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[No.15806]
休感日をつくろう
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/25(Sat) 07:17
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> 藤子不二雄Aの人生
休感日をつくろう
肩こりになやまされる著者は
肩こりの原因は肉体的な疲労からくるものではなく
神経的な疲れからくるものらしいと気がつく。
肉体的な疲労からくる肩こりは、風呂にでもユックリつかれば簡単にとれてしまうが
神経的な疲れからくる肩こりは粘着的にこびりついてなかなかとれない。
そんなときに休感日をつくるのだ。
休感日には、なーんにもしない。なーんにも考えない。
その日は、朝から、なーんにもしない、なーんにも考えないときめるのだ。
もちろんいっさいのスケデュールはたてない。
朝起きたら、いきあたりばったり、気の向くまま.....という感じですごすのだ。
できることなら休感日は突発的につくることが望ましい。
(今度の日曜日を休感日になどと予定をたてると、それはスケデュールに組み込まれ、本当の意味の休感日にはならない)
サラリーマンなら家でゴロゴロしていると家族が心配するから
会社へ出勤するように、いつもと同じ時刻に家を出て、会社とまったく別方に行ったほうがいい。
以上は体験から「休感日」を提案し実行する著者の話でした。これは役に立ちそう。
氷見のお寺の息子が父の急死のため高岡に引越しして、小学校の同じクラスの藤本弘と一ヶ月だけ一緒だったが、また転校した著者は、しかし藤本との友情を一生続けることになる。
高校を卒業して叔父のコネで入った新聞社、楽しくて仕方がないのに、藤本から一緒に漫画家になろうと誘われ退職し、二年後には上京してしまう。
怒った伯父はまもなく社長になったが、二年後に親会社の社長と意見が合わず新聞社をやめてしまう。
あのまま新聞社にいたら、元社長のおいは居心地がよくなかったであろう。
新聞社をやめて漫画家になれたことを藤本に感謝する著者。
藤本は早寝早起き、仕事の予定もきちんとたてた。
著者は気分しだいで、気がのると机に向かいそのまま夜中まで仕事するが、気が向かないと日中寝ていたり外に遊びに出たりする。
藤本は人に会うのが好きでない。
自分がえらんだ相手とは最小限つきあうが、それ以外の人とつき合うのは避けた。
若い時から自分の世界をはっきり持っていたので、ヘンな相手とつきあってそこへ乱入されるのをいやがった。
トキワ荘に若い漫画家が多く住んでいるというので、漫画家志望の少年や新人漫画家たちが訪ねてきたが、藤本はほとんど会わない。会うのは安孫子のほうで、そのため藤子不二雄は二人というが、ほんとは一人じゃないかと言われたこともある。
[No.15805]
藤子不二雄Aの人生
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/25(Sat) 07:12
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藤子不二雄Aの人生
藤子不二雄Aの本 講談社
(AはマルAだが文字がJISにない)
昭和二十九年六月に二十歳で高岡から
漫画家をめざして上京し
幸運なデビューをした藤子不二雄は
その年の大晦日に故郷へ帰ったとき
連載六本と別冊一本をかかえていた。
疲れたのだろう、高岡に帰ると全く描けなくなった。
二人(藤子不二雄は藤本弘と安孫子素雄の共作ペンネーム)とも描けない状態のところに
「ゲンコウ シキュウ オクレタシ」という電報が届く。
そのうち「ゲンコウ オクルニ オヨバズ」となり、それっきりとなった。
連載のうち二本はなんとか間に合わせたが、あとはすべてオトシてしまい
二月になって上京して雑誌社に頼んでも相手にされなかった。
残った二本の連載を細々と続けているうち、半年もたって
ぼつぼつ注文が入るようになった。
次のピンチは今から十六年前(1986)にワイフが脳内出血で倒れたときだった。
それまで元気だったワイフが大晦日の朝、突然バタッーと倒れた。
救急車で新宿の病院に入院、幸運だったのは大晦日なのに脳外科の医師がいたことだった。
一週間たっても意識不明、半月後にようやく救急治療室を出て一般の病室に戻ったが、左半身不随で失語症になった(珍しいケースで、言語中枢が右脳にあった)。
リハビリの結果、左手は動かないが、右手だけで料理もできるし、会話もできるようになった。
