戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・16 (林ひろたけ)
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汝臣民くさかろう・2
また、先生から怒られるのかなと思いながら学校に行った翌日、思わないことがおこった。校長先生に召集礼状がきて出征《注4》する事になっていた。朝礼の時「おめでとうございます。校長先生にも晴れて召集礼状がきました」 と末永先生が紹介した。
「私も出征しお国を守るためにお役に立つことになりました」と校長先生は挨拶した。事態はすっかり変わって、結局この間題はうやむやになってしまった。
先生は弱弱しい奥さんとまだ学校に上がっていない小さな二人の子どもがいた。その家族を置いて出征していった。もう小島先生は四〇才をこえていたし、中村先生みたいに健康そうではなかった。晋司のところに挨拶に来て 「私のようなものに軍隊が勤まるでしょうか」 と不安そうに聞いていた。
小島校長先生が招集されたが、あとの校長先生はこなかった。校長先生の家族はそのまま官舎にいた。末永先生は一年生から六年生まで一人で受け持つことになった。また、そのころから日本人墓地近くの山にいって松の根を掘りにいく勤労奉仕《注1》が増えていた。松の根から松根油をとり飛行機の燃料にするのだということで毎日のように松の根を掘りに行くことになった。
学校はまともに授業は行われず、子供たちは勝手に遊んだりふざけていたりした。椙山君や新井君も四年生になると、時々朝鮮語を学校でも使うようになった。先生は 「朝鮮語を使うことはいけません」 と厳しかった。しかし、子供たちはお互いにとがめるようなことはしなかった。寺山君などは朝鮮語を面白がって 「これは朝鮮語でなんというのか」 など聞いたりした。オモ二(母) とかアポジ (父) とか簡単な単語を聞いては面白がっていた。また、二人ともあいかわらず成績はよかったが、前のような模範生でなくなって、順ちゃんや洋武といたずらをして遊ぶことが多くなった。私たちも漢字の試験は二人に勝てなかったが、算数は私たちの方が成績がよかった。「君達は二年生のとき、一年がかりで九九を覚えたんだものね」 といいながら末永先生はそれだけは安心したらしかった。
順ちゃんのところの恵子さんは平壌高女に進学して寄宿舎にいき、由美姉さんも美代子姉さんも六年生になっていた。その年の六年生は二人だけだった。
順安の日本人社会の親達は尋常小学校卒業の農民が多かったが、子供たちには高学歴志向だった。日本人の子弟は国民学校をでるとほとんどが、男は平壌一中か平壌師範に進み、女も平壌高女にすすむのが常識だった。わが家の両親をふくめて 「私達は学歴がなかったので苦労したが、教育だけはつけさせてやりたい。そうでなければ朝鮮にきたかいがない」など話していた。
平壌第一中学校は、特別なエリートの朝鮮人をのぞいて日本人の子弟が中心の中学校だった。
平壌二中(平壌高等普通学校。昭和十五年まではそう呼ばれたが「内鮮一体」の方針で第二中学校と改名された)は朝鮮人だけの中学校だった。そして、平壌師範と商業学校と工業学校は、朝鮮人も日本人もいっしょの学校だった。日本人にとってそれらの学校は難しい学校ではなかったが、朝鮮人にとっては難関の学校だった。順安の日本人の子ども達のほとんどがさらに専門学校や高等学校にすすんだ。当時、全国的には専門学校以上に進むことができた子供たちは同世代の三%だったという時代に、順安にいる日本人達の進学熱はかなり高いものだった。陸軍士官学校や海軍兵学校とともに、京城帝国大学とか関東州にある旅順工業大学とか満州国新京にある建国大学とかの上級学校に進み、そうした大学があこがれの学校だった。ちょうど内地に居る兄俊雄が松本高等学校から京都帝国大学の電気工学科に進んだので父も母もたいへん自慢だった。順安の日本人社会の子弟には粟野さんの次男は、熊本の第五高等学校にすすんだり、羽野さんのお兄さんも京城師範に進んだ。
