戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・38 (林ひろたけ)
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居住地: メロウ倶楽部
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雨宿り
その夜も川原に寝ることになった。木の古い橋があって子どもやお年よりはその下で夜露を防いで寝ることになった。ぐつすり寝ていた時、集団が急にざわついていた。朝は空け始めていたが、雨が振り出していた。「ここでは水が増えてきたらどうにもならない。すぐ出発だ」。朝飯も取らずに行動は開始されたが雨は激しくなるばかりだった。
「雨が一番困る」大人たちは嘆いていた。雨は豪雨になってきた。気温が急に下がり寒さも激しくなりあちこちで悲鳴が上がった。
小さな部落があった。そこに数軒の比較的大きな農家が続いていた。瓦屋根が反っている朝鮮家屋で明かにヤンバンの家で、母屋と牛小屋がある農家に雨宿りをしようとした。その時、先頭の人が歓声をあげた。前に出発した満州組があちこちの家の軒先や牛小屋で休んでいた。そこに私たちの班もいれてもらうことになった。満州組のなかにすこしづつあけてもらい雨宿りになった。洋武と順ちゃん一家が入った牛小屋にはすでに河村さんのお母さんと姉妹がいた。簡単な挨拶のあとそのまま私たちはぬれたまま休んだ。「体をふけ。藁でもよいから体をしっかりふけ。」晋司はみんなに号令をかけていた。女の人も半ば裸になって手じかにある藁で体を拭いた。手ぬぐいもリックもなにもかもピッショ濡れていた。牛はいなかったが、数日前まで牛がいた感じのする小屋だった。牛の汚物のにおいが強くした。蚊がブーンととび、蝿が壁にべっとりするほどっいていた。しかし、それでも雨に濡れないだけでもよかった。もう昼近くなっていた。その日は朝からなんにも食べていなかった。お腹がすいても、昼飯にはならなかった。
順ちゃんのおばさんが、洋武と由美姉さんに炒り豆を十粒ほど渡してくれた。「しつかりかむのよ。百回ぐらいかむのよ」。順ちゃんと数えながらかみつづけたが、その途中にねむりはじめた。逃避行のなかで他の家族と食糧の交換はまったくなかった。それはそれぞれの家庭が飢えをしのぐので精一杯だったからだった。順ちゃんのおばさんが、わずか十粒ほどの炒り豆だったけど私たち姉弟に与えたことは菊村家にとってもたいへんなことだった。落ち着くとともに大人もこどもも死んだように寝始めていた。夕方になってはじめて親たちがそれぞれ食事を用意してくれた。母屋は大きな家だった。瓦屋根で順安の新井君の家よりさらに大きかった。そのヤンバンの朝鮮人たちは、時ならぬ避難民にとまどいながらも日本人のこの集団を可能の限り暖かく接していた。娘さんが日本語が上手で日本人と少しも変わらず一家で親切にしてもらった。台所の土間も貸してくれた。それぞれの人が夕食を作った。そして各人のいろいろな頼みごとにも応じていた。
夕方になってやっと粟かゆを食べることができたが、雨に濡れて体が冷えていたので生きかえったおもいがした。
雨は翌日も続いた。一日目は眠りつづけた私たちも二日目の午後になると少し余裕が出てきた。だれとなく雑談が始まった。こんなときに必ず話題になるのが、食べ物の話だった。平壌の三越百貨店の一階にあった「もなか」はおいしかった。という人がいた。私も順ちゃんももなかという菓子を知らなかった。満州組の誰かが新京の百貨店のお菓子のおいしさを自慢していた。
河村さんのお姉さんが「まるで奥の細道のようね。ほら、『のみ虱馬のしとする枕元』 っていう句があるね」。誰に言うともなく話し始めた。和雄は、こことばかり 「月日は百代の過客にして」と奥の細道の最初を暗誦しはじめた。これにはハナもいっしよに暗誦をはじめた。「子供のころ覚えたことは忘れないね」とつぶやいた。「おばさんもよく覚えているのね」みんなが感心していた。
「奥の細道ってな一に」「芭蕉という人の旅日記のこと。昔、芭蕉という俳句を作る人が俳句を作りながら旅をしたときの日記なのよ。昔はね、みんな旅は歩いたの。私たちみたいに」とハナは説明した。
それからも、河村さんと和雄は競争するように俳句を次々に出し合った。「一ツ家に遊女も寝たり萩と月」と和雄が言った時、ハナは「和雄やめなさい」といってぴしゃりと和雄をたたいた。
順ちゃんが「遊女ってな一に」と聞いたが大人たちは黙って誰も答えなかった。ただ、その場の雰囲気が少しまずいものになっていた。ハナが和雄を注意したことがかえってその場の雰囲気を壊してしまったようだった。