ワイフが倒れて二年後、四十年以上続いてきた藤本弘と別れて独立することになる。
二人の合作は「オバケのQ太郎」が最後で
「ドラえもん」や「パーマン」は藤本弘
「忍者ハットリくん」や「怪物くん」は安孫子素雄
長い間それで続けてきたが、五十歳をすぎたころからお互いの作風、画風が顕著にわかれるようになってきた。
お互い漫画家としてそろそろ打ち上げに近づいてきているし、ここらで二人別々になって好きなようにしようじゃないかということになった。
昭和六十三年一月二十五日、全日空ホテルで藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aの独立記念パーティを行って二人は別れた。
独立記念に「週刊少年マガジン」に連載した漫画「少年時代」の映画を制作した。
漫画「少年時代」は芥川賞作家柏原兵三の長編小説「長い道」が原作で、戦時中富山の農村に疎開した東京の少年と地元の級長との奇妙な愛憎の物語である。
人生いいことばかりつづくことはないし、悪いことばかりつづくものでもない。
悪いことがあったら、それはいいことが起こる前ぶれだと思えばいい。
[No.15804]
今日は何の日・9月25日
投稿者:
投稿日:2010/09/25(Sat) 05:39
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みなさん、今日は
今日は何の日、9月25日
10円カレーの日
1983(昭和58)年から、日比谷公園の中にあるレストラン「松本楼」では、この日に、普段は700円のカレーを10円以上募金した人に提供している。
1973(昭和48)年のこの日、1971(昭和46)年の焼失以来2年ぶりに再建したのを記念したもので、この日は「10円カレーの日」という愛称で親しまれている。売上げはすべて交通遺児育英基金に寄附している。
藤ノ木古墳記念日
1985(昭和60)年、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等が発堀された。藤ノ木古墳は直径約48m、高さ約9mの円墳で、古墳時代後期の6世紀後半に作られたものと考えられている。
1985(昭和60)年に第1次調査、1988(昭和63)年6月に国内の発掘調査史上初めてファイバースコープを使った石棺の内部調査が行われ、その年の10月8日に1400年ぶりに石棺の蓋が開かれた。
未盗掘で埋葬当時の姿がほぼそのまま残っており、当時の埋葬儀礼を解明する上で貴重な資料を提供した。
1936(昭和11)年、巨人の沢村栄治投手が日本プロ野球初のノーヒット・ノーランを達成 した。
沢村選手は昭和19年戦死した。
1966(昭和41)年、インドネール首相から寄贈された、象のインデイラが上野動物園で公開されました。
1966(昭和41)年 熊本県の天草五橋が開通
今日の誕生日の花:オトコエシ(男郎花)
花言葉:野生味
今日の一句:物いへば唇寒し秋の風 芭蕉
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
KAME(亀井)
[No.15803]
会員の作品ページ、川柳の更新
投稿者:
投稿日:2010/09/24(Fri) 11:18
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みなさん、今日は
会員の作品ページ、川柳の更新しました。
http://fmellow.s103.xrea.com/senryu/senryuda.htm
9月題詠川柳「独」収録しました。
ご覧下さい。
[No.15802]
進藤やす子:マンガ美術館&スポットガイド
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/24(Fri) 06:31
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進藤やす子は独特なキャラクターを描くイラストレーター
http://park2.wakwak.com/~yasuko86/
この本では15のマンガ美術館をあつかっている。
中には福島県小野町のリカちゃんキャッスルもある。
三鷹の森ジブリ美術館も入っているが
他はみな漫画家にまつわるものである。
矢口高雄の横手市増田まんが美術館
秋田県横手市にあり、この夏に行ってきた。
青梅赤塚不二夫会館
この本で知ったので、数年前の春に青梅の映画看板を見ながら行ったものでした。
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Oumeshi/Retro/Retro.htm
