戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・56 (林ひろたけ)
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一家離散へ・2
晋司は、上京したあと親類の経営しているさつま芋から焼酎をつくるアルコール工場の工場長になっていた。しかし、アルコール好きの晋司にはこの仕事は向かなかった。半年もしないうちに、製品を飲んでしまうという理由で首になってしまっていた。その後、川崎市などでさまざまな仕事についたが、六〇歳を前にした晋司には、結局土方や日雇いの仕事しかなく、とても田舎に仕送りするような余裕はなかった。京大の電気工学科を卒業した俊雄は、東京の電気会社に就職していた。俊雄が就職して少しは楽になったかと思ったが給料は一人食べるのが精一杯だった。
ハナは、由美と洋武の三人の暮らしをささえるために下駄の行商をはじめた。小諸市にある問屋から下駄と鼻緒を仕入れ、背負い篭にいれて村の一軒一軒を訪ねて下駄を売り歩いた。下駄は当時の農村の必需品だった。下駄の台はしっかりしていても鼻緒のきれた下駄がどこの家にもあった。母は新しい鼻緒を買ってもらい、泥だらけの下駄に鼻緒をつけた。
ハナは不思議な明治の女性だった。学歴は高等小学校を出ただけだった。朝鮮にいるときも日本に戻ってきても、本など読む姿を、子供には見せたことはなかった。しかし、朝鮮からの逃避行のさなか「奥の細道」を暗唱して見せた。洋武が中学に進み、一次方程式の応用問題をⅩとかYとかいいながら解いているとき、そばからのぞきこんで「あら、そんなの鶴亀計算だったら簡単よ」といって正解をだしていた。ハナは、故事やらことわざにもくわしかった。下駄の行商は泥だらけの下駄に鼻緒をつけてささやかな利益を上げていた。泥だらけの下駄を投げ出され屈辱的な言葉も投げつけられながら、たいした利益のでない商売を続けた。ハナは、しばしば行商からかえってくると、その日にあった屈辱をしばらくじっと耐えているようだった。「韓信の股くぐり」(大望のある者は目前の屈辱に平気で耐えるものだ)の故事を漢文で引用しながら子どもらに話した。また「落ちぶれて袖に涙の かかるとき 人の心の 奥ぞ知らるる」という太平記にある短歌をよく口にした。朝鮮での豊かな生活と貧乏のどん底の生活の落差のなかで人生の悲哀を味わっていた。そして「戦争がなければね」と愚痴のようにつぶやいた。ハナは五〇歳を過ぎていた。
わずかのもうけではあったが、それでも三人の生計費と姉弟の学費を賄えるものになっていた。そのわずかの代金も貧しい農村ではたえず貸付けになっていた。由美と洋武は、その集金の手伝いをさせられた。夜遅くたずねても、思うようにお金は手にはいらなかった。母はそんなとき「いい。商売は最後の五歩(五%のこと)が儲けになるのよ。あなたがお金をあつめてこなければ商売をどんなにしても儲けにならないし、学校にもお金は持っていけないし、わが家は飢えて死ぬ以外ないのよ」とお金を集めてこない洋武を叱責した。年末には、他の家が除夜の鐘を家族で聞いているときも由美も洋武も下駄の鼻緒の集金に歩いた。
けっして豊かでない山あいの農村でも、わが家の引揚者としての貧しさは極端だった。
私たちの住んでいた小屋は十畳ぐらいの板張の一部屋で囲炉裏が真中にあるだけだった。家族は囲炉裏のまわりに折り重なるようにして寝た。食事も台はなくそのまま床上に茶碗をおいて食べることにしていた。勉強机もリンゴ箱だった。
屋根は板で葺いてあったから、乾燥が続いた後には板が反っていて、夕立が降ると必ず家中に雨漏りがした。雨漏りをを受け止めるたらいやどんぶりも不足した。「お母さん、お金がたまったらまず洗面器をたくさん買おうね」という冗談が冗談でないような深刻な貧乏だった。服は引揚者のために配給になる古着を着ていた。
ハナは戦後になっても天皇崇拝は変わらなかった。新聞で地方巡業にでかける天皇陛下の写真を見て 「なんともいたわしい」 などつぶやいた。そのハナは、「天皇陛下のいわれるとおにやって、貧乏になったのだから堂々としようね」 というのが口癖になった。しかし、子どもの洋武には 「天皇のおかげで貧乏になった」 と聞こえるようになっていた。東条英機もおかしいが天皇陛下はどうされるのだろう。それが洋武の政治への関心でもあった。
東条英機が東京裁判の結果、絞首刑になったときハナは涙を流した。「どうせアメリカに殺されるんだったら、杉山元帥のように自害されればよかったのに。生きて虜囚の恥辱を受けたのは東条さん自身だったのよ」。ハナにとって 「東条さん」 はなにか戦争をいっしょに戦った戦友のような響きを持っていた。
ハナは下駄の行商のほか、伯父がわけてくれた二反ほどの山畑を山研して食糧を確保することにした。由美も洋武も時間があれば農作業の手伝いをさせられていただけでなく、伯父の家の農作業の手伝いもさせられていた。伯父の家は小地主だった。戦後の農地改革のなかで水田のほとんどが農地解放になり、わずかに家の前にある三反ほどの水田が残されただけだった。従来農作業を手伝っていた小作人もいなくなっていた。私たちはその不足を子どもながら支えなければならなかった。
私たち姉弟は、小学校、中学校では修学旅行はもちろん、金のかかる遠足でも参加することはできなかった。小学校六年生になったとき、修学旅行があった。信州の山間地では、長野市の善光寺と新潟県の直江津にいって海を見ることが主な行き先だった。洋武は初めから旅行に行くことはあきらめていた。「僕は四十二日間も、海の上で過ごしたから海を見に行くことはない」 と強がりをいっていたが、旅行が迫りガリ版での案内書が生徒の間に配られはじめるとさすが落ち着かなくなっていた。明日が旅行の出発日という日の朝、先生から 「役場が修学旅行に行けない子に特別にお金を出してくれるそうだ。遠慮しなくてもよいからお母さんに聞いて旅行に行かせてもらいなさい」 といわれた。洋武は息を切らして三キロの山道を家までハナの返事を聞きに帰った。しばらく考えていたハナは、「私たちはお国のお役に立つと思って満州や朝鮮まで苦労しに行った。ここで扶助など受けては先祖様にすまないことだ」 といって役場からの修学旅行の援助を断った。学校への帰り道は下りだったが、重い足取りだった。
修学旅行も終わったころ、学校の成績はぐんぐん上がってきた。そのとき今まで自他共に一番と思いこんでいた同級生がくやしがって、「おまえなんか一年上に行けばいいんだ」 と激しくなじられた。「なに!天皇陛下のパンチみせてやろうか」。洋武はその同級生に向かっていきなり殴りつけた。パンチは彼の顔面にあたりひっくり返った。なぜ天皇陛下が出てきたのか洋武自身にもわからなかった。しかし、その一発でみんなは陰口もいわなくなった。