戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・40 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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ぼく、このままでは死んでしまうよ。
栗里をでてしばらくたったところだった。トラックが止められた。保安隊の臨検だった。「みんな見せろ」。保安隊は子供のルックの中までさらっていた。そして金目の物を遠慮なく取り上げていた。ときどき女の人の悲鳴があがった。「それは形見です」とか「命に代えてください」など声が広がった。そのたびに保安隊は威嚇の空砲を撃った。何度も威嚇射撃で脅かされたのでその頃には、子供の私たちでも空砲と実弾との区別を音だけで聞き分けることができた。
晋司のルックが開かれた。ルックは川を渡った時にぬれたあと少し変形していた。保安隊はそれを見逃さなかった。ルックの底がナイフで切られるとそこから厚手の紙の束が出てきた。紙の束が濡れて膨れてしまっていた。数人の保安隊たちが顔を寄せて紙の束を見ていた。朝鮮語で話した後、「なにか。これは土地の権利書じゃないか。帝国主義者は、お前たちは土地まで日本に待ちかえるのか」。
土地の権利書が十数町歩もあることがわかると若い保安隊員たちはいっそう激昂した。銃架で晋司は激しくなぐられた。晋司は道路の上に靴をはいたまま正座で座らせられていた。隊員達が交代で殴りつけていたが、晋司は殴られるままにたえていた。洋武は砂利道路にエビのように転がり土に頭をつけて晋司の側に横たわっていた。やがて、その権利書に火がつけられた。保安隊員は朝鮮語でなにかわめきながら権利書を焼いて歓声をあげた。その時、私は初めて父の涙を見た。
父晋司は、大正元年長野県松本連隊に徴兵になり、そのまま満州で兵隊暮らしをした。南満州鉄道の守備を任務とする公主嶺独立守備隊の一員として、第一次世界大戦とシベリヤ出兵を経験した。優秀な兵士として兵隊として軍曹にさらに再応召で少尉にもなっていた。軍隊を除隊するとその退職金で朝鮮に土地を求め、植民地地主となった。大日本帝国のアジアへの侵略を、その末端の先兵として生涯を過ごしてきた。
「俺は裸一貫でここまできた」。しばしば酒を飲みながら子ども達に自慢して見せた。その生涯の最後の証拠が、土地の権利書であったに違いなかった。晋司は、生涯をかけて作り上げてきた財産が一瞬のうちに消えていった感じがしたのだろう。それまでの晋司は帝国陸軍少尉であり、涙を見せることはなかった。また、洋武が泣いた時にも涙を見せるとかえって激しく殴られた。その晋司が涙を流していた。
私は熱に苦しめられていた。道端に転がるように横になって、晋司が殴られ涙を出すのを、見てはいけないものを見ている思いで、じつと見ていた。
トラックから降ろされ略奪をうけた順安の集団は、時間が長引く原因を作った林家を非難の目で見ていた。苛立ちとざわめきがあった。
二時間はたっぶりとられてトラックが出発することになった。トラックに担ぎ上げられたとき、トラックの上で郵便局長だった小父さんが「お前の親父が悪いんだ」といきなり洋武を激しく殴った。なぜなぐられたのかはじめはわからなかった。殴られた痛みはなかった。そんなことよりもマラリヤ熱とたたかわなければならなかった。
トラックは一時間ほど走っていたが、洋武にとって熱の出る時間と重なっていた。
「どうせ載せるのだったらもっと南まで連れて行けばよいのに」という不満を残してトラックは私たちを降ろして立ち去っていった。
トラックを降りて、その日も一人で熱に耐えなければならなかった。ハナは晋司の背中から激しく洋武を叱りつけ、晋司は杖で前よりもいっそう激しく殴りつけていた。「もう死んだほうがいい」私は道端にころがったままそう思った。体も動かなかった。由美姉さんと順ちゃんが覗きこんできた。「武ちゃん元気だそう。もうすぐそこで休みになるんだ」。その一声でまたたちあがって走った。その日の熱が下がり始めていた。
次ぎの日も歩きつづけなければならなかった。体力がなくなって、あまり集団の前に走って進むことは出来なかった。次第に集団から遅れることが多くなった。そのたびに父晋司に杖で激しく殴られ、ハナから激しく叱られた。わが家の誰もが人の顔をみれば「キニーネはありませんか」とたづねていた。
市辺里という少し大きな部落が近づいてきたとき、「市辺里にはソ連兵がうろうろいるから避けるように」という連絡があった。そして私たちより先に行っている満州組が道に迷っていていっのまにかいっしょになっていた。満州組には辻村先生もいた。晋司もハナも洋武のマラリヤを訴えて「キニーネを探して欲しい」と頼んでいた。
マラリヤの熱は四日目を迎えていた。私は明日も熱がでることに恐怖心がはしっていた。その時、末永先生と一緒になった。マラリヤで苦しんでいることは集団のなかで知られていたのだろう。先生は立ったまま私の頭を抱いてくれた。
「たいへんのようね、でも辛抱するのよ。がまんしてもう三日ほどで三十八度線・開城だからね」。
当時「がんばって」という言葉はあまりなかったように思う。その代わり「辛抱して」とか「耐えて」とか「忍んでね」とか言う言葉が多かった。それはあの天皇の「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え」という終戦の詔勅の影響ではなかっただろうか。私はその暖かな手に思わず「先生!キニーネという薬何とかならないの。もうぼく死んじゃうよ」と必死の思いで訴えた。わが家には相次ぐ略奪でもうお金はなかった。キニーネを買うお金もなかったし、キニーネそのものが手に入る当てもなかった。
末永先生はしばらく洋武の頭を抱いたままじっと考えていた。「なんとかしてみましょうね」と辻村先生に相談した。そして、辻村先生と末永先生は二人連れだって市辺里の街にはいっていった。とある医院を探しだし、末永先生がお金を出してキニーネを手に入れてくれた。「市辺里の町にはソ連兵が多いので町にはでかけるな」そんな指示がある中での決死のキニーネの購入だった。
その夜の泊まりは市辺里をはづれた河原だった。河原ゴミがいっぱい捨ててありほこりっぼい一角だった。しかし、病人と子どもたちはコンクリートの橋の下で早めに休むことができた。洋武がぐつすり眠り込んでいたときハナが起こしに来た。「キニーネよ。末永先生と辻村先生が見っけてくれたのよ。きっと効くはずと辻村先生がいっていたのよ」。そういいながらハナはろうそくの火がゆれるなか、一粒のキニーネになんどもお辞儀をしながら水とともに洋武に渡してくれた。
次ぎの日にマラリヤ熱は出なかった。洋武はその一粒のキニーネで熱がおさまった。私は死ないですんだ。命は助かった。洋武にとってのこの命の恩人の二人は、日本に帰ってから結婚したことをハナから聞かされた。その時、洋武は三〇才をこえていた。