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[No.15919]
Re: 西脇巽:石川啄木 東海歌の謎
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/13(Wed) 07:43
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> 著者は函館西高から弘前大学医学部を卒業した精神科医
> 「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の原風景はどれか。
この歌には特に場所は特定しないという説もある。
この歌は情景歌ではなく、象徴歌だとする説である。
この本には
野口雨情による修正というユニークな説を紹介している。
札幌時代に、啄木から元歌を聞いて、二点ほど直した方がいいと雨情がアドバイスしたというのである。
すなわち
東海の小島の磯の渚辺にわれ泣きぬれて蟹とあそべり
↓
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
「渚辺に」を「白砂に」、「あそべり」を「たはむる」に直した方がよくなると雨情は言ったという。
これは野口雨情の回りの人々にとっては常識である、雨情は生前によくこの話をしていたらしい。
この著者は、プライドの高い啄木が簡単に雨情のアドバイスを受け入れたであろうかと否定的である。
啄木の日記にはそれらしいことは書いていない。
しかし、考えてみると「一握の砂」の歌は東京でつくったとしても回想的であり、東京以前の長い間に少しずつつくっていったものや心にとめておいたものが少なくないのだから
札幌時代に啄木が雨情に少しばかりそういう歌を披露した可能性はないわけではない。
当時の雨情の詩人としての地位は啄木をはるかにこえるものであるから
あれは実は自分がコメントしたということを売名行為としてつかう必要もない。
もしかしたらあったことかもしれない、と述べている。
ちなみに、啄木は父のことを読んだ歌がある。
かなしきは我が父 今日も新聞を読み飽きて 庭に小蟻とあそべり
ここでは、「あそべり」という表現をつかっている。
啄木短歌の秘密を書いたあの大沢博先生も
この歌の「小島の磯の白砂」という矛盾を指摘している。
そもそも磯と砂浜は別のものである。特殊な場所では磯と砂浜が共存するという人もいるが。
詩人として、磯と砂浜の厳密な区別はしないで口調を整えるために、こういう書き方をしたのであろうか。
この本では、啄木は砂浜と磯を区別しなかったという説を紹介している。
啄木の盛岡中学五年生の「就学旅行日記」には
「日和山から望んで胸ををどらして海岸へゆくと、数里に亘る砂浜は、直接に、太平洋の荒波を受けて、砕け又くだくる壮大の姿。 自分はこの荒磯に立って、あかずあかず眺めた」
ここでは啄木は砂浜を荒磯と書いている。啄木は、砂浜と磯を同意語と思ってつかっている。
(石巻市役所に問い合わせた結果、長浜海岸は約四キロの砂浜海岸で岩場はまったくないという)
[No.15918]
西脇巽:石川啄木 東海歌の謎
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/13(Wed) 06:39
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著者は函館西高から弘前大学医学部を卒業した精神科医
啄木の歌はわかりやすい。
わかりやすいため、いろいろな解釈が可能である。
例として
宗次郎に
おかねが泣きて口説き居り
大根の花白きゆふぐれ
(解釈その一)
晩春のとある日の黄昏時、道ばた沿いの畑には大根の花が白々と咲いている。
この大根の花を背景として一組の若い男女が小声で囁き合っている。
女がなにやらかき口説きつつ泣いている。
(解釈その二)
啄木が代用教員をしていたとき、同僚に相当な酒好きで、酔って女房のおかねを困らせていた男がいた。
啄木はときどき二階の窓から覗いて微笑みをもらしていたという。
口説くという言葉は、東北では、こぼすという意味である。
宗次郎は飲んべえで家計の苦しいことも気にとめず、いささかの金が入れば酔っぱらって帰ってくることも少なくなかった。
そんなときに女房のおかねがたまりかねて外聞もなく大声でわめきたてていたという話がある。
飲む、打つ、買うの三拍子そろった自堕落者を回心させたということでおかねは有名になった。
