戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・53 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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麹種を売り歩く・1
菊村家との連絡はあの時以来絶えていた。洋武が考えているほど大人達は菊村家のことを気にしていなかった。大人達は生きることに必死だった。NHKのラジオは訪ね人の時間で戦後のばらばらになった家族、親類、知人の連絡を求めていた。しかし林家には菊村家の行き先を訪ね人に投書するような余裕はなかった。
本家も急に家族が増えて食糧の確保がたいへんだった。山間地で水田は少なかった。本家も水田は三反しかなかった。供出もすんだ後で六人の家族が増えたため米の確保ができなかった。毎日のご飯には大根を刻み込んで混ぜご飯にした。夜遅くまで、伯母も母も大根を小さく刻んで朝飯の準備をしていた。
林一家は少しでも現金になる仕事に取りかかることになった。典雄は望月の中学校に転入して、残りの五年生を終えることになった。その通学途中、製材屋で内職の仕事を見つけてきて働くことになった。和雄も全くしたことのない、山仕事にくわわり、人夫賃をえていた。
五〇戸はどの入片倉の部落ははとんどが林姓を名のっていたが、二戸はど藤井を名のっている家があった。藤井さんのおじさんは、戦争が終わるまで林本家の小作人だった。正月の餅つきやしめ縄作りのさいには、一日中付きっきりで林本家の手伝いをしていた。そこの息子の昌弘さんは洋武と同級だった。学校に行くのも、学校のかえりも部落の男の子たちはいっしょだった。
入片倉の男の子供たちは、正月を道祖神のまつりの準備に余念がなかった。洋武も昌弘さんに誘われるままに道祖神のまつりに参加した。氏神の所有林(部落林) から落葉松材を切り出し茅葺きのピラミッド型の大きな小屋を部落の入り口に作った。その小屋を根城に獅子舞いをし、甘茶の接待をして正月を祝う行事だったが、その仲間にすんなり入り内地での生活をスタートした。
その昌弘さんが 「洋武さんも稼ぎ仕事にいかざ」 と誘ってくれた。
東京はじめ都市では、空襲で焼かれ、春日村のような山村からは復興のための木材が次々に切り出されていた。また、薪炭類も毎日トラックがきて荷台にあふれるように薪を積んで東京に向かっていた。通常なら伐採してから二五年から三〇年たって切り出す、くぬぎやこならの薪炭の山も二〇年前の成長不足のままで切り出されていた。山から、トラックの通る道路までは人手で薪や炭を運ばなければならなかった。山村の子供たちはこうした手間仕事に加わって、ちょっとした小遣いを得ていた。
父の晋司は、私のために裏山から白樺の木を切り出し子供用と少し大きめのそりを作った。初めは子供用のそりで 「割っ木」 (薪) 五束ほどを運んだが、慣れてくると大きめのそりで十束、二十束の 「割っ木」 の薪運びを手伝いをはじめた。山からトラックの荷揚げ場までの薪をそりで引き出す仕事に就いた。二キロ近くの道をだしても一束、二〇銭とか三〇銭の手間賃しか得られなかったが、現金のない林家にはそれで子供たちの教科書代になった。雪はあまり降る地帯ではないが、高冷地だったので一度降るとなかなか融けなかった。慣れるにしたがって一度に二〇束三〇束も運べるようになった。これには由美も参加するようになった。北朝鮮の冬になれていた由美や洋武にとって寒さはたえられたが、激しい労働で手や足にしもやけやあかぎができ、それがなにかにふれると飛び上がるはど痛かった。
正月には俊雄が長野の家に戻ってきた。俊雄は中学校から進学のために伯父の家に預けられていた。それだけに、伯父の家を自分の家のようにふるまった。洋武を連れて表や裏の土蔵を案内して俊雄の使い古した教科書や雑誌、岩波新書や文庫など積んであるところを教えた。俊雄の物はなぜかあちこちに散らばっていた。俊雄の使ったスケートやそりなども放置してあった。
俊雄も「学生の内職のことをアルバイトとドイツ語で言うんだよ。内職があるから早く帰らないといけない」とあわただしく京都に向かった。
俊雄の残した土蔵にあった古い書籍を、一年半近く活字に飢えていた林家の兄弟たちは、お互いに争うように読みふけった。冬のきびしい寒さの中で、山仕事ができないときはこたつに潜り込んで読みふけった。その多くは、戦争中の書籍で、軍国主義はなやかなりし時のものであったが、洋武にとっては心に残るものがあった。なかでも、昭和十年頃の少年倶楽部にあった西郷隆盛の話は、たいへん気に入っていた。誰かに話したくて仕方なかった。
学校では二月に学芸会があった。四年男子組は、担任が病気で長期欠勤だったので、授業などほとんどやられていなかったし、学芸会の準備など全くなかった。学芸会の五日ほど前に、四年女子組の担任の先生が、「このクラスから何も出し物がなくてよいのか。歌でもお話でもやってみないか。」 と男子クラスを集めて話したが、誰も名乗りを上げなかった。「僕やってもいいけど」と手を挙げた。あの西郷隆盛の話をみんなにしてみたいと思っていた。他に誰もいなかったので、先生も 「四年男子組も学芸会にでられてよかった」 と私を指名して帰っていった。
