戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・36 (林ひろたけ)
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第三章 必死の逃避行
逃避行の準備と 「姥棄て」 の悲劇
八月になった。終戦になって一年たった。「もう一冬はこせない」多くの日本人が期せずして語りはじめた。その間も 「今度はかえれる。ソ連が汽車を出すことをみとめた」など噂が広がった。私たちは何度も 「今度こそ帰れる」 という言葉を聞いたがそのたびに裏切られた。
「三八度まで七〇里はある。歩いて逃げるかそれともここでみんな死んでしまうか」。その言葉に子供の私たちにも切実感があった。
大人たちは何度も会議を開いていたが、七〇里を歩いて逃げることになった。満州から歩いて逃げてきたお兄さんのようにあんなに歩けるのだろうか。順ちゃんちのように光夫ちゃんがまだ三つだけど七〇里も歩いて行けるのだろうか。そんな心配が心をよぎった。
歩いて逃げるのだから野宿する以外ない。ということは覚悟の上だった。会議の中では「二週間ぐらい分の食糧が必要」とか「持っていくものはどうするのか」とか話は具体性を帯びてきた。
子ども達もいままで「今度こそ帰られる」という言葉になんどもだまされてきたが、大人たちの動きはいつもと違っていた。
問題になったのは子どもとお年寄りだった。私たち一家と同じ舞台にいた日野さんの家は深刻だった。日野さん一家は満州から避難していたが、足の悪い七〇歳を超えたおばあちゃんと若いお母さんと八歳ぐらいの子供を頭にした三人でお父さんはいなかった。おばあちゃんが必死の形相で孫の食事を横取りしようとしていた。そのすさまじさに私もびっくりしていた。この数日おばあちゃんはなにも食べ物が与えられてもらえず、孫の食事をとろうとしていた。 「子供は背負っても歩ける。しかし、年寄は背負うわけにはいかない」。そのことが歩いて三十八度線をこえるときに最大な問題になっていた。歩いて逃げるほかないという意向が日本人のなかにたかまっていたとき、男手がなく、年寄のいる家庭では深刻な問題になっていた。満州からの避難民には男が極端に少なかった。死んでしまった河村校長先生、お医者さん代わりになった辻村先生、それにロシヤ語の出来る渡辺さんほか数名だった。「姥捨て」が密かに実行されていた。体の弱いお年寄には食事があたえられず、餓死させることが二つ家庭で行われていた。
おばあちゃんと孫の女の子の喧嘩は悲惨だった。順ちゃんは「ぼく、おばあちゃんにあげようか」といったが小母さんは黙って首を横に振っていた。おばあちゃんは大喧嘩のあと二日ほどして死んでしまった。
明日、逃げ出すという夜、各所にあつまって日本人会長の大村さんが説明にきた。
「いいですか。いろいろ努力をしましたが、結局保安隊から許可は出ませんでした。私たちは勝手に逃げるのです。もし、保安隊やソ連兵につかまったら大村勇一が全責任をとります。大村勇一の命令でここを逃げ出したということにしてください」。
大村日本人会長の悲壮なあいさつだった。
八月三〇日、いよいよ逃げ出す日の朝がきた。
子どもの胸には名札がつけられた。帰るべき内地の住所だった。洋武の名札は 「長野県北佐久郡春日村四八二五番地林洋武」 と縫いつけたあった。晋司は 「戦争の時、兵隊さんは名札を身につけている。戦死したとき誰かわかるように体につけているんだ」 といった。子どもにとってはそれは迷子札でもあった。「迷子にならないように。迷子になったらおしまいよ」 と大人たちは子ども達に注意をした。
夜がまだ明けないころみんなルック一つを担いでアルミ製のなべや飯盒ややかんをもって動きだした。鉄製の釜などは重いので持たないようにという指示だった。時計というものがすでに日本人の集団の中になかった。多分午前三時ごろだったと思う。班が三つに分けられた。最初にスタートしたのは、栗本鐵工所の班だった。三〇分ぐらい置いて満州から避難して来た人達だった。
河村さん一家もお医者さんだった辻村先生たちも出かけていった。
最後がもともと順安にいた私たちだった。三つに分かれた班のなかでは一番多く百名近くになった。「子供には絶対に声を出させるな。泣き声は禁物だ」 くり返し強調された。
晋司はルックに大きな鍋をくくりつけた。和雄のルックにも、もう一つの鍋がくくりつけられた。ハナはやかんを手に持つといってみんなから反対されて典雄がルックにしばりつけた。
