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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・13 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・13 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/17 7:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「皇国を喰らう」

 戦争が激しくなっていよいよ本土決戦だなどいう声が繰り返され始めていた。
 ある夕食の時、由美が「お母さん、踏み絵ってな一に」と聞いた。
 「踏み絵って、さあ。徳川幕府の頃、キリシタンご禁制で、キリシタンを改宗させるために、お上がキリストの像をふませて改宗を迫ったことじゃないかしら。キリシタンはキリストの像をふむのをやらなかったり、ためらったりするでしょう。そこでキリシタンかどうか判断したのよ。」
 由美は納得しない顔で「そうじやないのよ。恵子ちゃんがいっていたが、最近順安でヨボたちを集めてキリストの像をふませたのよ」
 「ヨボなどいってはいけません。半島人といいなさい。朝鮮人たちはヨボといわれるのいやがるのよ。まあ、まあそんなこと知らなかった。お父さんほんと。徳川時代の話かと思った」。
 晋司は正面から答えなかった。「この間、村田君がいっていたが順安は神社参拝の成績が悪い。何とかならないかといっていたね。順安は耶蘇教の影響が強くて参拝の成績がよくないらしい」。父は相変わらず晩酌をやりながらいった。村田君とは順安の警察署長だった。「まあそれで」ハナは納得したようだった。わが家の毎月八日の神社参拝は父をのぞいて、順安神社参拝を続けていた。ただ、いつの間にか、朝鮮人の一隊が「武運長久」とか「撃ちてし止まん」とか幟りをたて神社参拝にくるようになった。たいていの場合、日本人婦人会が参拝する時間にはもう帰り始めていたが、人数は数百人と婦人会とは比較にならないほど大勢だった。そして、戦争が激しくなるといっそうその参加者は増えていた。和雄は参拝には普通参加しなかった。そして 「朝鮮人たちは参拝すれば配給物資が多くなるのでああして参拝しているので、本当に神社をあがめているわけでないんだよ」など解説していた。そのたびに由美は「兄さん。ずるい。自分で参拝しないので人の悪口をいう」と反発していた。実際の朝鮮人の参拝者はだんだん熱気がこもっているように子どもの目にも映るようになっていた。
 ハナは、内地に帰えることをあきらめてから時々晋司に抵抗するようになっていた。
 「私ね。そんなことしてほんとうにお国のために役に立つのかしら。と思うのよ。この間も共同井戸の前の家の夫(フ)さんのお父さんがきていっていたが、あそこの息子さんが神社の前でおシッコしたからといって警察でものすごく殴られたというのよ。あの子少し知恵遅れでしょう。それに朝鮮人が手鼻をかんだり立ち小便するのは当たり前のことでしょう」。夫さんの息子さんとは近所の林家の小作人の朝鮮人家庭のお兄ちゃんだった。息子さんの本当の名前はしらなかった。私より五つほど年上だが、学校にはいかなかった。そしてわが家の杏やらスモモを取りにくる常連のひとりだった。
 「朝鮮人はあれ皇国を喰らうっていうだって。」ハナの言葉にも晋司は答えなかった。
 戦争になって配給が主力になると順安の定期市は廃止されていた。オマニたちが山のように野菜を積んで売り出す光景もなくなっていた。配給が順安でも行われ始めていた。しかし、わが家は物不足はいなめなかったが、それでも深刻な物不足ではなかった。林家ではりんご園の空き地にチョットした野菜を栽培していた。それでも野菜の調達のためにハナは、洋武を連れて時々「支那人(中国人)の農場」に出かけた。その農場は順安駅のすぐ北側の平地にあって、順安駅が丸ごと見えた。一町歩ほどの土地が野菜の種類によってきちんと整地され草一本生えていなかった。畑の中に小さな家があってそこに中国人の夫婦が住んでいた。私たちが訪ねるときはいつも夫婦で畑にでていた。家のそばには柵のない井戸があってその井戸から水をくんでは天秤で運んでは畑に水をまいていた。日本人の主婦たちは「支那人の農場」といって清潔感にあふれる農場を利用していた。
 その中国人夫婦はハナには特に親しみを見せていた。万宝山事件のとき朝鮮人の群衆におそわれて家に火がつけられ燃えてしまっていた。その上、夫婦とも激しく朝鮮人たちから殴られた。
 警察の紹介もあって四~五日わが家が匿ったことがあった。朝鮮人がいきり立っているので、比較的大きな家の日本人家庭の林家が紹介されたのだった。ハナが訪ねていくと土間に片膝をついてあいさつをした。夫婦は、特におじさんは、ほとんどものをいわなかった。「かわいそうに。あのとき少しここがおかしくなったらしい」とハナは頭を指していった。「でもお金の計算はまちがわないのよ」 といって笑った。
 万宝山事件とは、洋武の生まれる前、満州事変が始まる以前の昭和五年(一九三一年)満州で起きた事件だった。新京(現長春市)の郊外で朝鮮人移民の開拓農民と中国人が水路をめぐつて激しく対立し暴力事件になっていた。それを朝鮮の新聞や報道機関は、中国人の横暴と激しく非難して反中国を扇動した。朝鮮各地にあった中国人街では、朝鮮人の中国人襲撃が行われ最初警察もとりしまらず、そのため全朝鮮で百名をこえる死者が出た。とくに平壌では激しかった。順安でもこの「支那人の農場」が朝鮮人の襲撃の対象だった。林家は満州から移住して日がたっていなかったし、日本人の家庭ということもあって、この中国人一家を匿まったのだった。順安にはこの中国人のほか数名の中国人がいた。それに白系ロシア人(ロシヤ革命から逃げてきたロシヤ人) の家庭も数軒あった。
 定期市がなくなってからは、ハナはよく訪ねるようになったし、洋武もしばしばお使いに行かされていた。物不足が顕著になりだしてもこの農場では、林家に売り惜しみすることはなかった。晋司は支那人(中国人)の農場にハナが出入りすることをあまり喜ばなかった。「あれは支那のスパイではないかと心配している。順安駅のすぐ側で鉄道の動きをスパイしているらしい」とどこからかの情報を伝えていた。
 九月にはイタリヤが連合軍に降伏したことが伝えられた。朝礼の時、小島校長先生は「イタリヤは日本やドイツなどとの約束を破って降伏してしまった。約束破りは一番よくないことだ。日本とドイツは鬼畜米英に勝つまでたたかいはやめられない」と講話を繰り返した。子ども達は約束を守らないと 「イタリヤみたいだ」というようになった。

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