そのころ、中学校も女学校も学科の入学試験はなくなっていた。そして、通信簿と教練とか鉄棒とかの体力検査だけが入学試験だった。由美姉さんや美代子姉さんも入学試験が控えていたが、末永先生は二人の鉄棒の練習を見たり体操をなおしたりして来年の受験に備えていた。そうした受験準備だけは先生も一生懸命にとりくんだけど他の子供達は放置されていた。
朝鮮では空襲はほとんどなかったが、それでもアメリカの爆撃機B二九が空高く飛行雲を長々引いて飛んでいった。ただ、沖縄で玉砕が伝えられた六月になるとグラマン機が飛んできて京義本線を走っていた客車列車を機銃掃射《注2》で襲い、かなりの被害がでたなど噂がひろがった。和雄兄さんが「アメリカの航空母艦が黄海までのさばっている」など解説した。
七月になってまもなく、兄和雄にも海軍から海兵団《注3》に召集状がきて、朝鮮半島の南端にある海軍基地、鎮海に出征《注4》することになった。
「おめでとうございます」といわれると晋司は「和雄は結核でお国の役にはたたないと思っていたが、やっとお国の役に立って名誉なことだ」と言っていた。
ハナは出征する和雄に「お国にささげた体だから病気だけは気をつけて、敵をやっつけてね。いってきますなどいわずにみんなにも 『行きます』 というのよ」 など話していた。
そのころ 「出征する時は二度と帰ってくることを考えるな。行って来ますなどいってはならない。行きます。というのが出征兵士の挨拶だ」 といわれていた。
「本土決戦だからどこにいても同じことだけど卑怯なことだけはだめよ」。ハナはあくまで軍国の母だった。
戦争が始まった時のように家中で 「天皇陛下万歳。大日本帝国の勝利万歳。和雄の出征万歳」を晋司の音頭で叫んだ。戦争がはじまったころは、出征兵士を送り出す時は、順安の日本人がみんな駅に集まって送り出すなど盛大な見送りをしていた。しかし、和雄が出征するころには見送りもできるだけ密かにするようになっていた。敵に知られないようということだった。だから由美と洋武が学校にいっていた間に、和雄は、両親だけの見送りで出征していった。洋武は 「やっとわが家にも出征兵士が生まれた」 と誇らしい気分で和雄を見送った。晋司は、その夜独り言のように 「ひ弱な小島先生や病気の和雄を連れて行くようだと日本もそうとうにたいへんだな」 と酒をのみながらつぶやいた。
七月になっても夏休みはなかった。ただ、学校の授業は一時間だけであとは運動場の隅を掘り起こして畠にしてかぼちゃやサツマイモなどが植えられた。四年生以上の子供たちは野菜作りにせいを出すか、松根油 (しょうこん油) のための松の根ほりにいかされた。
戦争の雰囲気はだんだん厳しくなって、ラジオは軍艦マーチはほとんどきかれずに「海ゆかば」が多くなっていた。「海ゆかば」は玉砕《注5》したニュースのとき鳴らされた。
戦争が始まって定期市は禁止されて閉鎖になっていた。それでも順安の日本人社会では食料事情はそんなに悪いわけでなかった。大阪からきた子供たちも家族も「ここでは白いご飯がたべられる」 と満足していた。
八月になった。六日に広島に特殊爆弾が落ちて大きな被害があったと報じられた。兄たちが居なかったのでそれがどんな意味を持つかはわからなかったが「原子爆弾」だということも伝えられ始めていた。洋武も四年生になって、新聞もほとんど読むことが出きるようになり恐ろしい父に聞くことはなかった。
九日になるとラジオがソ連が宣戦布告《注6》をして満州に攻め込んできたと報じ始めていた。同時に、朝鮮の成鏡北道のソ連との国境線でもソ連軍が攻めてきて、海からも攻撃が始まったことが報じられた。朝鮮の北東地方の日本人には避難命令が出されて南の方に避難が開始されていた。ソ連との国境の警備隊が玉砕したことも伝えられた。朝鮮に居る日本人にとって「同じ朝鮮で戦争が始まった」ことに深刻な心配があった。ハナは「戦争がここまできたらどうしよう」と心配した。
「ソ連との国境の成鏡北道の日本人たちは避難を始めたようだ。一億総玉砕で沖縄のように国民総がかりでたたかう以外ない」と晋司は言っていた。私も「いよいよ総突撃。少国民として闘わないと行けない」 と覚悟を決めたようにつぶやいていた。
