戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・51 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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引き揚げ列車の中で 学生同盟の人達・3
信越線篠ノ井駅で乗り換え、田中駅についたのは、十一月四日の昼十二時前だった。「これからはバスで二回乗り換える。汽車とは違って座れないかもしれない」と晋司がみんなに注意をした。バスはこんでいた。異様な格好をした一家がバスに乗り込むと激しい悪臭もしたのだろうか、他の乗客たちは、私たち一家を露骨にさけだした。大人たちは博多で軍服の支給があったが、子供にはなかった。だからとりわけ洋武の姿はひどかった。顔と頭にはおできとおできのあとだらけで異様な風貌だった。もう十一月というのに長ズボンは半分きれて半ズボンになっていた。上着も長袖のシャツの上に夏物のシャツを重ねてきていた。靴はなかった。おかしな形をしたぞうりだった。物乞いの集団というより他はなかった。同時に由美も洋武ももう立っていられなかった。ルックサックのままでバスの狭い通路に座り込んだ。
次の停留所で大きな籠を背負い、白いエプロンをし、もんぺ姿をした若いおばさんが乗りこんできた。この小母さんは 「よっこらしよ」 と荷物を置くと、私たち姉弟の顔を見て、すかさず「おやげねー。(かわいそうに)この子たちどうしたずら。ガリガリに痩せてしまっているでねえか。」
そういって立っていた晋司に話し掛けてきた。それは洋武にとって初めて聞く信州弁だった。晋司は他の乗客にも聞いてもらえるように、少し大きめの声で 「北朝鮮からルック一つで命からがら引き揚げてきたところです」と説明した。はじめ邪険に扱っていたそばにいた小父さんも私たちのためにすこしスペースを作ってくれた。バスの雰囲気が同情的になってきた。そのおばさんはもう一度、私たちを見なおしてぼろぼろと涙を流して泣いた。「まあ、おやげねいずら。そこのお兄ちゃん、いまにも死にそうに疲れてしまって」と洋武をさした。「今日の私の弁当だけどたべるのなら」そういって差し出した。私は弁当に手をださなかった。遠慮をしたというより実際つかれきってもう食べる意欲もなかった。
晋司が「ほんとうにありがとうございます。洋武、姉ちゃんといただいたら」と声をかけた。
その弁当箱はほうろう引きの白い弁当箱だった。そしてご飯も白米だった。おかすは何だったろうか、覚えていないがきちんとした弁当箱から食べたのは一年半ぶりだった。半分をたべて、あとは由美にわたした。若いそのおばさんの顔と白いエプロンともんぺ姿はいつまでも忘れられなかった。
「内地の人はなんて親切なんでしょう」ハナはくりかえし御礼を言った。
一時間ほどで望月についた。バスの停留所のまえに「引揚者のみなさんご苦労さまでした。どうぞ休憩につかってください」とかいたビラが張ってある家があった。道に沿って幅広い長い廊下のある家だった。望月は古くからひらけた中仙道の宿場町だった。東側から山が迫り、谷川の流れる水の音が聞こえてきた。
十一月の寒さが身にしみていた。わが家が帰る春日村の家はまだそれからバスの乗り変えねば
ならなかった。バスを一時間も待たねばならなかった。
洋武は板の廊下に横になった。いつか、マラリヤで苦しんだとき 砂利道の道端に転げ込んだことを思い出していた。「生きていたんだ」と子供心に生への喜びが沸いてきた。
やがて、そこのエプロン姿のおばさんが出てきて「お帰りなさい。どちらからの引揚げでしょぅか。」などいいながらお茶をいれはじめた。そして晋司と話していた。晋司は「陸軍士官学校がここに疎開していた!」とおどろきの声をあげていた。
バスが春日村の終点についた時、もう日が暮れ始めていた。晋司の従兄弟の人が自転車で迎えに来ていた。「何時のバスになるかわからねえずら。バスの着くたびに迎えにきた」そう言うながら父との再会を喜んだ。
晋司の実家は、それからさらに三キロほどの登り坂を歩かなければならなかった。従兄弟の小父さんの自転車に洋武を前に由美を後ろにのせて押しながら上りの坂道を一家は歩きつづけた。
晋司の実家についた時はもう日はすっかり暮れていた。
晋司の兄の伯父さんとハナの姉の伯母さんが迎えていた。
「よう帰った。一時期は死んでしまったとあきらめていた」そう囲炉裏の側でつぶやくようにはなした。
両親は、並んで正座をして「一家でお世話になります」とていねいに頭を下げた。私たち兄弟も同じように並んで頭を下げた。伯父さんの家は二〇才過ぎの娘さんが一人の三人家族だった。
そこに六人の家族がいきなり飛び込んできてあきらかにとまどっていた。
十一月四日の夜だった。昭和二〇年(一九四五年)八月一五目の敗戦以来、一年三ケ月たっていた。順安を出たのは八月三〇日の朝だったから、六十五日の長い長い旅が終った。
信州の山村はもう秋というよりは冬の初めだった。由美も洋武もそれまでもたえず下痢に悩まされていた。しかし、伯父さんの家にたどり着いてからさらに激しい下痢に見舞われた。伯母さんが出してくれるささやかなご馳走がもう体に合わなくなっていた。「せっかくのご馳走もうけつけない」。ハナが悲しい顔をした。