戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・20 (林ひろたけ)
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武器探しそして略奪・1
終戦になってすぐの時だった。ハナは晋司に 「郵便局から千円いや二千円ほどおろして、電報為替で俊雄のところに送って。何があるかわからないから」と頼んでいた。晋司は乗り気でなかった。 「二千円は多すぎる。そんなにばたばたすることはない」。ハナは激しく反発していた。「こんな時こそすばやくやってやらないと」。千円のお金は月給百円に時代だったから、通常ならいくら大学に入っているからといっても大きすぎる金ではあった。しかし、ハナは必死に頼んでいた。晋司は郵便局で二千円を送ったが電報為替にはしなかった。この金は引揚後わかったことだが、俊雄のところには届かなかった。このことは 「男の人は肝心のときに役にたたないのだから」とあとあとまでハナが晋司を非難する材料になった。
日本人には夜間は外出禁止になっていたが昼間はまだ街に出ていくことができた。
両親は金融組合や郵便局に行き貯金をあるだけおろしに行っていた。しかし、林家の貯金の金額のうちほんのわずかな金額しか貯金は戻ってこなかった。「郵便局や金融組合には現金を出し渋るのよ」 とハナはそう嘆いていた。もちろん子供にはどのくらいお金があるのかわからなかったが、典雄もハナといっしょに毎日くりかえし貯金をおろしに行っていた。
洋武は学校もなく家に一人でじっとしている状況になった。すっかり仲良くなった寺山君の家に明るいうちは遊びに言った。寺山君の家は栗本鐵工所の普通江の社宅だった。そこはいつも日本人の子供たちがいてにぎやかに遊んでいた。社宅の前には京義本線が通っていた。京義本線を通る列車はどの客車も人で一杯であふれるようになっていた。なかには貨物の屋上にも乗っていた。その中でも兵隊さんが貨物に乗せられて北に向かっていた。貨車は暑さもあって開け放され兵隊さんが乗っている貨車が北に向かって走っていた。
子供たちはいつものように 「兵隊さん万歳」 と両手を挙げた
洋武は、兄に 「北に向かって兵隊さんたちが貨車に乗っていったよ」 と報告した。兄は暗い顔をした。「武装解除になって捕虜で連れて行かれるんだ。要塞の建設でも使われるとみんな殺されるんだ」。洋武は晋司の顔を見た。晋司は黙って唇をかみ締めていた。
戦争が終わって朝鮮人の職場の移動も激しくなった。転勤になったとか、自分の家に帰るとかお別れのあいさつにくる朝鮮人の若者も多かった。晋司は、酒飲みではあったが朝鮮人の若者は大切にしたらしい。若者たちは丁寧に頭を下げて別れていった。
そんな頃、「保安隊です。武器があったら出してください」。数名の朝鮮人の青年がやってきた。
みると安田さんが隊長だった。
「わあ安田さんだ」 と洋武は叫んだ。
「コウタイホというんだ」 と安田さんはすこし怖そうに洋武に言った。
安田さんとはわが家では久しぶりだった。その安田さんは、朝鮮人の間で組織されたばかりの保安隊の隊長になっていた。はじめはおだやかな調子で武器の引渡しを晋司に迫っていた。晋司も前の使用人に対する態度で横柄だった。ピストルが二挺、サーベルが一本、それに日本刀が三本が出されていた。サーベルはいつも父が腰につって出かけたし、日本刀は和雄がときどきだしては粉をたたきつけて手入れをしていたので何本あるか知っていた。しかし、ピストルが林家にあることを知ったのは初めてだった。ピストルのうち一挺は短銑だった。しかし、安田さんはそれでは少ないもっとあるはずだ。とねばった。はじめは対等に付き合っていたが、そのうちに晋司は座敷に座らせられ、安田さんは椅子に腰掛けて何か激しく怒鳴っていた。晋司が「安田君」というと「俺は安田でない。日本読みでもコウタイホ(洪泰保)というんだ」と声を荒げた。
そして結局、武器を探すといって家宅捜査が始まった。
その時、安田さんは朝鮮語で部下になにか命じていた。洋武は「安田さんも朝鮮語で話すの」とつい尋ねた。
「洋武君、日本は負けて朝鮮は独立するんだ。独立すれば自分の国の言葉で話すのが当然だよ」。
もう、以前のように武ちゃんとは言わなかった。ハナがあわてたように洋武を安田さんから遠ざけた。
保安隊の人達によって、軍とつくものは全部集められた。軍靴、軍帽、軍の靴下、洋武のおもちゃの鉄兜まで。そして、郵便局や金融組合から下ろしてきた現金が次々にだされて全部集められた。百円札が積み上げられた。
ハナが悲鳴を上げた。ハナは畳に頭を摩り付けながら「これは私たちの生活費、これ以上金融組合もだせないといっているの。何とかして残して」と頼みこんだ。安田さんは「保安隊の軍資金がない。そのために全部もらっていく。日本軍は無条件降伏をしたのだ。在郷軍人会の会長も日本軍だ。あなた方の生命は保障するが財産まで保障できかねる」と怒鳴りつけ始めた。軍刀と小銃をハナの前に突きつけた。百円札一枚を残して、五千円をこえるお金が全部もって行かれてしまった。当時一ケ月の給料が百円の人は高給取だった。
晋司もハナも呆然としていた。まったくお金がなくなってしまったのだ。
その後も保安隊が繰り返しきて「金を出せ」と迫ったが、もう林家にはお金がなかった。しかも郵便局も金融組合も閉鎖になって、貯金はおろすことができなくなった。
保安隊は代わり番こにやってきた。保安隊は小銃を持ち、軍刀を持っていた。そのもち方がおかしいので父は「こう持つのだよ」と教える一幕もあった。
林家は朝鮮人部落の中にあった。そのために保安隊が来るたびに朝鮮人がぞろぞろついてきて台所などに入り込んで、欲しいものをもっていった。略奪が始まったのだ。林家が朝鮮人部落のなかにあったことと、在郷軍人会長宅でもあったので順安の日本人の家庭のなかでも、わが家への略奪はもっとも激しかった。
日本人への圧力が強まる中で「夜間外出禁止の中、酒を飲んで町を歩いていた」という理由で父は保安隊に連れて行かれた。その時も酒を飲んでいた。二時間ぐらいたって、わが家に引き取るようにという連絡があった。中学生の典雄が、保安隊の屯所、それは前の警察署であったが一人で出向いていった。夜おそく帰ってきたのは典雄一人だった。典雄は泣きながらハナに報告していた。晋司は酔っ払って警察に収容されていた。そうとうに飲んで意識がないほどだった。典雄の前で朝鮮人の若者から繰り返しバケツで水をかけられていた。「日本人はいばっていても、このざまだ。そういってくり返し水をかけるんだ。お父さんもぐでんぐでんで『安田でてこい』など言うから、ますますみんなおこらせて」。
典雄は体は小さかった。子供のような中学生だった典雄の悔し泣きは洋武には忘れられない衝撃だった。「戦争に負ければみじめね」とハナも怒りをこめた顔でつぶやいていた。
晋司は翌日顔を大きく腫らしてまだぬれたままの姿でしょんぼりと帰ってきた。殴りあげられて顔を腫らしていることは明らかだった。
順安での日本人として、在郷軍人会会長としての権威も面子も完全に崩壊していくことが子どもの洋武にも感じられた。