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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・55 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・55 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/9/2 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 一家離散へ・1

 林家は年があけてもなかなか落ちついた生活には戻れなかった。由美も洋武もよく病気をした。
 理由のわからない高熱が二日ぐらいつづいた。ハナの激しい腹痛の発作は、春日村に帰ってきても続き、そのたびに洋武はお医者さんを三キロの道を呼びにいかされた。ハナは胆石と胃痙攣が持病のようになっていた。そのためお医者にはいつも支払いがたまっていて、とても子どもの医療費まで余裕はなかった。由美や洋武の病気は医者にかかることはほとんどなかった。国民健康保険はまだなかった。とくに洋武は奇妙な病気になっていた。痛みが胸やお腹や背中など体中はいまわるような病気だった。瞬間的に痛みに襲われることもあったが、数日苦しまなければならないときもあった。地元の人の話で落葉松(からまつ) のヤ二がよいということだった。ヤ二をとってきてあたためてやわらかくなったヤ二を新聞紙にのばし体中にはって痛みにたえていた。落葉松はちょうど二キロほどはなれた長者ケ原の落葉松林が、開拓でつぎつぎに切り倒されてその株にいっぱいヤ二がでていた。それをたんねんにあつめては体に張りつけていた。病気はかなり執拗だった。五年生と六年生になってもつづいた。年間で三〇日から四〇日も休む病弱な子供になっていた。ハナは「由美も洋武もあんな苦労を丸一年過ごしたから、体中おかしくなってしまったのね」と嘆いた。
 洋武はよく寝小便をした。ソ連兵からおそわれ川に逃げ込んだり、高いところから飛び降りたりする夢をみたが、きまってそのたびに寝小便をしていた。ハナは寝小便をしても叱ることはなかった。「洋武は朝鮮ではこんなことはなかったのに。すっかり体質がかわってしまったのだろうか」 といいながら布団をほしていた。
 引揚者になった晋司は、親戚から激しい非難が繰り返された。それは朝鮮で成功していたというのに何の財産も郷里に残さなかったという点だった。晋司はもともと長野に帰るつもりはなく朝鮮に骨を埋めるつもりだった。敗戦後も朝鮮にとどまることを考えていたほどだった。それだけに外地に出かけた成功者達がやるように、山(山林)も田畑も長野県には残していなかった。
 伯父はそのことを愚痴のように繰り返したし、他の親類達は戦前の成功を羨望を持って見ていた人ほど激しく非難した。ハナは「私たちは天皇陛下が、骨を埋めるつもりでやれとおっしったのでその通りにしただけなのに」と憤慨した。同時に、「一度内地に帰って来ておけば親戚の人たちの様子も分かったのに。兵隊さんにはそんな考えはなかったのだから」と晋司への皮肉混じりに憤懣をぶちまけた。
 朝鮮での唯一の財産は朝鮮でかけていた生命保険金が満期になって戻ってきたことだった。インフレが激しくなっていたが八千円の保険金は大きなお金だった。引き揚げ途中に大同江の渡し船にのったり、トラックに乗ったりしたときの借金をそれぞれの人たちに送金をしていた。「昔なら八千円といえば一財産だったのに。今では一ケ月の生活費ね。戦争はいやね」。インフレの激しさをハナは嘆いた。晋司の軍人恩給も停止になり恩給も当てにはできなかった。晋司の軍人恩給は、新兵以来満州や外地で軍人生活を送ったので、軍歴一五年にもかかわらず、二〇数年にも換算されて、終戦後にも 「どんなに貧乏になっても軍人恩給だけはあるから」 とたよりにしていた。しかし、敗戦で頼りにした軍人恩給もなくなっていた。
 晋司は身の置き場がなかった。長野の田舎から再起をかけて親類をたよって昭和二二年の春には東京にでかけた。
 ハナと本家の兄嫁のイソとは、実の姉妹だった。夫同士が兄弟でその妻同士が姉妹だったから問題は起こらないと考えられたが、実際は二人の仲は日に日に悪化していった。イソは戦後の農地改革で林家の田畑や山林が次々に縮小して気が動転していた。そこへ夫の弟たちが転げ込んできたというより、自分の妹一家が転げ込んできて林家の財産が見る見る減少していくことに気がかりだった。しかし、ハナにとって実の姉が林家の財産のことに気をとられ、貧困のどん底にあるハナ一家に冷たくすることに耐えられなかった。「これが実の姉のすることか」と時々激しく非難していた。二人の仲は近所でも評判になるほど悪化していった。
 典雄は地元の中学校に一時編入したが、卒業すると川口市にある鋳物工場の丁稚小僧にだされた。典雄はその丁稚も一年でやめ自動車会社の旋盤工として働きながら東京物理学校、さらに東京理科大学と九年間夜学に通った。
 ハナは、お医者で従兄弟の奥さんが病気で家政婦を求めているということを聞いて、由美と洋武を本家に預けたままで東京の従兄弟の家に家政婦として出かけた。それは半年にも及んだ。
 その頃、洋武はノートの切れ端に詩や短歌を書き付けては、先生のところに持っていった。その中で先生が三重丸をして返してくれた短歌があった。
 「今日もまた 母のいない淋しさを 月を眺めて時を忘れる」母との別生活には由美も洋武も寂しさが募った。
 ハナは、本家の伯父と由美には手紙をよこしたが洋武にはくれなかった。それが洋武には不満だった。ハナは、後になって弁解するよう洋武にいった。「その家にはお前と同じ年の男の子がいた。学校から帰ると自分のお部屋に入って毎日勉強をしていた。わたしは一度、東京の子に負けないように勉強しましょう。と手紙に書いたが破って捨ててしまった。お前が、本家で大人顔負けに山仕事や百姓仕事をしているのに、勉強しろなどいってはいけないと思ってね」。
 洋武が東大に進んだとき、その子も東大に在学していた。
 和雄も病弱の体だったが、昭和二十三年には働きに東京にでていた。長野の田舎には、由美と洋武が残されていた。伯父さんの家は大きな家だったが、いつまでも世話になるわけにもゆかず、伯父の持っていた小さな薪小屋を改造して、家政婦の仕事から戻ってきたハナと三人で住むことになった。

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