昭和幻燈館で十日町の雁木のジオラマを見てから新潟県の雁木の旅が始まったわけです。
長谷川町子美術館
これはかなり前に見に行ったことがある。
田川水疱・のらくろ館
数年前の芭蕉記念館見学とセット、そのあとのカラオケ(安房守さん)少しだけ参加もありました。
宝塚市立手塚治虫記念館や鳥取県境港市の水木しげる記念館や高知県香美市のアンパンマンミュージアムはあまりにも遠いので
その近くを旅行した時でないと無理。
これからでも比較的行けそうなのは
宮城県石巻市の石ノ森萬画館
宮城県登米市の石ノ森章太郎ふるさと記念館
東京都調布市の鬼太郎茶屋(深大寺)
この本は何度読んでも楽しい本。
[No.15801]
今日は何の日・9月24日
投稿者:
投稿日:2010/09/24(Fri) 05:35
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みなさん、今日は
今日は何の日、9月24日
清掃の日
環境省が実施(2000年までは厚生省)。
1971(昭和46)年、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法,廃掃法)が施行された。
環境衛生週間 9月24日〜10月1日
みどりの窓口記念日
1965(昭和40)年、国鉄(現在のJR)の全国約150の駅に、コンピュータを使った指定券発売窓口「みどりの窓口」が設置された。
畳の日
全国畳産業振興会が制定。
い草の緑色から「みどりの日」の4月29日と、「環境衛生週間」の始りの日であり「清掃の日」である9月24日。
南洲忌
西郷隆盛の1877(明治10)年の忌日。
1949(昭和24)年 インドのネール首相から贈られた象・インディラが上野動物園に到着
1952(昭和27)年明神礁での噴火を観測中の海上保安庁の測量船が噴火に巻き込まれ、31名全員死亡
1973(昭和48)年 小沢征爾がボストン交響楽団の常任指揮者に就任し初コンサート
2000(平成12年)高橋尚子がボストンマラソンで優勝した。
今日の誕生日の花:シラヤマギク
花言葉:丈夫
今日の一句:落鮎の落ちゆく先に都あり 鈴木鷹夫
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15800]
Re: ぴんぴんころりでいきましょう
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/23(Thu) 21:53
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> > 女流講談師田辺鶴栄の本
> > 自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。
>
> オムニバス形式で、何人かのおかしいケースを紹介しています。
北海道の十勝の牧場にお嫁に行ったヤマトさん
朝は暗いうちから起きて、家族の食事洗濯はもちろん、牛小屋の世話、身を粉にして働き、六人の子どもをもうけて育てた。
さあこれから楽な老後をと考えていた矢先、夫が亡くなってしまった。
子どもは誰一人後を継ぐものはいない。
しかたがないから牧場を売ったら、一千五百万円のお金が手に入った。これで、高級有料老人ホームに入ろうと思ったが、最低でも一億円かかる。
そこに証券会社の社員が勧誘に来る。「株を買えば楽して儲かりますよ」
「一千五百万円あるけれど、一億円にはならないでしょ」「そうですね。あともう少々サラ金から借りてもらえれば一億円も夢じゃありません」
だが、バブルの崩壊で全財産を失った上、サラ金からも矢のような催促。
六人の子どもたちは借金まみれの母親をたらい回しにする。
すっかり落ち込んだヤマトさん、月日のたつのは早いもの、時は西暦2000年、日本にも介護保険が導入された。
さっそく行政の窓口に行ったヤマトさん、四十歳以上の方はみんな介護保険に入っていると聞いて安心。
申請手続きは介護認定調査員がすると教えてもらい、一週間後にようやく介護認定調査員が来る。
「今日は一日何をしていましたか」「はい、あなたがいらっしゃるというので、あんまり家の中がきたなかったもので、このへんだけちょっと片づけました」「あら、お掃除をされてましたか。自立されてますねえ。夜眠れないとか、昼夜の逆転はありますか」「眠れないときは、おちょこ一杯お酒をいただくと、ぐっすり眠れます」
「ボタンは自分でかけられますか」....というようなやりとりがあって、結局ヤマトさんは介護は認定されませんでした。「おめでとうございます。この調子で頑張ってください」という審査結果を受け取った。