九日の夜、長崎にも原子爆弾がおとされて大きな被害がでたとラジオが伝えていた。十日の朝、菊村さんの小母さんがわが家にやってきた。晋司が軍服を着て出かける時だった。「ご主人の具合はどう」 と父はきいたが 「ええ」 というだけだった。
「林さん、長崎に特殊爆弾が落ちたそうだけどなにか詳しいことを知ってますか」。小母さんはその方が気がかりのようだった。「長崎の母が心配で」 と小母さんは言葉少なだった。「広島に落ちたのと同じ奴らしいが、多分みんな疎開しているから大丈夫ですよ。それに白い服を着ていれば大丈夫というじやありませんか」。晋司の説明に納得しない顔で帰っていった。
十一日は土曜日だった。朝、学校に出たとき末永先生が子供たちを一つの教室に集めた。
「今日から学校はお休みです。満州にソ連が攻めてきたので満州からたくさんの人が避難してきます。机の中に自分のものを置かないように全部家に持って帰ってください」。とてもきつい感じで、なにかたいへんなことが起こったように感じた。すぐその後、今度は先生でなく、戦闘帽に国民服を着た見知らぬ小父さん達が数人きて 「早くかえれ」 といいながら机やいすをどんどん片付けてしまった。
職員室も教室もそれに雨天体操場も机や椅子がきれいに片付けられて小父さん達は出ていった。校長先生の官舎には、もう避難してくる最初の家族が入り出していた。
この日が順安日本人国民学校の閉校の日になった。しかし、私たちはその日が学校の最後だとは誰も気づかなかった。
ソ連が満州や朝鮮の北東部につぎつぎに入ってくる様子は、ラジオや新聞で伝えられ、とくに朝鮮北東部のソ連と満州の国境の「勇基」とか「羅清」とかの都市での激戦が伝えら、日本軍の劣勢がラジオでもわかった。そこにいる日本人達が避難をはじめていることも報じられた。いよいよ一億総決戦という感じが日々高まっていた。
注1:勤労をもって奉仕活動を行なう事 勤労奉仕活動のことでほぼ無償を前提に活動する国家事業への協力
注2:航空機から機銃で地上物を射撃する
注3:海軍の初年兵を訓練する施設
注4:軍隊に加わって戦地に行くこと
注5:玉が美しく砕けるように 名誉や忠義を重んじて潔く死ぬ
注6:紛争当事国に戦意がある事を公式に宣言表明する
また、先生から怒られるのかなと思いながら学校に行った翌日、思わないことがおこった。校長先生に召集礼状がきて出征《注4》する事になっていた。朝礼の時「おめでとうございます。校長先生にも晴れて召集礼状がきました」 と末永先生が紹介した。
「私も出征しお国を守るためにお役に立つことになりました」と校長先生は挨拶した。事態はすっかり変わって、結局この間題はうやむやになってしまった。
先生は弱弱しい奥さんとまだ学校に上がっていない小さな二人の子どもがいた。その家族を置いて出征していった。もう小島先生は四〇才をこえていたし、中村先生みたいに健康そうではなかった。晋司のところに挨拶に来て 「私のようなものに軍隊が勤まるでしょうか」 と不安そうに聞いていた。
小島校長先生が招集されたが、あとの校長先生はこなかった。校長先生の家族はそのまま官舎にいた。末永先生は一年生から六年生まで一人で受け持つことになった。また、そのころから日本人墓地近くの山にいって松の根を掘りにいく勤労奉仕《注1》が増えていた。松の根から松根油をとり飛行機の燃料にするのだということで毎日のように松の根を掘りに行くことになった。
学校はまともに授業は行われず、子供たちは勝手に遊んだりふざけていたりした。椙山君や新井君も四年生になると、時々朝鮮語を学校でも使うようになった。先生は 「朝鮮語を使うことはいけません」 と厳しかった。しかし、子供たちはお互いにとがめるようなことはしなかった。寺山君などは朝鮮語を面白がって 「これは朝鮮語でなんというのか」 など聞いたりした。オモ二(母) とかアポジ (父) とか簡単な単語を聞いては面白がっていた。また、二人ともあいかわらず成績はよかったが、前のような模範生でなくなって、順ちゃんや洋武といたずらをして遊ぶことが多くなった。私たちも漢字の試験は二人に勝てなかったが、算数は私たちの方が成績がよかった。「君達は二年生のとき、一年がかりで九九を覚えたんだものね」 といいながら末永先生はそれだけは安心したらしかった。