おかねは宗次郎の三人目の妻で、つぎつぎと愛想をつかして出て行った先妻と同じように村人から同情されていたが、この歌が発表されてから宗次郎は急に心を入れ替えてまじめになったと言われている。
『まとめ』解釈一は若い恋人の切なさを歌ったもの、解釈二は夫婦喧嘩を歌ったもの
「一握の砂」は石川啄木の第一歌集。1910年 (明治43年) 12月に東雲堂書店より出した。
「一握の砂」には回想歌があまりにも多い。
東京でつくったことになっている歌の中には、回想してつくった歌が多い。
「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の原風景はどれか。
この本では諸説を紹介している。
函館市大森浜海岸説
大森浜海岸否定説(大森浜に蟹はいない)
大間岬弁天島説
八戸市蕪島説
岩手県三陸海岸説
東京の寺の蟹説(東京湾の近くの川辺には蟹がいる)
実は
私は「東海の」の原風景として、新提案をしたい。
それは、石巻である。
啄木は盛岡中学五年の時の修学旅行で、北上川を船で下り
石巻に行って海を見て感激している。
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15916&reno=no&oya=15916&mode=msgview
[No.15917]
今日は何の日・10月13日
投稿者:
投稿日:2010/10/13(Wed) 05:34
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みなさん、今日は
今日は何の日、10月13日
引越しの日
引越専門協同組合連合会関東ブロック会が1989(平成元)年に制定。
1868(明治元)年、明治天皇が京都御所から江戸城(現在の皇居)に入城された。
サツマイモの日
埼玉県川越市の市民グループ・川越いも友の会が制定。
10月はさつまいもの旬であり、江戸から川越までの距離が約13里なので、さつまいもが「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と言われていたことから。
麻酔の日
日本麻酔科学会が制定。
1804年、華岡青州が世界で初めて全身麻酔による乳癌手術を成功させた。
日蓮忌,御会式,御命講
日蓮宗の開祖・日蓮の1282(弘安5)年の忌日。
1950(昭和25)年 政府がGHQの承認を得て解除訴願中の10090人の公職追放解除を発表
1955(昭和30)年 左右両派に分裂していた社会党が統一し日本社会党に
1957(昭和32)年 三原山が噴火。死傷者55人
1994(平成6)年 大江健三郎のノーベル文学賞受賞が決定。日本人では8人目
今日の誕生日の花:サルビア,ヒゴロモソウ
花言葉:燃える思い、知恵
今日の一句:ちちははのそのちちははの秋祭り 山下知津子
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15916]
北上川物語
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 20:28
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仙台に本社のある河北新報社の本
北上川は昭和になってからも洪水で地域の人々を悩ませていた。
伊達政宗は、二十代の川村孫兵衛を長州から迎え
北上川改修工事をさせた。
なぜ、川村孫兵衛かというと、彼は当時南蛮人からすぐれた治水技術を学んでいたからという。そして、彼はキリシタンだったらしい。
伊達政宗も支倉常長をローマに派遣して西洋の文明を取り入れようとしていたから
キリシタンに対する警戒感はひとまずおいておいて、積極的に異文化交流派だったのだろう。
しかし、秀吉や家康はキリスト教を禁止する方向をとるので、伊達政宗もその方向に従わざるをえなくなり、帰国した支倉常長には悲惨な運命が待ち受けるのである。
この本で知ったことは、川村孫兵衛がキリシタンだったことと
もうひとつは盛岡中学五年生の石川啄木が修学旅行で、北上川をくだり石巻まで行ったことである。
そもそも、退学した啄木は中学五年生まで在学していたということを初めて知った。
啄木が書いたという記名はないが、当時の旅行記録が盛岡中学(現盛岡一高)に保管されていて、啄木日記などと比較した結果、ほぼ啄木が書いた修学旅行記であろうということになっている。
とすると
あの有名な「東海の」の短歌が、どこの場所をモチーフにしたかという議論が
