戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・31 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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- 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・57 (林ひろたけ) (編集者, 2008/9/4 7:59)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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満州からお兄ちゃんが一人で逃げてきた・1
その頃、子ども達は退屈だった。お腹がすいてもすることはなかった。「寒いよ。お腹がへった。なにか食べたい」。というのが子ども達から悲鳴だった。それでも外で遊ぶ以外なかった。いつのまにか、男の子たちは、クラブの子ども達と社宅に収容されている子供たちとがわかれて戦争ごっこを繰り返していた。戦争ごっこから本気の喧嘩が始まっていた。あまり理由もないのにいきなり殴り合いになったりした。クラブの子ども達は五年生の寺山君が大将だった。洋武と順ちゃんが副大将格だった。クラブと社宅の間にすこし広場があった。そこがクラブの子ども対社宅の子どもたちの決戦の場所だった。毎日、毎日そこで棒切れを持って「わーっつ」と叫んでは子供同士の本気のちゃんばらがおこなわれた。アカシヤの棒は格好の刀になった。子ども達のいらだちは激しかったのか、怪我をする子も続出して体じゅうおできだらけになった。
こうした事態を心配した大人達は喧嘩を止めるように子ども達の大将を呼んで厳しく注意をした。そのなかで国民学校の再開もうわさされた。しかし、噂はあったが再開は出来なかった。大人たちは自分達の一家をたべさせる心配をするのが精一杯だった。
喧嘩はなくなったが、子ども達は結局は放置されていた。子ども達は、今度、あちこち大人を捕まえてはお話をせがんで歩いた。栗本鐵工所の所長さんの花田さんは、みんなが使役に出ているときも使役を免除されて家にいた。一つの住宅に三家族も四家族も積めこまれて(詰めこまれて)いるときも六畳の間に一人で机に向かっていた。傷痍軍人のせいか、それともお年のせいかも知れなかったが、花村さんが栗本鐵工所で一番えらい人でそうしていたらしかった。不公平な感じもした。でも私たちがいくと「それでは武田信玄と上杉謙信の話をしてあげよう」といって、「川中島の決戦」の話をした。そして上杉謙信が武田信玄に塩を送った話などして、さらに 「ベンセイシュクシュク」という詩吟も教えてくれた。「武田信玄の死んだ話しを聞いたとき、上杉謙信はばたりと箸を落として惜しい人が死んだといって嘆いたそうです」 と話しを結んだ。
砂金会社の営業所長さんで日本人会の会長さんでもある大村さんは体が大きくて柔道の選手だった。大村さんは使役にもどんどん出ていた。しかし、日本人会長だった大村さんは比較的他の人より家にいることが多かった。大村さんの家族は奥さんと子供が二人だった。上のお姉さんの恵美子ちゃんは私たちより二つ下の二年生だった。その一つ下の男の子は学齢がきていたが「ワァーワァー」言うだけの知恵遅れの障害児だった。敦志君で「あっちゃん」と呼んでいた。大村さんは厨司王(厨子王)と安寿姫の話をしてくれた。そして私たちに「君たちしっかりしているね。あっちゃんとも遊んでね」とつけくわえた。二人のお話は不思議なくらいいつまでも覚えていた。
しかし、一番面白かったのは兄の和雄だった。和雄は専門学校入学資格検定試験の勉強をして修身と国語と漢文と歴史の資格を取っていた。あとは数学系の科目が残っているだけだった。和雄は何でも暗記をしていた。教科書もない何もない収容所生活のなかで、暗記していることは強みだった。
椙山君と新井君が暗記して見せた一二四代の天皇の名前もそのときなって兄におしえてもらい覚えた。教育勅語はもちろん天皇陛下が十二月八日にだされた開戦の詔勅も暗記していた。平家物語も「祇園精舎の鐘の声」などと延々と諳んじてみせた。
