戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・54 (林ひろたけ)
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麹種を売り歩く・2
話の中身は、西郷さんが鹿児島で浪人中に塾をやっていた。そこに弟子入りを希望する青年が、入門料の代わりに泥の付いたサツマイモをもって訪ねてきた。他の弟子たちが、『なんだ泥のついた芋じゃないか』と笑った。西郷さんはこれをとがめて 「泥の付いた芋であっても人の誠意を大切にしないといけない」 と諭したものだった。少年倶楽部の見開き二ページのお話には、講談形式に人に話せるようにと 「ここで声を大きくして」 とか 「ここはゆっくりかみしめるように」とかルビがふってあった。学芸会までの短い間私はくりかえし暗記をした。
学芸会は、全校生徒高等科まで八百人近く参加した。また、学校の近隣の父母たちも参加していた。そんなたくさんの人の前で話すことはなかったが、おぼえたての 「西郷さんのお話」 をせいいっぱいの声を張り上げて話した。学校にはマイクはない頃だったが、声は講堂には十分とどいた。話しが終わったとき講堂から大きな拍手とざわめきが広がった。それは今までの出し物の比ではなかった。「みんなが喜んでくれている」という実感が私の心に響いた。
それから、私は洋武さんではなく西郷さんと呼ばれることが多くなった。噂は学校だけでなく小さな村に広がっていった。村に一つしかない雑貨屋で鉛筆を一本買ったとき、そこの小母さんが「君は西郷さんのお話をした子ずら。おばさんも聞いていたよ。あれはよいお話しだったね。今日は鉛筆をもう一本おまけしておくよ」。私はいっぺんに鉛筆を二本も買うことはなかったので、なにかたいへんな大きな褒美をもらった思いがあった。学芸会が終わって三月になると、まだ雪の残っている田圃や畑で農作業をはじめる農夫の姿も見られるようになった。同じ部落での子供たちと学校帰りに、農作業をしていたおじさんに呼び止められた。「おめえ、西郷さんの話をした子か。」手ぬぐいで顔を拭いながら声をかけてきた。「はい」「学芸会でええ話しをしたつうが、ここでやってみねいか。」おじさんは鍬をおき、キセルを取り出して腰を下ろした。私は少し忘れかけたが、五分ほどの話しをして見せた。「ええ話しだ。おめいもこの話しのようにがんばるんだな。」キセルを二回ほどたたいた。
その年の春、学制が変わった。それまで国民学校高等科は、新制中学校になって義務制となった。国民学校は小学校になった。由美姉さんは、新制中学校一年生に、私は小学校五年生になることになった。そして男女共学になった。春休みのある日、ハナがどこからか、味噌麹種を仕入れてきた。「これを五円で売ると一袋につき五十銭もらえる。お前たち二人で売ってきてくれ。」
ハナは引揚げのとき朝鮮から担いできたルックサックを取り出し、姉と私のルックにありったけの麹種を入れて、肩掛けの布の鞄を用意してくれた。「当面売れる分は肩掛け鞄にいれて、もしなくなったらルックからだすのよ。五十銭のもうけでおまえたちの教科書代がでるんだからね」。
ハナは、小学生たちに物売りをさせることに、ためらいながら言い聞かせた。由美と私は、入片倉よりも南の立科山の方の集落に向けて麹種売りに出かけた。一軒一軒訪ねては、「麹種はいりませんか」と声をかける。多くの家庭のおばさん方は初めのうちは、キョトンとしているが、麹種売りだとわかると急に態度を変えた。
「おらあところは、塩の段取りしていて麹のことまで考えていなかったべえ。」多くのおばさんたちは、二袋三袋と買ってくれた。当時の春日村では、ほとんどの家庭は、味噌は自家製だった。
そして春に仕こみが始まっていた。味噌作りの原料の大豆は何とか山畑で収穫しても、塩がなかった。どこの家庭でも塩の入手が至難を極めていた。同時に、麹がなければ味噌にはならない。麹種も戦争で農村には品不足だった。
ある家庭で、おばさんが 「ねえ、父ちゃん四袋ほど買っておこうか。」 と奥にいるおじさんに声をかけた。おじさんは中腰になりながら、「五円は高い。すこしまけてくれねえか」 と冗談のように言った。おばさんは「引揚げで苦労している子供をいじめるでねえ。この子はあの西郷さんの話をした子だ。」おばさんは四袋を買って、乾し餅を添えて、「がんばりいや」と激励してくれた。学校から一里近く離れていた集落のおばさんがどうして「西郷さんの話」を知っていたかはわからない。しかし、西郷さんの話は、村中で評判になっていた。戦争直後の昭和二十二年の春には、どこも物不足だった。そして誰もが貧しかった。私の「西郷さんのお話」は、そうした村の状況にも合っていたのかもしれない。ハナが持ち込んだ味噌麹種は、ほとんど売り切れた。
「これでお前たちの教科書代がでそうだね」と喜んだ。村の人々は「よそ者」いじめなどせずにみんな私にはやさしかった。