驚くヤマトさん、ではもう介護保険料は払わなくていいのかと聞くと、これが違うんですね。「あなたより悪い人がいっぱいいるんです。介護保険というものは、みんなで支え合うんです。大変な方をボランティアしてあげるつもりで、もっと太っ腹になってください」と言われ
ああ国に裏切られた、死んでやろうと思い、故郷の四国に帰ってきて、ダムの堤防から身投げしようとした。
講談なので、たいていこういうときは誰かが助けてくれる。
ヤマトさんも飛び込むところを止められる。
その人から介護の詳しいことを教えてもらう。
全国の自治体によって多少違うが、「要支援」の人は約六万円のサービスが受けられる。六万円のサービスであって、六万円もらえるわけじゃない。デイサービスとかヘルパーさんが週一、二回来てくれる。でも、一割負担だから、六千円ほど自腹がある。
「要介護5」の人は三十五万円ほどのサービスが受けられる。そこで、特別養護老人ホームに入ったとしましょう。で、一割負担だから、三万五千円払う。しかしこれからは食事代も自腹、雑費も自腹。毎月五万円はかかる。だから毎月五万円払える人じゃないと「要介護5」は受けられない。
たとえばじゃあその人、一万円分の負担となると、当然十万円までのサービスしか受けられないことになるのね。介護保険も導入されたばっかりだから、不備が多いのは当たり前なんだけどね。それに最近困ったことが起きて、重態のふりをする人があとを立たないのよ。
さあ、いこことを聞いたとばかり、ヤマトさんは「不服申し立て」をして「私はこんなに大変でーす」と演技して重態のふりをした。
「お年は」「たぶん五十、歳だったかしら、九十八だったかしら」「あらあ、痴呆ぎみかしら、その手は胸元まで上がるの?」「う、うー」
おむつまで見せたので、老人病院に入れられた。
老人病院には、いい老人病院と、悪い老人病院があり、ヤマトさんは悪い方に入れられた。
「要介護5」をねらったので、食事も喉を通らない、鼻に管を入れられる。
「あら、苦しそう。何だか管が全然入っていかないし、どうしようかしら。介護保険が導入される前は、反応のないお年寄りばっかりでやりやすかったんだけど、介護保険が導入されてから、何か反応のいいお年寄りばっかりで。どうしようかしら」
「あんたね、そんなの遠慮してちゃいけないのよ。顔なんか見なくていいの。気合いでやんなさい。気合いで。私がお手本見せてやるから見ててごらんなさい」
ほうほうのていで、この病院を出たヤマトさん、あのアドバイスしてくれた人に報告する。「実はこれこれこうで」「アハハハ、あなた重態のふりなんかするから、バチがあたったのよ」「本当にバチがあたった」「でも前より元気そうよ。いろいろ刺激になったんじゃないの」
「もう、刺激になって、刺激になってね。私、将来自分が、老後入るかもしれない施設のことなんて、まったく興味なかったの。徘徊するお年寄りが縛られてたりとか、人間の尊厳も何もないの。あれじゃ施設じゃない。収容所か、刑務所。あれじゃ福祉じゃない。あんまりだわ、あんなの」
このあと関係者の苦労とか、問題点がいろいろ述べられているが省略します。
はっきり言って、介護保険はお金のある人は寝たきりだって呆けたって、どんどんなってもいいの。でもお金のない人、貯金のない人、年金も少ない人は、これからは狭き門よ。生活保護を受けている人には、減免措置があるけれど、みんながそれだって安心したら、税金がいくらあってもキリがない。若い人たちの肩にどっしりと負担がのしかかるんです。だからこれからは自助努力しなきゃいけない。
もう、あなたに待っているのは「ぴんぴんころり」。ね、この道しかないわよ。
ということで、この本の題名がつけられたらしい。
日本は先進国ドイツの真似をして介護保険をはじめたが、この制度が日本の文化や習慣に落ち着くまでには時間がかかることでしょう。
人ごとではありませんね。
[No.15799]
Re: ぴんぴんころりでいきましょう
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/23(Thu) 17:03
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> 女流講談師田辺鶴栄の本
> 自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。
オムニバス形式で、何人かのおかしいケースを紹介しています。
山形のサクランボ農家に生まれたさくらさんのケース