和雄は地理も教えた。砂の上に日本地図を書いて、「山があっても山梨県。鉄砲かついで鳥取県。すべってころんで大分県」。長崎県はなんというの「馬のしょんべん長崎県」「わー馬のしょんべんてあー」「馬のしょんべんは長いんだぞ」など子供たちは喜んだ。こうして九州から北海道まで県名を覚えた。河村さんの姉さんはこうした子供達の集まりに興味を示していた。お姉さんはものしづかな人だった。そして、和雄が子供らにいろいろ教えている間、側で黙っていっよに聞いていた。遠慮しがちに和雄の間違いなど直していた。和雄も「そうだったけ」などいいながら、それに従った。
その頃、子ども達は退屈だった。お腹がすいてもすることはなかった。「寒いよ。お腹がへった。なにか食べたい」。というのが子ども達から悲鳴だった。それでも外で遊ぶ以外なかった。いつのまにか、男の子たちは、クラブの子ども達と社宅に収容されている子供たちとがわかれて戦争ごっこを繰り返していた。戦争ごっこから本気の喧嘩が始まっていた。あまり理由もないのにいきなり殴り合いになったりした。クラブの子ども達は五年生の寺山君が大将だった。洋武と順ちゃんが副大将格だった。クラブと社宅の間にすこし広場があった。そこがクラブの子ども対社宅の子どもたちの決戦の場所だった。毎日、毎日そこで棒切れを持って「わーっつ」と叫んでは子供同士の本気のちゃんばらがおこなわれた。アカシヤの棒は格好の刀になった。子ども達のいらだちは激しかったのか、怪我をする子も続出して体じゅうおできだらけになった。
こうした事態を心配した大人達は喧嘩を止めるように子ども達の大将を呼んで厳しく注意をした。そのなかで国民学校の再開もうわさされた。しかし、噂はあったが再開は出来なかった。大人たちは自分達の一家をたべさせる心配をするのが精一杯だった。
喧嘩はなくなったが、子ども達は結局は放置されていた。子ども達は、今度、あちこち大人を捕まえてはお話をせがんで歩いた。栗本鐵工所の所長さんの花田さんは、みんなが使役に出ているときも使役を免除されて家にいた。一つの住宅に三家族も四家族も積めこまれて(詰めこまれて)いるときも六畳の間に一人で机に向かっていた。傷痍軍人のせいか、それともお年のせいかも知れなかったが、花村さんが栗本鐵工所で一番えらい人でそうしていたらしかった。不公平な感じもした。でも私たちがいくと「それでは武田信玄と上杉謙信の話をしてあげよう」といって、「川中島の決戦」の話をした。そして上杉謙信が武田信玄に塩を送った話などして、さらに 「ベンセイシュクシュク」という詩吟も教えてくれた。「武田信玄の死んだ話しを聞いたとき、上杉謙信はばたりと箸を落として惜しい人が死んだといって嘆いたそうです」 と話しを結んだ。
砂金会社の営業所長さんで日本人会の会長さんでもある大村さんは体が大きくて柔道の選手だった。大村さんは使役にもどんどん出ていた。しかし、日本人会長だった大村さんは比較的他の人より家にいることが多かった。大村さんの家族は奥さんと子供が二人だった。上のお姉さんの恵美子ちゃんは私たちより二つ下の二年生だった。その一つ下の男の子は学齢がきていたが「ワァーワァー」言うだけの知恵遅れの障害児だった。敦志君で「あっちゃん」と呼んでいた。大村さんは厨司王(厨子王)と安寿姫の話をしてくれた。そして私たちに「君たちしっかりしているね。あっちゃんとも遊んでね」とつけくわえた。二人のお話は不思議なくらいいつまでも覚えていた。
しかし、一番面白かったのは兄の和雄だった。和雄は専門学校入学資格検定試験の勉強をして修身と国語と漢文と歴史の資格を取っていた。あとは数学系の科目が残っているだけだった。和雄は何でも暗記をしていた。教科書もない何もない収容所生活のなかで、暗記していることは強みだった。
椙山君と新井君が暗記して見せた一二四代の天皇の名前もそのときなって兄におしえてもらい覚えた。教育勅語はもちろん天皇陛下が十二月八日にだされた開戦の詔勅も暗記していた。平家物語も「祇園精舎の鐘の声」などと延々と諳んじてみせた。
和雄は地理も教えた。砂の上に日本地図を書いて、「山があっても山梨県。鉄砲かついで鳥取県。すべってころんで大分県」。長崎県はなんというの「馬のしょんべん長崎県」「わー馬のしょんべんてあー」「馬のしょんべんは長いんだぞ」など子供たちは喜んだ。こうして九州から北海道まで県名を覚えた。河村さんの姉さんはこうした子供達の集まりに興味を示していた。お姉さんはものしづかな人だった。そして、和雄が子供らにいろいろ教えている間、側で黙っていっよに聞いていた。遠慮しがちに和雄の間違いなど直していた。和雄も「そうだったけ」などいいながら、それに従った。