順ちゃん一家は、おばさんが大きなルックを背負いアルミの鍋と飯金をぶら下げていた。前には敷布で作った大きな肩掛けかばんをさげていた。小母さんは「ミッちゃんを背負うときには肩掛けかばんでないと荷物がもてない」 と二つに荷物を分けた。お姉さんたちもルックを背負って、順ちゃんが小さなルックを背負った光夫君を連れていた。「武ちゃん手伝ってね」 そういわれると洋武は自分のルックだけ背負っただけだったから順ちゃんにくらべれば身軽だった。光夫君はもう聞き分けは出来るようだったが、それでも大人たちの緊張が伝わるのか震えていた。今にも泣きそうだった。あっちゃんが 「ワァーワァー」 言い出した。「静かにしろ」 というするどい声がひびいた。いつも口を開いていたあっちゃんをお父さんが口を押さえたので苦しそうでかわいそうだった。順ちゃんと恵美子ちゃんが口に指をたてるとあっちゃんは不思議にだまった。隊列は順安駅から線路にそって北に向いて歩いていた。「三八度線は南にあるのじゃないのかなあ」と私がいうと 「黙ってついていらっしやい」 ハナがきつい調子で叱った。大人たちの緊張が子供にもひしひしと伝わってきた。そして昔のわが家のリンゴ畑のすそにそってぐるりと周り京義国道を横切ったところで小休止があった。朝の露で足元はぐつしやりとぬれていた。まだ薄暗かった。そこまで幸い朝鮮人や保安隊に見つかることはなかった。
「ここから山に入る。東に行く」とつたえられた。もう光夫ちゃんは歩けなかった。そして姉ちゃんが背負うことになった。順ちゃんがお姉ちゃんのルックを背負った。そして順ちゃんのルックを背中に光夫君を背負ったお姉ちゃんが前に両腕でかかえた。順ちゃんも重そうだった。でもお姉ちゃんはもっとたいへんだった。「お昼に少しの荷をわけようね」 とおばさんがいった。すでにいくつかの家族では持ちきれない荷物を捨てていた。
せまい山道にはいったころ夜は明けはじめていた。
「日本にかえれる。内地に帰れる」
そんなうれしさと遠足でも行けるような気持ちもあって、はじめは夜が明け始めた道をいそいでいた。大人たちは昨夜はほとんど寝ないで準備をしていたのだと思う。十時ぐらいになると大人たちがつぎつぎ休み始めた。「落伍したらそのままおいていきますよ」という声もあったが、やはりしばしば休まざるを得なかった。そのころになると朝鮮人にも会うようになったが、不思議そうに見るだけで問題はなにも起きなかった。お昼はみんな家族毎に集まって弁当を食べた。わが家は、ハナの作った粟が半分以上はいったおにぎりだったが、それはまわりの家族と比べても一番よかった弁当だった。おにぎりが握れないようなバラバラの豆かすなどおなべや飯盒をだして食べている家のほうが多かった。
その夜は、舎人里というところで泊まることになった。部落近くの川原で夕食が作られた。家族毎に石を積んで疲れた体でみんな薪を集めてきた。それからの逃避行の中で川原で野宿することが多かった。水が手じかにあることと川原の石で炊事のかまどがつきやすかったからだった。
わが家では、兄たちが薪と枯葉など集めてきた。火がすぐついたが、順ちゃんのところでは、お姉ちゃんたちの集めてきた薪の量も少なく火が簡単にはつかなかった。兄が集めてきた枯葉でやっと夕食の火がついた。なべや飯盒での炊飯だった。夕食と朝飯はどの家庭でも粟がゆやスイトンだった。「昼は炊事をする時間がありませんので、弁当をつくってください」という注意があった。
団長さんが部落の朝鮮人と交渉して病人と子供だけは夜露がかからないようにと軒先を貸してもらった。私たち一家は、空を見ながら星をみながらの川原の野宿だった。軍隊にいた晋司は野営の経験があってみんなにいろいろ教えていた。「朝方露が降りるのが激しいから顔になにかかぶせて寝るように」とみんなに教えていた。お年よりは敷布や風呂敷をかけて休んだ。洋武と由美は足を立て膝にして縛られた。そうして寝ると疲れがとれるという話があって兄たちが私と由美の足を縛った。この足縛りはこの夜だけだった。あまり役にたたなかったのかそれとも兄たちが面倒臭かったせいかわからない。洋武も由美も足を縛られ、帽子を顔に置いただけで休み始めた。疲れていた。誰もが疲れていた。そしてこれから何日も歩かないといけないと思うとはじめの遠足気分はなくなっていた。いま舎人里を地図でみると順安のちょうど東方になり直線距離で十数キロはあった。しかも、たいへんな山道だった。お年よりや子供も含む一日の行程としては相当の強行軍だった。