ミス・ダダチャ豆にも選ばれた美人だった。ピアニストになりたくて芸大に行きたかったが、「女の子は女らしく、一流の大学を出て、一流の人のお嫁さんになりなさい」と両親に言われ、二十三歳の時、一流大学を出た銀行員と見合いをした。
背広はアルマーニ、時計はローレックス、身長180センチ、「これなら、ま、いいか」と結婚。
新婚旅行で行ったローマのコロシウムではコンサートが開かれていた。感激したさくらさんは目を輝かせて新郎を引っ張っていった。ところが、会場では夫はずっといびきをかいていた。食事に行くと、スパゲッティを音を立てて食べる。
帰国してすぐ実家に帰ったさくらさん「もう、ダイッキライ、離婚するわ」
だが、これから女一人で生きていくのは大変、跡継ぎの長男夫婦はいるから、今さら帰ってきても困ると両親に言われ、山形まで迎えにきてくれた新夫とともに東京に帰った。
それから妊娠したのを知り、産まれてくる子どもは一流の音楽家に育てようと決心する。
生まれた娘には、幼いうちから無理に頼んで芸大教授のところに通わせる。
親に頼んでは実家の田畑を売って、名器ストラディバリウスを手に入れ、娘に稽古稽古をしいて晴れて芸大合格となる。娘は幸運にも芸大を首席で卒業して、ウィーンに留学した。
しかし、言葉のよくできない異国での寂しさから日本人男性と同棲をする。
このことを耳にした母さくらは、とるものもとりあえずウィーンに飛んできた。
男はウィーンで洋菓子の勉強にきていた。
「お母さんは、菓子職人になるような男と一緒にさせるために、あなたを産んだわけじゃないのよ。あなたが一流の音楽家になることが、お母さんの夢だったのよ。こんな男と別れてちょうだい」
「お母さん、私、昔っからいやだったの。なんで、私がお母さんの果たせなかった夢を追わなければならないの。なんで私が犠牲にならなくちゃいけないの。彼はとても優しいの。私は彼とでなければ生きていられない。結婚します」
娘は妊娠しているから絶対結婚すると頑張って、すっかり傷ついたさくらさんは帰国したら酒におぼれるようになった。
悲しい荒れた生活をしたせいか、さくらさんはそれから胃ガンが見つかり手術をする。
それまで単身赴任だった夫は、出世をあきらめて東京に戻り妻の見舞いに通うようになる。
そして、夫は妻に必ず治るのだから、あせらずに治そうという。治ったら夫のふるさとの静岡の山に連れていきたいと言う。
それから三日後、夫からハガキが届いた。「○○山は子どもの頃と全然変わっていない。だがボタンの花の咲く○○谷は一面伐採されていた。これから、ボタンの咲く険しい谷の奥に行ってみるつもりだ」
それからしばらくして静岡県警から電話があった。夫が崖から転落して死亡したというのだった。
死んでしまって夫のやさしさに気がついた妻さくらは泣き続けた。
ケンカ別れして音信不通だった娘が帰国した。「男の子が産まれたの。お父さんが一郎と名付けてくれたの。お母さんに内緒で留学中ずいぶん私たちを支援してくれたの。赤ちゃんは彼が面倒を見てるわ」
娘は父の遺影に向かって涙を流しながらモーツアルトのレクイエムを弾いた。
それからのさくらさんは生きる元気が出て、バイオリンを稽古して、検査の結果ガン細胞は小さくなって、一年後にはコンサートも夢ではなくなったという。
[No.15798]
ぴんぴんころりでいきましょう
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/23(Thu) 08:53
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女流講談師田辺鶴栄の本
自分の介護体験から、介護で苦しむ人たちの応援の本を書いた。
函館に生まれた一人娘の著者は東京で予備校に通う時、母親が札幌の大学病院の脳外科に入院したので札幌に行く。
脳腫瘍と診断されたのだが手術をすると脳動脈瘤だった。
それから四年間植物人間となった母親を世話した。
こんな娘時代をおくった人も珍しい。
母の生命保険が六十万円残ったので、それでインド旅行をする。
インドで両手両足のない人が乞食となって観光客の通り道に置かれている。
観光客からお布施をいただいたその人は、夜になると仲間が家に連れて帰る。
その人の顔は笑顔がさわやかで不幸そうな顔をしていないので、著者は驚く。
ある母子は、母が五歳くらいの子どもの首に縄をつけて猿回しのようにしている。
この子には両手がない。母親かわざと両手を切り落としたらしい。
いっぱい布施がもらえるように、ほかの乞食と差をつけるためそうしたらしい。
インドから帰ってどうしたかそれは書いていないが
ともかく著者は結婚して、ひとり娘の幼稚園の送り迎えをしているとき
義母が倒れてしまう。
なんで私だけ、こんなに、二回も下の世話しなきゃいけないんだとふてくされた著者。