順ちゃんは「ぼくたちも内地に帰ったら奥の細道読もうね」と洋武にあいづちを求めてきた。
雨はなかなかやまなかった。その牛小屋に二晩泊まることになった。
父晋司はこのヤンバンの家で藁をもらってわらじを作り出していた。逃避行の中で食事の次にみんなが困ったのは靴がいたんでしまうことだった。終戦後一年以上立っていた。この間ほとんどの家では新しい靴を買うことが出来なかった。子供たちは兄や姉達のお古をはいたが、長男長女は一年の間に足が大きくなっていたし代わりの靴は手に入らなかった。
順安を出発する時から靴の心配は深刻だったが、すでに靴がなかったり裸足になって歩く人も出ていた。晋司は農家出身だったのでぞうりやわらじを作るのは上手だった。
そこのヤンバンの家で藁を提供してくれたが、時間のある限りは晋司はぞうりとわらじを作った。そしてわが家の分をとってそれ以外を靴のなくなっている子供たちに提供した。
次の朝、九月四日になっていた。やっと、雨もやんで出発することになった。北朝鮮から引揚げてきた難民達の記録にはこの三日にわたって続いた雨の中、三十八度線を越え、多くの犠牲者が出たことが書き残されている。南へ南へ、歩いて逃げ出した日本人達にとってうらみの雨だった。私たちはともかく牛小屋でこの雨を避けられただけでも幸運だった。
河村さんたちや満州組が先に出かけていった。大人たちの準備が遅れている時、順ちゃんが「武ちゃん。紙ができているよ」と声をかけてきた。
牛小屋の続きの細長い倉庫の部屋に、日本語の上手な娘さんが年輩の男の人と並んで仕事をしていた。白いにごった液が張ってある大きな水槽の中に障子の枠のようなものをいれて、ゆすると薄い白いものが広がっていた。それをていねいに側の板の上にのせていた。ハナもやってきた。
「よく見ておきなさい。日本の障子紙もこうして作るのよ。内地の田舎でも紙をこうしてすくのよ。朝鮮で見るのははじめてね」。私たちに話し掛けた。若いおねいさんは上手な日本語で「君たちどこからきたの。そう順安。これからも三八度線まで、まだまだ歩かないと行けないね」などと言った。「うちは平壌の女学校をでたんだよ。だから順安の友達がいたんだ。朝鮮の人だけど」。
私たちは「美代子姉さんも平壌高女だよ。末永先生も平壌高女だよ」といってすっかり親しくなった気分になった。
「君たち知っている。紙もね。瀬戸物もね。昔、みんな朝鮮人が日本人に海を渡って教えたんだよ」
「だって朝鮮人は瀬戸物でなくてサバリ(真鍮のお鉢)で食べているのじゃない」。洋武はその家でも真鍮のサバリで食べているのを覗き見していたのでそういった。「でもね、黒い水瓶だってあるでしょう」。朝鮮のおねさんが笑って言い返した。「日本人はいままでみんな日本のほうが優れているって言っていたが、朝鮮人も昔はみんな日本人に教えたのよ。日本の歴史は二千六百年でしょう。 朝鮮の歴史は五千年もあるのよ。日本人がまだ紙など知らない頃、朝鮮ではもう国ができていたのよ。朝鮮では今年は檀紀四二七九年なのよ」。そのお姉さんは朝鮮人が日本人にいろいろ物を教えたことを繰り返しながら、仕事を続けていた。朝鮮の歴史が五千年もあることは知らなかった。日本の歴史は、昭和十五年皇紀二千六百年祭を迎えたとき、「キゲンは二千六百年」という歌がつくられ、その後も学校ではその歌を教えられ歌っていた。「こんなに長い歴史をもつ国だから、神国だから日本は負けることはない」と教えられていた。朝鮮が日本より長い歴史を持っていることや、瀬戸物まで朝鮮の人に作り方を教えてもらったということは初めて聞くことだった。
順ちゃんは「へえ知らなかったな。そんなに長い歴史があるのにどうして朝鮮は日本に併合したのかな。」とつぶやくように問い掛けてきた。お姉さんはすかさずに「日本が朝鮮に攻めてきたのよ。日本が戦争に負けたので今度朝鮮は独立するの」。独立するという言い方に力が入っていた。「朝鮮は四等国。日本は一等国」戦争中は何度も日本人社会では語られてきた。しかし、戦争が終わると今度は「朝鮮が一等国になった」というようになった。その朝鮮人のお姉さんは朝鮮が独立しようとしていることを誇りにしていた。私たちが収容所で一年を過ごす間に、朝鮮の人たちは民族の歴史と誇りを語り合っていたのだ。この姉さんも控えめだが、昔日本人にものを教えたのは朝鮮人だと私たちに強調していたのだ。お姉さんは話しながらも手を休めず、紙すきは絶え間なく続けられていた。その手さばきを見ながら、そのときいやな感じはしなかった。そのお姉さんが親切に私たちの面倒を見てくれたこともあった。同時になにかほんとうのことをいっているんだなという思いもあった。