に「マンセイ」 (万歳)ということだけわかった。
 わが家は順安の街の北はずれにあった。トラックはわが家を過ぎて砂金会社の広場で向きをかえて、また街の中に入っていった。わが家の前では青年たちがひときわ大きな声を張り上げていたようだった。それから数日間この騒ぎは毎日続いた。
 蛍の光の曲(スコットランド民謡)に合わせて歌う愛国歌は、朝鮮全土で歌われたらしい。朝鮮で終戦を迎えた日本人の多くの人が、この 「蛍の光」 のことを印象深くふれている。日支配下では歌うことが禁止されていた。
 日本語訳は次ぎのようなものだった。現在、韓国の国歌と曲は違うが内容はほぼ同じものだっ
た。
  東海の水 白頭の山/ かわき尽きるまで 神まもりたまいてわが国万歳/
  無窮花(むかんが) 三千里 華麗 江山/ 大韓人の大韓国へ とわに安かれ
  (最後の二行はリフレイン)
  (*歌の解説 「東海」 とは朝鮮の東の海、つまり日本流にいうと日本海。三千里とは朝鮮の里程で一里は日本の十里。朝鮮半島の南北の距離を示す。無窮花はむくげ。韓国の国の花。朝鮮では「錦繍江山三千里」といって美しい織物のような川と山をたたえる美称として三千里を使う。朝鮮の国の姿をこの詞はすべて表現しているように思える。)
 その一八日の夜遅くだった。国道の騒ぎが広がった。朝鮮人の行き来が激しくなるとハナが「火事らしい」といって門まで出た。東の方の順安神社のあたりにあかあかと炎が見えた。そして 「順安神社が焼き討ちされたと朝鮮人が言っているよ」 といって帰ってきた。晋司とハナもひどく憤慨していた。神社が焼かれるなど世も末だと感じた。しかし、どうにもならなかった。
 その翌々日だった。「兵隊さんがクラブに来ているので子供たちは集まるように」 という連絡を受けて栗本鐵工所のクラブに集まった。兵隊さんは二十名くらいいた。きちんと軍服を着て整列した兵隊さんばかり見てきたがこのときには違っていた。兵隊さんは年輩の人が多かった。小銃とか牛芳剣とかは一箇所にまとめられていた。そして夏のシャツをだらしなく着て、中には裸でパンツ一枚の人もいた。兵隊さんは碁とか将棋をしていた。寺山君や順ちゃんもいたがあつまった十名ほどの子供たちも、すぐけんかになってわあわあ騒いでしまっていた。クラブは柔道と剣道ができるほどの広さがあったが、そこを運動場のように駆け回って遊んだだけで帰ってきた。
 この兵隊さんは四日ほど順安に駐留していていなくなった。
 ずっと後になって、当時の朝鮮の混乱の反映だったことを知った。八月一六日、朝鮮総督府の容認のもとに呂運亭(植民地当時の独立運動家) を中心に京城(ソウル) に建国準備会ができて早速ラジオをとおして朝鮮語で演説をした。独立のために準備をしよう。政治犯は解放された。住民の安全のために建国準備会は責任を持つ、という演説だった。私が警察署でみた留置所の解放と保安隊のひとが「日本人の夜間外出禁止令」を伝えにきたのは、建国準備会の方向での動きだった。ところがこうした建国準備会の動きは総督府によってすぐ取り消されて、もう一度日本軍が治安と保安に取り組むことになった。全朝鮮の各地に軍隊の小部隊が派遣された。しかし、北朝鮮ではソ連軍の進駐がはやく、その軍隊もそれぞれ原隊に復帰させられた。順安に派遣された二十名ほどの兵隊さんたちもこの総督府の指令に基づいていたのだろう。
 平壌一中の寄宿舎にいっていた典雄兄さんが平壌から歩いて帰ってきたのは二十日を過ぎていた。もう汽車の切符がとれなかった。典雄兄さんは、平壌一中にはいって寄宿舎生活で栄養失調になり一年休学をしていたから中学五年生の最上級生だった。

注:うっとおしい

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