逃避行の準備と 「姥棄て」 の悲劇
八月になった。終戦になって一年たった。「もう一冬はこせない」多くの日本人が期せずして語りはじめた。その間も 「今度はかえれる。ソ連が汽車を出すことをみとめた」など噂が広がった。私たちは何度も 「今度こそ帰れる」 という言葉を聞いたがそのたびに裏切られた。
「三八度まで七〇里はある。歩いて逃げるかそれともここでみんな死んでしまうか」。その言葉に子供の私たちにも切実感があった。
大人たちは何度も会議を開いていたが、七〇里を歩いて逃げることになった。満州から歩いて逃げてきたお兄さんのようにあんなに歩けるのだろうか。順ちゃんちのように光夫ちゃんがまだ三つだけど七〇里も歩いて行けるのだろうか。そんな心配が心をよぎった。
歩いて逃げるのだから野宿する以外ない。ということは覚悟の上だった。会議の中では「二週間ぐらい分の食糧が必要」とか「持っていくものはどうするのか」とか話は具体性を帯びてきた。
子ども達もいままで「今度こそ帰られる」という言葉になんどもだまされてきたが、大人たちの動きはいつもと違っていた。
問題になったのは子どもとお年寄りだった。私たち一家と同じ舞台にいた日野さんの家は深刻だった。日野さん一家は満州から避難していたが、足の悪い七〇歳を超えたおばあちゃんと若いお母さんと八歳ぐらいの子供を頭にした三人でお父さんはいなかった。おばあちゃんが必死の形相で孫の食事を横取りしようとしていた。そのすさまじさに私もびっくりしていた。この数日おばあちゃんはなにも食べ物が与えられてもらえず、孫の食事をとろうとしていた。 「子供は背負っても歩ける。しかし、年寄は背負うわけにはいかない」。そのことが歩いて三十八度線をこえるときに最大な問題になっていた。歩いて逃げるほかないという意向が日本人のなかにたかまっていたとき、男手がなく、年寄のいる家庭では深刻な問題になっていた。満州からの避難民には男が極端に少なかった。死んでしまった河村校長先生、お医者さん代わりになった辻村先生、それにロシヤ語の出来る渡辺さんほか数名だった。「姥捨て」が密かに実行されていた。体の弱いお年寄には食事があたえられず、餓死させることが二つ家庭で行われていた。
おばあちゃんと孫の女の子の喧嘩は悲惨だった。順ちゃんは「ぼく、おばあちゃんにあげようか」といったが小母さんは黙って首を横に振っていた。おばあちゃんは大喧嘩のあと二日ほどして死んでしまった。
明日、逃げ出すという夜、各所にあつまって日本人会長の大村さんが説明にきた。
「いいですか。いろいろ努力をしましたが、結局保安隊から許可は出ませんでした。私たちは勝手に逃げるのです。もし、保安隊やソ連兵につかまったら大村勇一が全責任をとります。大村勇一の命令でここを逃げ出したということにしてください」。
大村日本人会長の悲壮なあいさつだった。
八月三〇日、いよいよ逃げ出す日の朝がきた。
子どもの胸には名札がつけられた。帰るべき内地の住所だった。洋武の名札は 「長野県北佐久郡春日村四八二五番地林洋武」 と縫いつけたあった。晋司は 「戦争の時、兵隊さんは名札を身につけている。戦死したとき誰かわかるように体につけているんだ」 といった。子どもにとってはそれは迷子札でもあった。「迷子にならないように。迷子になったらおしまいよ」 と大人たちは子ども達に注意をした。
夜がまだ明けないころみんなルック一つを担いでアルミ製のなべや飯盒ややかんをもって動きだした。鉄製の釜などは重いので持たないようにという指示だった。時計というものがすでに日本人の集団の中になかった。多分午前三時ごろだったと思う。班が三つに分けられた。最初にスタートしたのは、栗本鐵工所の班だった。三〇分ぐらい置いて満州から避難して来た人達だった。
河村さん一家もお医者さんだった辻村先生たちも出かけていった。
最後がもともと順安にいた私たちだった。三つに分かれた班のなかでは一番多く百名近くになった。「子供には絶対に声を出させるな。泣き声は禁物だ」 くり返し強調された。
晋司はルックに大きな鍋をくくりつけた。和雄のルックにも、もう一つの鍋がくくりつけられた。ハナはやかんを手に持つといってみんなから反対されて典雄がルックにしばりつけた。
