戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・58 (林ひろたけ)
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第五章 戦争はもういやだよ・2
図書室に「長崎の鐘」という本がはいることになっていた。長崎で原爆被害者の永井隆医学博士の書いた本だった。新聞やラジオで紹介されて前評判も高く、早く読みたかった。しかし、図書室にはその本はなかった。先生に聞いてもはっきりした返事がなかった。そのうちにその本が、先生の間を先に読みまわされていることを知った。「先生達ずるいぞ。生徒に先に読ませるべきだ。」私は図書係の先生にくってかかった。「わかった。昼間読んでおけ。先生達は家にもって帰るので読むのが遅いんだ。」 洋武は特別扱いで図書室で読むことになった。
妙に表紙の厚いその本を開いたとき、最初のページにあった写真にあっと驚きの声をあげた。黒焦げになった「少年」 の写真があった。ほとんど裸に近く、おチンチンのところが少し膨れていた少年の姿は、私が原爆被害者をみた初めての写真だった。その後原爆被害者の多くの写真を見たが、忘れることのできない写真だった。
本の内容は難しいところが多かった。半分も理解できなかった。それでも必死で読み上げた。
本はもうあちこち痛んでいた。質の悪い紙には、涙でにじんでいる頁もあった。「長崎の鐘」 は先生達が一生懸命読んでいることがわかった。原子爆弾の恐ろしさを知ったのは初めてだった。そして、放射能という得体の知れない物質に驚きをもった。朝鮮時代平壌の道立病院でレントゲン写真をとったこと思いだし、病気を治す道具がなぜ人間をこんなに不幸にするのだろうかとおもった。
「長崎の鐘」は一日で読み上げたが、半分以上を「マニラの悲劇」という文書が占めていた。
私は翌日その残りを読むことにした。「マニラの悲劇」にも写真があった。写真の説明のなかに「日本兵は幼児を銃剣で刺し殺した。大声をあげた母親を銃殺した」という文書があった。順安の収容所で満州から避難してきた母子がソ連兵に銃殺されたことを思い出した。それは「ソ連兵が日本人にやったことと同じことをフィリッピン人にしていたのだ。」と思い、かなり難解だった文書にひかれていった。「マニラの悲劇」は、日本軍がフィリッピンのマニラで残虐なことをした記録だった。中国の南京で大虐殺をした新聞記事もすでに出ていた。しかも、シンガポール占領の英雄だった山下泰文大将が、フィリッピンでの残虐行為で絞首刑になっていた。でも、順安のわが家にあった写真集で匪賊を討ち取った父晋司の写真を思いだし、終戦後のソ連兵の残虐を思いだし、「戦争はみんなあんなものだ。戦争になればよい人はいなくなる」と思った。
「マニラの悲劇」という文書が、どうして「長崎の鐘」に載っていたかわからなかった。その理由を知ったのは原水爆禁止運動に熱中していた十数年後だった。「長崎の鐘」があまりにも悲劇的なので原子爆弾を落とした反米感情が広がることを恐れたアメリカ軍が検閲の結果、「日本軍もひどいことをした」証拠のためにこの文書を、つけて発行を許可したものだった。経過はどうであれ、私にとって日本軍の残虐行為を知る最初の文書だった。そして、戦争への恐怖はいっそう強くなった。
引き続いて「この子を残して」という永井隆博士の本が図書室にはいった。永井博士と子供たち一家の愛情あふれる生活とやがて死を覚悟しないといけない博士の運命に心を動かされた。
「順ちゃんの小母さんはどうしているだろう。恵子さんや美代子さんはどうしているだろう。順ちゃんのおばあちゃんもキリスト教だった」。「長崎の鐘」はその後映画にもなったし、歌も繰り返し歌われた。貧しさのため映画など見ることができなかった私は繰り返し二つの本を読んだ。