また複雑になってくると思う。
[No.15915]
Re: 第2のBP事件
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 13:28
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> きょうの報道では、汚染はハンガリー一国に留まらず、ヨーロッパのかなりの地域に及びそうだ。
>
> 警報の出ている地域はオーストリア、スロバキア、クロアチア、ボスニア、セルビア、コソボ、ルーマニアなどをふくむ796000平方キロになるという。
唐辛子紋次郎さん
なにしろ ドナウ川は国際河川ですから。
中国も韓国もこの点では可能性があると思います。
もうすでに環境汚染をしていると思います。
そうして日本海汚染が進んでいきます。
公害などで先輩の日本は
この方面のノウハウは多いから
指導していけると思います。
[No.15914]
第2のBP事件
投稿者:
投稿日:2010/10/12(Tue) 13:19
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先日来、アメリカのメキシコ湾におけるBPの原油流出事件は世界中の注目を集めた。こんどは、ヨーロッパはハンガリーのアルミニューム工場による、有毒な赤い汚泥流出事故が起こり、またまたこれも大規模な人災事件だ。
こうなると、ことしの年末にやる一年の締めくくりの漢字は、あっしの見るところでは、どうやら「粘」か「汚」になりそうだ。
きょうの報道では、汚染はハンガリー一国に留まらず、ヨーロッパのかなりの地域に及びそうだ。
警報の出ている地域はオーストリア、スロバキア、クロアチア、ボスニア、セルビア、コソボ、ルーマニアなどをふくむ796000平方キロになるという。
BPのケースのように、長期化しないことを切に祈るばかりである。
[No.15913]
Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 10:55
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> > 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
西條八十は映画「愛染かつらが」の主題曲を、作家川口の意志だからといって
どうしても西條八十につくってもらいたいと軽井沢まで頼みに来る。
それも明日までにというから大変。
ともかく食事をしようということになり
軽井沢まで来たコロンビアのディレクターの山内と、鶏肉や山菜を焼く料理を食べた。
酒を飲んだのがまずかった。西條が気がついたのは朝だった。
山内に詩を渡すまでに2時間もない。
そこで苦肉の策を思いついた。
佐藤惣之助の作詞法である。
歌詞の特徴はあくまでも自由闊達、内容に細かい神経をつかわず、ナンセンスと思われることでも勢いで書き抜いてしまう。
たとえば「青い背広」には、「紅い椿で 瞳もぬれる」とか、「涙ぐみつつ 朗かに唄う 愛と恋との 一夜の哀歌」なとどいう意味不明の歌詞もある。
曲を付けた古賀が「作曲しながら珍妙な歌だと思いましたよ」と言っていたが、それでもヒットするのだから、大衆の心を捉える魅力があるのだろう。
「旅の夜風」
花も嵐も 踏み越えて
行くが男の 生きる途
泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
月の比叡を 独り行く
ほろほろ鳥は、高野山に因んだ琵琶歌「石童丸」に「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞおもう母かとぞおもう」という和歌があったのを思い出した。
この山鳥の歌は、中学校唱歌で行基作とされていた。
「青い山脈」の歌詞で「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く」という一節がある。
これはナンセンスだという人もいるが、歌う人はそんなことを気にしていないようだ。
西條は「軍国主義は雪崩のように消えた」という意味をこめて、この作詞を作ったという。
「青い山脈」の作者石坂洋次郎は小説「若い人」で軍部からにらまれ、戦後にやっとのびのびと小説を書けるようになる。
若い人の舞台は函館になっているが、本当は石坂は自分が教師をした横手の女学校を舞台にしたかったのだが、地元に迷惑がかかることをおそれて小説の舞台を横手にしなかったと後で述べている。
