戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・37 (林ひろたけ)
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北斗七星を頼りに
少し眠ったかと思うとハナが洋武と由美の間に割り込んで横になった。みんな空を見上げた。
ハナは二人を揺さぶり起こして怒るように話した。
「いいね。あの北斗七星の先に北極星があるのわかるでしょう。昔の人はあの星を目印にして旅をしたのよ。昼は太陽をみて南に、夜もあの星を背中に南に行くのよ。迷子になっても南に南に行けば内地に戻れるのよ。開城のことはケサン。京城はソウル。釜山はプサンよ。朝鮮人にきいてでも、なんとしても、南にむかって歩くのよ。今日見たとおり道標はないのよ。お前たちは星と太陽を便りに歩くのよ。どんなことがあっても生きて内地に帰るのよ」。
ハナの言いかたはきつかった。ハナはこの子達が迷子になっても一人でも生き延びて帰れと諭していたのだった。洋武にはそこまで理解が行き届かなかったが、由美姉さんは「怖いわ。私は迷子にならないから連れていってね」といいながら泣いていた。
翌朝も早く起こされた。夜露がベットリと体についていた。前日の疲れが体中に残っていたがそれでもみんな励まし合うように朝ご飯の準備をはじめた。
三日目の午後、初めて車が通れるような広い道を歩いた。その日も暑い日だった。誰もがもうおしゃべりはしないで黙々と歩いていた。突然、前の方から「ソ連兵だ。逃げろ。側の高梁畑に逃げろ」という声がきこえてきた。集団はいっせいにチリチリ、バラバラに散った。幸い高梁畑が両側にひろがっていた。悲鳴も上げられなかった。道から高梁畑はすこし低くなっていた。みんながサット道から飛び降りたが、光夫ちゃんはおびえた顔をしながら飛び降りることができなかった。順ちゃんが手を出しても光夫ちゃんには届かなかった。誰かが「早くしろ。見つかってしまうぞ」とどなった。焦るとかえって飛びおれなくなっていた。泣き声になっていた。「泣いちゃだめだ」大人の人が光夫ちゃんを引き吊りおろして口をふさいだ。順ちゃんが光夫ちゃんを引き取って高梁畑に逃げ込んだ。
高梁はトウモロコシのように背の高い作物だった。だから畑で人が隠れるだけの高さはあった。しかし、百名を越す集団が隠れたからと言って相手側が知らないはずはなかった。それでも、みんな必死で顔を伏せたり声を押し殺してじっとしていた。やがて鉄かぶとをかぶったソ連兵十数人の一隊が、あのマンドリン型の自動小銃を腰だめにもって行進してきた。戦争そのもの怖さだった。かくれんぼの時とはまったくちがった緊張が体中を覆っていった。彼らはそのまま通りすぎていった。
「もういいらしい」という声がした時、洋武の前にかぼちゃが一つ転がっているのに気がついた。
そう大きくはなかったが、それでも食べるとおいしそうだった。それをルックにしまいこんだ。
みんなが道路に出て、点呼がおこなわれた。みんなは恐ろしさのあまりがたがたと震えていた。
畑の泥が体中について、そうでなくとも汚れていた服装がいっそう汚くなっていた。子どもが一人行方不明になっていた。またそれをさがしに時間がかかった。行進が始まったのは二時間近くたっていた。
両側に薮がつづく細い道を長く歩いていくといきなり大きな河に出た。その河の水は普通江のようにごってはおらず青々としてゆっくりと流れていた。順ちゃんも私も「大同江だ」と叫んだ。平壌にいったとき大同江をみたことがあった。川の色が青々としているだけで私たちは大同江とわかった。しかし、見える限り橋はなかった。向こう岸がかすんで見えるほど幅の広い大河だった。集団はだらだらと水の流れのほうにすすんだ。
「このまま下流に行くと平壌に出てしまうよ。ソ連兵につかまるよ」誰かがつぶやいていた。
「大同江のすべての橋にはソ連兵や保安隊が警戒していて、日本人の通過を止めている」。と伝えられていた。日本人の逃避行は、橋のないところを選んで渡し場から船で大同江を渡ることになっていた。
午後の日が過ぎていった。その時、渡し場が見つかった。河の岸にあまり大きくない川舟が二隻並んでおいてあった。朝鮮語のできる人がこの船で向こう岸にわたるように交渉することになった。交渉はなかなか成立しないで、大人たちが集まっては話し合いを繰り返していた。船を出すために法外なお金を請求されているらしいことがわかった。集団にはお金がなかった。それでもこの渡し場を渡らないかぎり三八度線にはいけなかった。
結局、まだお金のある個人からお金を借りてみんなで借用書を書いた。わが家も借用書を書いた。朝鮮人の交渉と日本人の話し合いで時間はどんどん経っていった。それでも夕方になって船は出ることになった。船は決して大きくはなかった。集団が二つに分かれても船にあふれるようになった。船に乗った時、みんなはほっとした感じがあった。大同江の川幅は船に乗るとさらに広く見えた。なかなか岸にはつかなかった。人が乗り過ぎていたので予定よりずっと流されて下流に着くことになった。着いたところはほとんど薮の中だったが岸をあがったところで野宿になった。
洋武は夕食前にかぼちゃをそっとハナにみせた。母は黙って受け取るとそれを夕食のおかずにくわえた。洋武は逃避行のさい野荒しをしたのはその時だけだった。しかし、林家はそのかぼちゃがその夜の飢えをしのいだ。
四日目になった。子供にはどこをどう歩いているのかわからなかったが、道はいつも狭いあぜ道みたいな道をせいぜい二列になって、太陽の照りつける中ぞろぞろと歩いた。ときどき子供を叱る親たちの声と泣き出す子供の声がきこえるだけで、話し声もあまりたてないで歩きつづけた。
私は順ちゃんといっしょだったが、歩くのに精一杯であまり話をすることもできなかった。順ちゃんは光夫君の世話を姉弟で交代でみながらお母さんを助けながら歩いていた。
夕方になって保安隊につかまった。保安隊長は日本人の集団から米を取り上げようとしていた。その周辺には水田は見当たらなかった。「米をだしなさい。米を出せばとおしてあげる」とその保安隊長は片言の日本語ではなした。逃避行で出会った保安隊の隊長は総じて日本語が上手だった。しかし、この保安隊長はほとんど日本語ができなかった。ここの土地は米が獲れない貧しい山間の村だった。そこで日本人の逃避行をする集団から米を取り上げようというのがねらいだった。二週間の逃避行に備えて多くの家庭で米を用意していた。各家庭一握りづつ出し合って二升ほどの米が保安隊長にわたされた。保安隊長は、にこにこ顔で数人の保安隊員は歓声を上げて立ち去った。