中学生二年生になった時、「新しい憲法の話 文部省」「民主主義 文部省」という本が教科書として配られた。当時、教科書は有料だった。新学期には教科書代を捻出するのがわが家の一大事だった。しかし、「新しい憲法の話」はなぜか無料で配られた。この憲法の本を開いた時、戦車や軍艦が大きな釜の中に放り込まれ、下から電車やら自動車やらでてくるカットに新鮮な驚きを感じた。「武器がなくても心配はいりません。世界の人々となかよくできます」という解説がっいていた。社会科の先生がていねいに平和の大事さを教えていた。洋武は「新しい憲法の話」よりいっそう「民主主義」という教科書に魅力を感じて何回も読みかえした。「日本が民主主義の国だったら、無謀な戦争はおこらなかったでしょう」というフレーズを繰り返し確かめた。その頃、疎開をしていた子供たちが次々に東京など都会に戻っていった。お別れのさい、その子供たちと一言ノートにサインをして交換した。
洋武は、そのたびに「おれは行く 君も行かぬか一筋に 行く手を照らす 光求めて」と自作の短歌を書き印した。光が何であるか私にはわからなかった。しかし、戦争だけはいやだった。
戦争のない国こそが光であった。
由美は望月の高等学校に進んだ。由美はまわりの人達が「あそこの子が高等学校にいく」と貧乏の中、望月の高等学校に進んだことに驚きを隠さなかった。姉達の同級生で高校に進んだのは二割に満たなかった。
中学二年生の田植え休みがやってきた。当時の農村ではこどもたちは貴重な労働力だった。中学校は農繁期が始まるたびに田植え休みとか稲刈休みとか一週間程度の休みがあった。田圃のないわが家も本家の田植えをハナも由美も洋武も農作業の手伝いにいった。田植え準備(準備の)ために肥担ぎをし、牛をつかっての苗代かきのとき、牛の鼻面をもって田圃をコネ歩き、また田植えのさいも重要な労働力だった。
あすで田植え休みも終わりだという日曜日、ハナと洋武は本家の農作業の手伝いで昼の食事を待っていた。雨の多い田植え時期だったが、その日は晴天で夏の到来を感じさせる暑い日だった。
蓼科山には夏を思わせる雲がわいていた。わが家にはラジオはなかった。田植えの時期には二時間以上の昼寝の時間をとったが、昼休みをまえに、「のど自慢」 を聞こうと伯父の家の昼のラジオのスイッチをいれた。
しかし、 昼のニュースはあわただしかった。
図書室に「長崎の鐘」という本がはいることになっていた。長崎で原爆被害者の永井隆医学博士の書いた本だった。新聞やラジオで紹介されて前評判も高く、早く読みたかった。しかし、図書室にはその本はなかった。先生に聞いてもはっきりした返事がなかった。そのうちにその本が、先生の間を先に読みまわされていることを知った。「先生達ずるいぞ。生徒に先に読ませるべきだ。」私は図書係の先生にくってかかった。「わかった。昼間読んでおけ。先生達は家にもって帰るので読むのが遅いんだ。」 洋武は特別扱いで図書室で読むことになった。
妙に表紙の厚いその本を開いたとき、最初のページにあった写真にあっと驚きの声をあげた。黒焦げになった「少年」 の写真があった。ほとんど裸に近く、おチンチンのところが少し膨れていた少年の姿は、私が原爆被害者をみた初めての写真だった。その後原爆被害者の多くの写真を見たが、忘れることのできない写真だった。
本の内容は難しいところが多かった。半分も理解できなかった。それでも必死で読み上げた。
本はもうあちこち痛んでいた。質の悪い紙には、涙でにじんでいる頁もあった。「長崎の鐘」 は先生達が一生懸命読んでいることがわかった。原子爆弾の恐ろしさを知ったのは初めてだった。そして、放射能という得体の知れない物質に驚きをもった。朝鮮時代平壌の道立病院でレントゲン写真をとったこと思いだし、病気を治す道具がなぜ人間をこんなに不幸にするのだろうかとおもった。
「長崎の鐘」は一日で読み上げたが、半分以上を「マニラの悲劇」という文書が占めていた。