西條にしても、自分の作詞をしめつけていた軍部が消えてしまったことを喜んでいたのだろう。
[No.15912]
Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 10:29
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> 吉川潮:流行歌(はやりうた) 西條八十物語
西條八十が昭和3年に、童謡雑誌「コドモノクニ」から
正月にふさわしい子どもの歌を頼まれて
「毬と殿さま」を書いた。
出だしを「てんてんてまり」としたら
中山晋平が「それでは調子がよくないので、てんてんてんまりとしたい」と主張した。
また、垣根を越えての後の「路地抜けて」を「屋根越えて」のほうが調子がよくなるといってきかない。
さすがに八十も反論した。
「昔の手毬は今のゴム毬みたいに弾みませんから、垣根は越えても屋根は越えません。路地抜けてのほうが理に適っています」
「いや、たとえそうであっても、『垣根を越えて屋根越えて』としたほうが調子よくて歌いやすいのです」
作曲者にそう主張されては変えざるをえない。
「鞠と殿さま」
てんてんてんまり てん手鞠
てんてん手鞠の 手がそれて
どこから どこまで飛んでった
垣根をこえて 屋根こえて
おもての通りへとんでった とんでった
この曲がヒットしたものだから、さすが中山晋平はヒット曲を作る名人だと八十も感心した。
八十は弟子の佐伯と門田にこう言った。
「こんどの童謡では、晋平さんから大事なことを学んだよ。それは、歌詞のつじつまが合わなくとも、曲に乗るような歌詞ならば、結果的には良い歌になるということだ」
「それは歌いやすさを最優先するということでしょうか」
「まあ、そうとも言えるだろうね。僕が中学時代、雨情さんの詩集を読んだ時も同じようなことを感じた。詩の重心を言葉の響きに置いて、読んだ時の調子を良くするためには詩の内容さえも犠牲にしてしまうんだ。雨情さんにはその大胆さがあったから、あれほどの名作童謡が書けたのだろう。大衆歌も同じことだ」
この教訓は後年、二人が流行歌の作詞をする上で大いに役立つことになる。
野口雨情でさえも、中山晋平から注文され、詩を変えてしまう。そういうことが何度かあったという。わがままともいえる中山晋平の注文、しかし、できた歌がみなヒットしたから、結果良ければすべて良しとなってしまった。
マンガも写実的なマンガもあるが、そのままではなく誇張したり省略したりして
読者に訴えやすいメッセージを絵で伝えるものである。
時には論理がとんでしまうマンガもある。
[No.15911]
藤沢周平が描ききれなかった歴史
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 09:57
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> この藤沢周平の「義民が駆ける」を読むきっかけとなった本があるのだが
> その本については後日紹介することにして
> ここでは、「義民が駆ける」のあらすじを書いておきます。
青木美智男:藤沢周平が描ききれなかった歴史 「義民が駆ける」を読む 柏書房
著者は日本福祉大学教授、専修大学教授をつとめた日本近代史の研究者
以下には荘内藩を庄内藩としているので、それを尊重する。
「時代小説」と「歴史小説」はちがう。
藤沢周平は「歴史小説」に特別な思いをこめてきた。史実をどう読むかということについて非常に厳密である。
藤沢周平は八作ほどの歴史小説を書いている。作品数が意外に少ないのは、それだけ史実を忠実に扱ったことの証である。
この本では、藤沢周平の「歴史小説」に焦点をあてて、藤沢作品を読み直している。
ありもしないことを書き綴っていると、たまに本当にあったことを書きたくなる。この本には、概ねそうした小説をおさめている。
しかし本当にあったことと言っても、こうした小説が、歴史的事実を叙述しているわけではない。歴史的事実とされていることを材料に、あるいは下敷きにした小説という意味である。だからこれは、べつに歴史小説と呼んで頂かなくともいいのである。
あったことを書きたくなるというのは、私の場合、一種の生理的要求のようなもので、ありもしないこと、つまり虚構を軽くみたり、また事実にもとづいた小説を重くみたりする気持ちがあるわけではない。片方は絵そらごとを構えて人間を探り、片方は事実をたよりに人間を探るという、方法の違いがあるだけで、どちらも小説であることに変わりはないと考える。