菊村家との連絡はあの時以来絶えていた。洋武が考えているほど大人達は菊村家のことを気にしていなかった。大人達は生きることに必死だった。NHKのラジオは訪ね人の時間で戦後のばらばらになった家族、親類、知人の連絡を求めていた。しかし林家には菊村家の行き先を訪ね人に投書するような余裕はなかった。
本家も急に家族が増えて食糧の確保がたいへんだった。山間地で水田は少なかった。本家も水田は三反しかなかった。供出もすんだ後で六人の家族が増えたため米の確保ができなかった。毎日のご飯には大根を刻み込んで混ぜご飯にした。夜遅くまで、伯母も母も大根を小さく刻んで朝飯の準備をしていた。
林一家は少しでも現金になる仕事に取りかかることになった。典雄は望月の中学校に転入して、残りの五年生を終えることになった。その通学途中、製材屋で内職の仕事を見つけてきて働くことになった。和雄も全くしたことのない、山仕事にくわわり、人夫賃をえていた。
五〇戸はどの入片倉の部落ははとんどが林姓を名のっていたが、二戸はど藤井を名のっている家があった。藤井さんのおじさんは、戦争が終わるまで林本家の小作人だった。正月の餅つきやしめ縄作りのさいには、一日中付きっきりで林本家の手伝いをしていた。そこの息子の昌弘さんは洋武と同級だった。学校に行くのも、学校のかえりも部落の男の子たちはいっしょだった。
入片倉の男の子供たちは、正月を道祖神のまつりの準備に余念がなかった。洋武も昌弘さんに誘われるままに道祖神のまつりに参加した。氏神の所有林(部落林) から落葉松材を切り出し茅葺きのピラミッド型の大きな小屋を部落の入り口に作った。その小屋を根城に獅子舞いをし、甘茶の接待をして正月を祝う行事だったが、その仲間にすんなり入り内地での生活をスタートした。
その昌弘さんが 「洋武さんも稼ぎ仕事にいかざ」 と誘ってくれた。
東京はじめ都市では、空襲で焼かれ、春日村のような山村からは復興のための木材が次々に切り出されていた。また、薪炭類も毎日トラックがきて荷台にあふれるように薪を積んで東京に向かっていた。通常なら伐採してから二五年から三〇年たって切り出す、くぬぎやこならの薪炭の山も二〇年前の成長不足のままで切り出されていた。山から、トラックの通る道路までは人手で薪や炭を運ばなければならなかった。山村の子供たちはこうした手間仕事に加わって、ちょっとした小遣いを得ていた。
父の晋司は、私のために裏山から白樺の木を切り出し子供用と少し大きめのそりを作った。初めは子供用のそりで 「割っ木」 (薪) 五束ほどを運んだが、慣れてくると大きめのそりで十束、二十束の 「割っ木」 の薪運びを手伝いをはじめた。山からトラックの荷揚げ場までの薪をそりで引き出す仕事に就いた。二キロ近くの道をだしても一束、二〇銭とか三〇銭の手間賃しか得られなかったが、現金のない林家にはそれで子供たちの教科書代になった。雪はあまり降る地帯ではないが、高冷地だったので一度降るとなかなか融けなかった。慣れるにしたがって一度に二〇束三〇束も運べるようになった。これには由美も参加するようになった。北朝鮮の冬になれていた由美や洋武にとって寒さはたえられたが、激しい労働で手や足にしもやけやあかぎができ、それがなにかにふれると飛び上がるはど痛かった。
正月には俊雄が長野の家に戻ってきた。俊雄は中学校から進学のために伯父の家に預けられていた。それだけに、伯父の家を自分の家のようにふるまった。洋武を連れて表や裏の土蔵を案内して俊雄の使い古した教科書や雑誌、岩波新書や文庫など積んであるところを教えた。俊雄の物はなぜかあちこちに散らばっていた。俊雄の使ったスケートやそりなども放置してあった。
俊雄も「学生の内職のことをアルバイトとドイツ語で言うんだよ。内職があるから早く帰らないといけない」とあわただしく京都に向かった。
俊雄の残した土蔵にあった古い書籍を、一年半近く活字に飢えていた林家の兄弟たちは、お互いに争うように読みふけった。冬のきびしい寒さの中で、山仕事ができないときはこたつに潜り込んで読みふけった。その多くは、戦争中の書籍で、軍国主義はなやかなりし時のものであったが、洋武にとっては心に残るものがあった。なかでも、昭和十年頃の少年倶楽部にあった西郷隆盛の話は、たいへん気に入っていた。誰かに話したくて仕方なかった。
学校では二月に学芸会があった。四年男子組は、担任が病気で長期欠勤だったので、授業などほとんどやられていなかったし、学芸会の準備など全くなかった。学芸会の五日ほど前に、四年女子組の担任の先生が、「このクラスから何も出し物がなくてよいのか。歌でもお話でもやってみないか。」 と男子クラスを集めて話したが、誰も名乗りを上げなかった。「僕やってもいいけど」と手を挙げた。あの西郷隆盛の話をみんなにしてみたいと思っていた。他に誰もいなかったので、先生も 「四年男子組も学芸会にでられてよかった」 と私を指名して帰っていった。