私は翌日その残りを読むことにした。「マニラの悲劇」にも写真があった。写真の説明のなかに「日本兵は幼児を銃剣で刺し殺した。大声をあげた母親を銃殺した」という文書があった。順安の収容所で満州から避難してきた母子がソ連兵に銃殺されたことを思い出した。それは「ソ連兵が日本人にやったことと同じことをフィリッピン人にしていたのだ。」と思い、かなり難解だった文書にひかれていった。「マニラの悲劇」は、日本軍がフィリッピンのマニラで残虐なことをした記録だった。中国の南京で大虐殺をした新聞記事もすでに出ていた。しかも、シンガポール占領の英雄だった山下泰文大将が、フィリッピンでの残虐行為で絞首刑になっていた。でも、順安のわが家にあった写真集で匪賊を討ち取った父晋司の写真を思いだし、終戦後のソ連兵の残虐を思いだし、「戦争はみんなあんなものだ。戦争になればよい人はいなくなる」と思った。
「マニラの悲劇」という文書が、どうして「長崎の鐘」に載っていたかわからなかった。その理由を知ったのは原水爆禁止運動に熱中していた十数年後だった。「長崎の鐘」があまりにも悲劇的なので原子爆弾を落とした反米感情が広がることを恐れたアメリカ軍が検閲の結果、「日本軍もひどいことをした」証拠のためにこの文書を、つけて発行を許可したものだった。経過はどうであれ、私にとって日本軍の残虐行為を知る最初の文書だった。そして、戦争への恐怖はいっそう強くなった。
引き続いて「この子を残して」という永井隆博士の本が図書室にはいった。永井博士と子供たち一家の愛情あふれる生活とやがて死を覚悟しないといけない博士の運命に心を動かされた。
「順ちゃんの小母さんはどうしているだろう。恵子さんや美代子さんはどうしているだろう。順ちゃんのおばあちゃんもキリスト教だった」。「長崎の鐘」はその後映画にもなったし、歌も繰り返し歌われた。貧しさのため映画など見ることができなかった私は繰り返し二つの本を読んだ。
中学生二年生になった時、「新しい憲法の話 文部省」「民主主義 文部省」という本が教科書として配られた。当時、教科書は有料だった。新学期には教科書代を捻出するのがわが家の一大事だった。しかし、「新しい憲法の話」はなぜか無料で配られた。この憲法の本を開いた時、戦車や軍艦が大きな釜の中に放り込まれ、下から電車やら自動車やらでてくるカットに新鮮な驚きを感じた。「武器がなくても心配はいりません。世界の人々となかよくできます」という解説がっいていた。社会科の先生がていねいに平和の大事さを教えていた。洋武は「新しい憲法の話」よりいっそう「民主主義」という教科書に魅力を感じて何回も読みかえした。「日本が民主主義の国だったら、無謀な戦争はおこらなかったでしょう」というフレーズを繰り返し確かめた。その頃、疎開をしていた子供たちが次々に東京など都会に戻っていった。お別れのさい、その子供たちと一言ノートにサインをして交換した。
洋武は、そのたびに「おれは行く 君も行かぬか一筋に 行く手を照らす 光求めて」と自作の短歌を書き印した。光が何であるか私にはわからなかった。しかし、戦争だけはいやだった。
戦争のない国こそが光であった。
由美は望月の高等学校に進んだ。由美はまわりの人達が「あそこの子が高等学校にいく」と貧乏の中、望月の高等学校に進んだことに驚きを隠さなかった。姉達の同級生で高校に進んだのは二割に満たなかった。
中学二年生の田植え休みがやってきた。当時の農村ではこどもたちは貴重な労働力だった。中学校は農繁期が始まるたびに田植え休みとか稲刈休みとか一週間程度の休みがあった。田圃のないわが家も本家の田植えをハナも由美も洋武も農作業の手伝いにいった。田植え準備(準備の)ために肥担ぎをし、牛をつかっての苗代かきのとき、牛の鼻面をもって田圃をコネ歩き、また田植えのさいも重要な労働力だった。
あすで田植え休みも終わりだという日曜日、ハナと洋武は本家の農作業の手伝いで昼の食事を待っていた。雨の多い田植え時期だったが、その日は晴天で夏の到来を感じさせる暑い日だった。
蓼科山には夏を思わせる雲がわいていた。わが家にはラジオはなかった。田植えの時期には二時間以上の昼寝の時間をとったが、昼休みをまえに、「のど自慢」 を聞こうと伯父の家の昼のラジオのスイッチをいれた。
しかし、 昼のニュースはあわただしかった。