戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・34 (林ひろたけ)
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収容所にも春がきた・2
そのころ順ちゃんが元気をなくしていた。それは弟の安夫君の病気が重くなっていたからだ。
栄養もなかった。みんな骨と皮ばかりだった。そのうえどうもお父さんの結核が移っていたらしかった。
安夫君はもともと順ちゃんと違って元気のない子だった。収容所にはいっても姉ちゃんや兄ちゃんといっしょに遊びに出ることも少なかった。収容所の生活の中で体力そのものがなくなっていた。ハナがときどき見舞いにいったが、ただ首をふるだけで 「とてもだめだわ」 とつぶやいた。
安夫君は五月を待つことなく死んでしまった。子供の結核だった。お父さんの結核がうつったのだろう。
わが家のスペースは舞台だった。廊下の方に四段ほど舞台に上がる階段がついていた。順ちゃんのおばさんはハナに 「安夫ちゃんがダメだった」 と報告にきた時、おばさんは階段に顔をつけてワァワァと子供のように泣いていた。ハナが肩をだいていたがそれでも泣き止まなかった。順ちゃんもお姉ちゃんたちもどうしてよいのかわからないほど泣いていた。「あとの子供達を大切にしましょうよ」 とハナは慰めていた。
廊下を歩いているおじさんが、そんなおばさんをみて 「泣き女のように泣く女だ」 といって舌打ちをした。ハナは目をつりあげて怒った。「子供が死んでウソ泣きができますか」。「泣き女」というのは朝鮮人がお葬式の野辺の送りのとき、棺のまわりに死を悲しんで泣く女性のことである。朝鮮では葬式の行列に参列する人は大声で泣くことが多かった。特に泣く人が多いほど盛大な葬式だということで、お金持ちはたくさん女性を雇って 「泣き女」 にしたてると噂をしていた。
私もときどきそんな葬式をみたことがある。白い服をきて悲鳴に近い声を上げて泣く女性達を見てあれが泣き女なのかと、ものめずらしくみたことがあった。日本人はその習慣を少し軽蔑してみていた。子供が泣き止まない時など 「泣き女みたいに泣くな」 と叱ることが多かった。私はそうした叱かられ方が嫌いだった。順ちゃんのお母さんは安夫君が死んだときそう悪口をいわれるくらい泣いていた。
大村さんの家のあっちゃんは、年の割に大きな体をしていて大食漢だった。相変わらず 「わーわー」 というだけだった。それでも両親はあっちゃんを大事にしていた。「もう食べるものもないなか、あっちゃんみたいな子は死んでもいいんだ」 という大人がいた。その時、順ちゃんが激しく怒った。「そんなこといったらみんな死んでしまえばいいんだ」。順ちゃんが怒ったとき、順ちゃんちは 「お父さんも、安夫君も死んでしまったからな」 と思った。 それから順ちゃんはあっちゃんを特に大事にしはじめた。あっちゃんのお姉さんの恵美子ちゃんとも仲良しになった。私はすこし二人が仲良くしているのに腹が立つことがあった。でも順ちゃんと遊ぶほかなかったので、大村さん姉弟ともなかよくして遊んだ。遊ぶといっても、いっしょに時を過ごすだけだった。
六月になって激しい雨の日が続いた。雨の日は私たちはどこにも行けず、子供達はクラブの廊下のようなスペースでじっとしていた。順ちゃんが 「ぼくたちどうして日本人なのかな。朝鮮人は日本語を上手に話すのにぼくたちはどうして朝鮮語も話せないんだろう。日本人でなければこんなにひどいことにならなかったのに」 といいだした。
寺山君は一学年上のお兄さんらしく、「日本は一等国民だったのだよ。戦争に負けたから四等国民になったんだよ」 といった。大人たちは 「一等国とか四等国」 とかよくいった。でも順ちゃんは 「それでもなぜ日本人なのか」 ともう一言いった。私たちには難しく重い話だった。「早く内地に帰りたいな。ぼくらは難儀するために大阪から朝鮮にきたみたい」 と寺山君が続けた。寺山君は終戦になるまで、「朝鮮にきて白いご飯も食べられて良かった」 としばしば言っていた。
洋武は朝鮮でうまれ内地に一度も帰ったことはなかったが、それでも内地に早く帰りたかった。
内地に帰れば、こんなにひもじい思いもしないですむし学校にも行けるのでないかと考えていた。
「おれたちなにも悪いことしたわけでないのに」 と寺山君はいった。順ちゃんは 「悪いことした子は神様がちゃんと見ていて、罰があたるんだよ。長崎のおばあちゃんがいっていた」 とまだ戦争が終る前に時々言っていた。洋武は 「小さい時、近所の朝鮮人のこどもをいじめたことがあったが、あれが悪いことかな」 と考えていた。
そのころ内地に帰れる話が大きくふくらんだ。先発隊が栗本鐵工所の若い数家族を中心に三〇名ほど組織された。そして順安駅から一日に数本しか走らない列車に強引に乗り込んで南に向かった。しかし、四日目につかれきった表情でみんな帰ってきた。平壌の駅でおろされて、そのまま平壌のホームで野宿をさせられて、結局送り返されてきた。
「今度こそ帰れる」 という思いは無残に打ち砕かれた。「朝鮮終戦の記録」 という本によるとこの頃、北から日本人の集団が三八度線を越えて次々に南下をはじめていた。アメリカ軍の若い将校が、思いつきのようにソ連軍の将校に 「日本人が乞食のような姿で次々に南下してきて困っている。日本人を送り込むのは止めて欲しい」 と抗議をした。その結果ソ連軍は、日本人の南下を全面的に禁止して三八度線の境界の警戒をいっそう強めた。ろくな食糧も与えず、体面だけ気にしてそれによってさらに多くの犠牲者が生まれていた。その時期と順安の先発隊が送り返されてきた時期と同じごろだった。
春がすぎて夏がやってきた。寒い時にも死ぬ人が多かったが暑くなるとまた死ぬ人が増えてきた。
一人の餓死者がでるということは、その何倍かの人たちが病気で死んでいくことだった。