(藤沢周平、逆軍の旗)
「義民が駆ける」のあらすじ
庄内地方において、1840年11月から1841年7月にかけて起こった一揆、それを領民、藩、幕府関係者らの動きと意識をからみあわせながら重層的に書いた作品。
老中水野忠邦が徳川家斉から、川越藩の窮乏を救うために庄内藩へ転封させる一件を持ち出される。忠邦は、長岡藩を加えた、三方国替えを提案し、家斉の了解を得てから、老中たちを強引に納得させてしまう。
川越藩(15万石)→庄内藩(14万石) 庄内藩(14万石)→長岡藩(7万石) 長岡藩(7万石)→川越藩(15万石)
庄内藩を長岡藩へ転封する理由として「酒田港の取締り不行き届き」をあげた。
実は10年前に、酒田港視閲を行った後、庄内藩主酒井忠器らは本間光暉の別荘で豪遊したとされ、それが幕閣で問題となったのだった。酒宴あり、花火あり、土産の黄白が財政の厳しい江戸幕府にとってはゆゆしきことだったのだろうか。
庄内藩主は転封を撤回させるべく工作費用を豪商本間に依頼する。
一方、領民は新領主となる川越藩主が過酷な収奪をすると予測し藩主引き留め工作を開始。
結局、川越藩二万石加増で三方国替え中止となる。川越藩は17万石となった。
三方国替えの真の狙い
川越藩主救済のほかに、水野には、長岡藩の「抜荷事件」の密貿易を知って、儲かる新潟港の幕府管理の企みがあったから。この際、酒田港も幕府管理としたかった。
のちに新潟港は幕府管理となったが、酒田港はならなかった。
著者は外国船対策の国防のためだというが、単に港の利益が欲しかったのではないだろうか。
水野忠邦の時代は
異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減し
放漫な財政危機におちいった幕府体制をなんとかしなくてはならなかった。
水野忠邦としては努力はしたのであろうが
彼が抜擢した部下たち、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川六蔵、後藤三右衛門から裏切られたかっこうで失脚してしまう。
この「義民が駆ける」の中でも、庄内藩の転封阻止の百姓の直訴には背後に庄内藩や工作費用で動いた豪商本間などがあるはずで、それを奉行所に取り調べさせることにして、水野は遠山ではなく、わざと自分の意思をおもんばかるはずの南町奉行所の矢部にその役を当てるが、結果的には水野を裏切って、庄内藩の百姓騒ぎには咎められるべきものはなかったという報告をする。
腹心の鳥居耀蔵にしても
朱子学出身ため蘭学嫌いで、蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧したことを考えても
対外政策も国内政策が後から見ると誤っていたといえるだろう。
したがって、水野忠邦が海防政策に関心をもっていたとしても、蘭学者などの知識人の意見を取り入れるどころか抹殺したのであり、港湾を単に幕府の財源と考えていたのではないかと思われるのである。
厳しい天保の改革は反対者が多くて失脚した水野忠邦は、家督を長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた。 (老中の時の水野は7万石の浜松藩主であった)
まもなく出羽国山形藩(5万石)に懲罰的転封を命じられた。
なお、この転封に際して領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたために領民が怒り大一揆を起こした。
[No.15910]
Re: 吉川潮:流行歌 西條八十物語
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/12(Tue) 06:49
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Toshichan ありがとうございます
> 西條は、詩が高尚で歌謡曲が低級だなどとは考えていなかった。
>
> > 彼の弟子にはサトウハチロー、佐伯孝夫、門田ゆたか、丘灯至夫などがいる。
>
> そういえば、私どもの年配の人が、「詩が奇麗」という唄は、
> この辺りの方の、唄が多いですねー。
> 聴いていて、疲れないそうです。
よく考えて作っているから
作詞として完成度が高いと思います。
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