しかし、悪く思われたくないから(人間ミエもある)、必死になって義母の世話をした。
春にせかして車いすで連れ出して近所の桜を見せた。一方的にまくしたてる著者に、義母はなかなか返事をしない。
ぽつりぽつりと「あのとき病院で死んでいたら、あんたにもみんなにも迷惑かけなかったね。生きていてすまなかったねぇ。おーう」と号泣きされる。
義母はだんだん口数が少なくなり食事も減っていく。
とうとう著者はヒステリーを起こしたのでした。
そこで、夫も義父も「そんなに大変だったのか、わからなかった」と反省した。
義母は夫の勝手さにあいそをつかし、嫁のこの著者に「あんな気持ちのない人と一緒の墓にだけは入りたくないから。私の遺言はそれだけだから頼むね」と言う。
著者のヒステリー以来、義父も病院の送り迎えや、痛い背中のマッサージなどするようになる。
やさしくなった義父を見て「おばあちゃん、離婚しなくてよかったね」と言うと、「冗談じゃないわよ、このぐらいのことしてくれって。私が嫁に来て四十五年、どんな思いで、どんな苦労をしてきたか、このぐらいのことしてもらったって、あたり前だからね、今までの恨みつらみなんて水に流せるもんですか」と義母は言い返した。
それでも三年後に死ぬ時は、義母は義父に感謝の言葉を残してこの世を去った。
それから三年たって義父は再婚した。高齢者の見合いの会に入って三十三回目に会った六十の女性と再婚した。
女の目からすると義父の新しいパートナーには問題がないわけではないが
義父が喜んでいるからまあいいか。
死んでしまって思うのは義母のこと。
義母から「ちょっと」と言われても
「何? 何か用? もう、黙ってたらわかんないじゃない。用がないんなら呼ばないでよ」という具合だった。
本当は義母は誰かと話がしたかったのだ。元気で外に出て行っていろいろ旅行とかできるお年寄りはいい。でも家に閉じこもりがちになる人とか、病気のお年寄りには話し相手が一番必要で、話し相手がいれば老化が遅くなる。話し相手がいないと鬱になったりする。ところが家族はなかなか話し相手をするゆとりがない。
著者の場合でも、義母との間に感情のしがらみがあり、なかなかよい義母だったが、何年何月にこういうことを言われた、こういう顔をされた、などしっかり覚えている。
そして義母の方は、もう親切にしたことしか覚えていないのだ。そこらへんに嫁姑のむつかしさもある。
家族の特定の者だけが、上手に、または気持ちよく介護を続けるのはむずかしい。
嫁や妻はタダであたり前と思われてしまうと、負担はそれだけで増えてしまう。
できれば家族みんなで介護するのが、よりよい介護、お互いのいい人間関係の大事な条件であると、著者は自分の介護体験からそういう。
[No.15797]
大竹新助:名作の旅7石川啄木
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/23(Thu) 07:53
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保育社の本
石川啄木の一生を、生まれ育ったところから北海道そして終焉の地の東京まで
順々にならべて写真や地図もそえてうまくまとめている。
もうなくなった昔の建物の貴重な写真もたくさん載せている。
しかし
ところどころ間違いがある。
明治35年啄木17歳の時に上京するが
野村胡堂から
「君は才に走りて真率の風を欠くと。また曰く着実の修養を要すと」(啄木日記)
ときつい諫言を受ける。
この野村胡堂のことを、著者は、当時まだ早稲田大学の学生であったが
のちには、読売新聞社の文芸記者となったと述べているが、これは間違いである。
正しくは、東京帝国大学法科大学に学んだが、学資が続かず退学し、「報知新聞」の記者になったのである。
野村胡堂たちは盛岡中学時代に問題教師のためにストライキをするが、犠牲者を出さないよう注意深い対応をしていた。
だが、下級生の啄木は、正式なメンバーでもないのに、このストライキのせいで自分の退学が実現することを希望したふしがあり、それを胡堂に見破られている。
そんなわけで、胡堂は啄木に不信感をいだいていたらしい。
啄木一家が部屋を借りていた東京本郷弓町の理髪店喜之床の位置も
かねやすの近くで、春日通りに面しているのに
地図では春日通りから奥に入ったところに記載されている。
盛岡の地図でも
啄木歌碑のある天満宮の位置も道路が一本ずれている。
この分ではほかにも間違いがありそうであるが
気のついた点を書いておきました。
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