順ちゃんのところの恵子さんは平壌高女に進学して寄宿舎にいき、由美姉さんも美代子姉さんも六年生になっていた。その年の六年生は二人だけだった。
順安の日本人社会の親達は尋常小学校卒業の農民が多かったが、子供たちには高学歴志向だった。日本人の子弟は国民学校をでるとほとんどが、男は平壌一中か平壌師範に進み、女も平壌高女にすすむのが常識だった。わが家の両親をふくめて 「私達は学歴がなかったので苦労したが、教育だけはつけさせてやりたい。そうでなければ朝鮮にきたかいがない」など話していた。
平壌第一中学校は、特別なエリートの朝鮮人をのぞいて日本人の子弟が中心の中学校だった。
平壌二中(平壌高等普通学校。昭和十五年まではそう呼ばれたが「内鮮一体」の方針で第二中学校と改名された)は朝鮮人だけの中学校だった。そして、平壌師範と商業学校と工業学校は、朝鮮人も日本人もいっしょの学校だった。日本人にとってそれらの学校は難しい学校ではなかったが、朝鮮人にとっては難関の学校だった。順安の日本人の子ども達のほとんどがさらに専門学校や高等学校にすすんだ。当時、全国的には専門学校以上に進むことができた子供たちは同世代の三%だったという時代に、順安にいる日本人達の進学熱はかなり高いものだった。陸軍士官学校や海軍兵学校とともに、京城帝国大学とか関東州にある旅順工業大学とか満州国新京にある建国大学とかの上級学校に進み、そうした大学があこがれの学校だった。ちょうど内地に居る兄俊雄が松本高等学校から京都帝国大学の電気工学科に進んだので父も母もたいへん自慢だった。順安の日本人社会の子弟には粟野さんの次男は、熊本の第五高等学校にすすんだり、羽野さんのお兄さんも京城師範に進んだ。
そのころ、中学校も女学校も学科の入学試験はなくなっていた。そして、通信簿と教練とか鉄棒とかの体力検査だけが入学試験だった。由美姉さんや美代子姉さんも入学試験が控えていたが、末永先生は二人の鉄棒の練習を見たり体操をなおしたりして来年の受験に備えていた。そうした受験準備だけは先生も一生懸命にとりくんだけど他の子供達は放置されていた。
朝鮮では空襲はほとんどなかったが、それでもアメリカの爆撃機B二九が空高く飛行雲を長々引いて飛んでいった。ただ、沖縄で玉砕が伝えられた六月になるとグラマン機が飛んできて京義本線を走っていた客車列車を機銃掃射《注2》で襲い、かなりの被害がでたなど噂がひろがった。和雄兄さんが「アメリカの航空母艦が黄海までのさばっている」など解説した。
七月になってまもなく、兄和雄にも海軍から海兵団《注3》に召集状がきて、朝鮮半島の南端にある海軍基地、鎮海に出征《注4》することになった。
「おめでとうございます」といわれると晋司は「和雄は結核でお国の役にはたたないと思っていたが、やっとお国の役に立って名誉なことだ」と言っていた。
ハナは出征する和雄に「お国にささげた体だから病気だけは気をつけて、敵をやっつけてね。いってきますなどいわずにみんなにも 『行きます』 というのよ」 など話していた。
そのころ 「出征する時は二度と帰ってくることを考えるな。行って来ますなどいってはならない。行きます。というのが出征兵士の挨拶だ」 といわれていた。
「本土決戦だからどこにいても同じことだけど卑怯なことだけはだめよ」。ハナはあくまで軍国の母だった。
戦争が始まった時のように家中で 「天皇陛下万歳。大日本帝国の勝利万歳。和雄の出征万歳」を晋司の音頭で叫んだ。戦争がはじまったころは、出征兵士を送り出す時は、順安の日本人がみんな駅に集まって送り出すなど盛大な見送りをしていた。しかし、和雄が出征するころには見送りもできるだけ密かにするようになっていた。敵に知られないようということだった。だから由美と洋武が学校にいっていた間に、和雄は、両親だけの見送りで出征していった。洋武は 「やっとわが家にも出征兵士が生まれた」 と誇らしい気分で和雄を見送った。晋司は、その夜独り言のように 「ひ弱な小島先生や病気の和雄を連れて行くようだと日本もそうとうにたいへんだな」 と酒をのみながらつぶやいた。
