戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・35 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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収容所にも春がきた・3
河村校長の小父さんは夏の入り口であっけなく亡くなった。それは隣に住んでいたわが家の誰もが気づかなかった。六〇歳前の静かな死だった。その時も兄達が墓を堀りにいった。農業関係の役所の小父さんも亡くなった。
それに続くように小島校長先生の奥さんが二人の子どもを残して死んでしまった。小島校長先生は終戦まじか出征したが、戦後順安に帰ってきていた。中村校長先生の奥さんは活発の人で赤ちゃんを負ぶって教室に現れるなどして生徒達になじみが深かった。しかし、小島先生の奥さんはおとなしい人で生徒達との交流も少なかった。私たちもあまり付合いはなかった。
小島校長先生は校長だったとき、子ども達にたいへん神経質に対応した。戦局が悪化するたびにいらいらして子ども達は怒られていた。奥さんが亡くなると人が変わったように話もしなくなった。子ども達が挨拶をしても顔をそむけて返事をしなくなった。子どもの面倒をみるからといって日本人会の使役にも出てこなくなっていた。「小島先生は変わられた」 母は繰り返しそう話した。そのころ末永先生の姿は収容所であまり見かけなかった。朝鮮人のヤンバンの家庭に家政婦になってお手伝いにいっているらしかった。
日本人はみな飢えていた。大人たちは食事を毎日どうして確保するかでたいへんだった。そんなにお腹がへっているのにみんな下痢をしていた。洋武も他の子供達も、もう下痢には慣れっこになっていた。子供達はもうかってのように動き回ることができないほどおなかがへっていた。
収容所の線路を越えると普通江だった。普通江はあいかわらず濁った黄色い川だった。オマ二たちがその濁った川で洗濯をしているの姿も変わらなかった。白い服が基調だった朝鮮の服を砧でたたきながら洗濯をしていた。
私たちはその岸辺の草むらで蛙を捕まえた。蛙は大きなのもあったが小さいものが多かった。蛇も捕まえた。順ちゃんも寺山君も他の友達も蛙は捕まえることができたが、蛇は苦手だった。
蛇を捕まえるのは、私の役割だった。私は蛇の頭を後ろから素手で抑えこみ蛇を捕まえた。国民学校一年生のとき「女の子をいじめる」とみんなに嫌われた蛇退治が役に立った。蛙も蛇も皮をむいて持ちかえった。拾ってきた石炭に火をおこし七輪の上で焼いた。香ばしい匂いが広がると「このにおいな一に」と収容所の小母さんたちが集まってきた。子ども達も集まってきた。皮をむいただけの蛙の姿を見て 「キヤー」 と奇声をあげた。「これはな一に?」蛇を肥後守(小刀)で五センチぐらいに切って七輪にのせてあった。私たちは得意そうに「蛇だ」といった。みんなは初めは顔をしかめたりしていたが、そのうちに他の子ども達や小母さんたちも蛇や蛙を採りに行くようになっていた。
それでも私たちには望外のたんばく質だった。そのころは朝鮮人の間にも飢えが広がっていた。アカシヤの花も蛙や蛇も朝鮮の子供達と争って取るようになった。
「ロシヤが米をみんな持っていったからだ。日本から独立したが、ロシヤは日本よりひどい」。そういったチーネの言葉を思い出していた。