順ちゃん一家は、おばさんが大きなルックを背負いアルミの鍋と飯金をぶら下げていた。前には敷布で作った大きな肩掛けかばんをさげていた。小母さんは「ミッちゃんを背負うときには肩掛けかばんでないと荷物がもてない」 と二つに荷物を分けた。お姉さんたちもルックを背負って、順ちゃんが小さなルックを背負った光夫君を連れていた。「武ちゃん手伝ってね」 そういわれると洋武は自分のルックだけ背負っただけだったから順ちゃんにくらべれば身軽だった。光夫君はもう聞き分けは出来るようだったが、それでも大人たちの緊張が伝わるのか震えていた。今にも泣きそうだった。あっちゃんが 「ワァーワァー」 言い出した。「静かにしろ」 というするどい声がひびいた。いつも口を開いていたあっちゃんをお父さんが口を押さえたので苦しそうでかわいそうだった。順ちゃんと恵美子ちゃんが口に指をたてるとあっちゃんは不思議にだまった。隊列は順安駅から線路にそって北に向いて歩いていた。「三八度線は南にあるのじゃないのかなあ」と私がいうと 「黙ってついていらっしやい」 ハナがきつい調子で叱った。大人たちの緊張が子供にもひしひしと伝わってきた。そして昔のわが家のリンゴ畑のすそにそってぐるりと周り京義国道を横切ったところで小休止があった。朝の露で足元はぐつしやりとぬれていた。まだ薄暗かった。そこまで幸い朝鮮人や保安隊に見つかることはなかった。
「ここから山に入る。東に行く」とつたえられた。もう光夫ちゃんは歩けなかった。そして姉ちゃんが背負うことになった。順ちゃんがお姉ちゃんのルックを背負った。そして順ちゃんのルックを背中に光夫君を背負ったお姉ちゃんが前に両腕でかかえた。順ちゃんも重そうだった。でもお姉ちゃんはもっとたいへんだった。「お昼に少しの荷をわけようね」 とおばさんがいった。すでにいくつかの家族では持ちきれない荷物を捨てていた。
せまい山道にはいったころ夜は明けはじめていた。
「日本にかえれる。内地に帰れる」
そんなうれしさと遠足でも行けるような気持ちもあって、はじめは夜が明け始めた道をいそいでいた。大人たちは昨夜はほとんど寝ないで準備をしていたのだと思う。十時ぐらいになると大人たちがつぎつぎ休み始めた。「落伍したらそのままおいていきますよ」という声もあったが、やはりしばしば休まざるを得なかった。そのころになると朝鮮人にも会うようになったが、不思議そうに見るだけで問題はなにも起きなかった。お昼はみんな家族毎に集まって弁当を食べた。わが家は、ハナの作った粟が半分以上はいったおにぎりだったが、それはまわりの家族と比べても一番よかった弁当だった。おにぎりが握れないようなバラバラの豆かすなどおなべや飯盒をだして食べている家のほうが多かった。
その夜は、舎人里というところで泊まることになった。部落近くの川原で夕食が作られた。家族毎に石を積んで疲れた体でみんな薪を集めてきた。それからの逃避行の中で川原で野宿することが多かった。水が手じかにあることと川原の石で炊事のかまどがつきやすかったからだった。
わが家では、兄たちが薪と枯葉など集めてきた。火がすぐついたが、順ちゃんのところでは、お姉ちゃんたちの集めてきた薪の量も少なく火が簡単にはつかなかった。兄が集めてきた枯葉でやっと夕食の火がついた。なべや飯盒での炊飯だった。夕食と朝飯はどの家庭でも粟がゆやスイトンだった。「昼は炊事をする時間がありませんので、弁当をつくってください」という注意があった。
団長さんが部落の朝鮮人と交渉して病人と子供だけは夜露がかからないようにと軒先を貸してもらった。私たち一家は、空を見ながら星をみながらの川原の野宿だった。軍隊にいた晋司は野営の経験があってみんなにいろいろ教えていた。「朝方露が降りるのが激しいから顔になにかかぶせて寝るように」とみんなに教えていた。お年よりは敷布や風呂敷をかけて休んだ。洋武と由美は足を立て膝にして縛られた。そうして寝ると疲れがとれるという話があって兄たちが私と由美の足を縛った。この足縛りはこの夜だけだった。あまり役にたたなかったのかそれとも兄たちが面倒臭かったせいかわからない。洋武も由美も足を縛られ、帽子を顔に置いただけで休み始めた。疲れていた。誰もが疲れていた。そしてこれから何日も歩かないといけないと思うとはじめの遠足気分はなくなっていた。いま舎人里を地図でみると順安のちょうど東方になり直線距離で十数キロはあった。しかも、たいへんな山道だった。お年よりや子供も含む一日の行程としては相当の強行軍だった。