七月になっても夏休みはなかった。ただ、学校の授業は一時間だけであとは運動場の隅を掘り起こして畠にしてかぼちゃやサツマイモなどが植えられた。四年生以上の子供たちは野菜作りにせいを出すか、松根油 (しょうこん油) のための松の根ほりにいかされた。
戦争の雰囲気はだんだん厳しくなって、ラジオは軍艦マーチはほとんどきかれずに「海ゆかば」が多くなっていた。「海ゆかば」は玉砕《注5》したニュースのとき鳴らされた。
戦争が始まって定期市は禁止されて閉鎖になっていた。それでも順安の日本人社会では食料事情はそんなに悪いわけでなかった。大阪からきた子供たちも家族も「ここでは白いご飯がたべられる」 と満足していた。
八月になった。六日に広島に特殊爆弾が落ちて大きな被害があったと報じられた。兄たちが居なかったのでそれがどんな意味を持つかはわからなかったが「原子爆弾」だということも伝えられ始めていた。洋武も四年生になって、新聞もほとんど読むことが出きるようになり恐ろしい父に聞くことはなかった。
九日になるとラジオがソ連が宣戦布告《注6》をして満州に攻め込んできたと報じ始めていた。同時に、朝鮮の成鏡北道のソ連との国境線でもソ連軍が攻めてきて、海からも攻撃が始まったことが報じられた。朝鮮の北東地方の日本人には避難命令が出されて南の方に避難が開始されていた。ソ連との国境の警備隊が玉砕したことも伝えられた。朝鮮に居る日本人にとって「同じ朝鮮で戦争が始まった」ことに深刻な心配があった。ハナは「戦争がここまできたらどうしよう」と心配した。
「ソ連との国境の成鏡北道の日本人たちは避難を始めたようだ。一億総玉砕で沖縄のように国民総がかりでたたかう以外ない」と晋司は言っていた。私も「いよいよ総突撃。少国民として闘わないと行けない」 と覚悟を決めたようにつぶやいていた。
九日の夜、長崎にも原子爆弾がおとされて大きな被害がでたとラジオが伝えていた。十日の朝、菊村さんの小母さんがわが家にやってきた。晋司が軍服を着て出かける時だった。「ご主人の具合はどう」 と父はきいたが 「ええ」 というだけだった。
「林さん、長崎に特殊爆弾が落ちたそうだけどなにか詳しいことを知ってますか」。小母さんはその方が気がかりのようだった。「長崎の母が心配で」 と小母さんは言葉少なだった。「広島に落ちたのと同じ奴らしいが、多分みんな疎開しているから大丈夫ですよ。それに白い服を着ていれば大丈夫というじやありませんか」。晋司の説明に納得しない顔で帰っていった。
十一日は土曜日だった。朝、学校に出たとき末永先生が子供たちを一つの教室に集めた。
「今日から学校はお休みです。満州にソ連が攻めてきたので満州からたくさんの人が避難してきます。机の中に自分のものを置かないように全部家に持って帰ってください」。とてもきつい感じで、なにかたいへんなことが起こったように感じた。すぐその後、今度は先生でなく、戦闘帽に国民服を着た見知らぬ小父さん達が数人きて 「早くかえれ」 といいながら机やいすをどんどん片付けてしまった。
職員室も教室もそれに雨天体操場も机や椅子がきれいに片付けられて小父さん達は出ていった。校長先生の官舎には、もう避難してくる最初の家族が入り出していた。
この日が順安日本人国民学校の閉校の日になった。しかし、私たちはその日が学校の最後だとは誰も気づかなかった。
ソ連が満州や朝鮮の北東部につぎつぎに入ってくる様子は、ラジオや新聞で伝えられ、とくに朝鮮北東部のソ連と満州の国境の「勇基」とか「羅清」とかの都市での激戦が伝えら、日本軍の劣勢がラジオでもわかった。そこにいる日本人達が避難をはじめていることも報じられた。いよいよ一億総決戦という感じが日々高まっていた。
注1:勤労をもって奉仕活動を行なう事 勤労奉仕活動のことでほぼ無償を前提に活動する国家事業への協力
注2:航空機から機銃で地上物を射撃する
注3:海軍の初年兵を訓練する施設
注4:軍隊に加わって戦地に行くこと
注5:玉が美しく砕けるように 名誉や忠義を重んじて潔く死ぬ
注6:紛争当事国に戦意がある事を公式に宣言表明する