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  • [No.15786] Re: 西條八十 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/21(Tue) 07:22
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    Toshichan  こんにちは

    > > > あとで、中山晋平の意見を聞いて「明けりゃダンサーの涙雨」に変えたという。
    > > 中山晋平はよくこういうことをしたらしく、野口雨情も似たようなことをされている。

    西條八十にしてみれば
    ジャズを踊ったり、リキュールを飲み交わした二人も、歓楽は一夜にして終わって翌朝は別離の涙であるという、刹那的享楽を風刺したつもりだったのだが
    中山晋平から「彼女の、というところを、ダンサーのとさせて頂きたいので、そうすれば曲にはずみがついてごくいいんですが」という注文を受け入れた。
    当時の中山晋平といえば、日本中の歌謡曲、民謡曲を一人で背負っているような存在で、この人の手にかかれば流行らぬものなしという人気だったから、意見に従うしかなかった。

    だから、この歌の最初の原案の歌詞が変わってしまって、なぜダンサーが泣くのか、作詞者にもわからないものになってしまった。
    しかし、この歌は流行りに流行って、当時のレコードで二十五万枚を売り出すに至った。
    後年、「愛染かつら」のレコードは売上数百三十万枚といわれ、レコード界空前の売高と讃えられたが、その時代民間にあった蓄音機の台数を数えると、あるいは「東京行進曲」のほうが売上枚数において優っていると説く人もいた。

    この歌詞については、東京をあまり退廃的に描いたのが不適当だと「江戸っ子の面汚し」という非難が相当あった。
    「いっそ小田急で逃げましょか」と書かれた鉄道会社から最初は抗議されたそうだが、そのうち宣伝効果があったことを知った鉄道会社は、作詞者に無料の乗車券を送ったと別の本に書いてある。

    これほど流行った「東京行進曲」に対して、ビクター会社は西條に三十円しか払わなかった。
    まだ専属契約もできていなかったので印税なども支払わなかった。
    楽譜などもむやみに出たようであるが、たいてい無断出版で、たったひとつビクター出版社という出版社が、三十円か五十円を届けてきた。
    そのうち楽譜の無断出版が多いのに業を煮やした中山晋平が、弁護士と相談して法的手続きを取り全国の悪楽譜出版業者から相当の謝礼をはき出させたと話は聞いたが、中山から西條に仲間に入るよう話はなかったという。

    当時はまだ作曲が主、歌詞が従という観念が音楽界にもレコード業者にもあったようである。
    西條八十もだんだん大衆歌謡に身を入れるにつれ、歌詞にも作曲と同一価値権利を認めることを主張するようになっていったのである。

    >  昔は、著作権なんかには、ごちゃごちゃ云わずのんびりしてたんですね。

    いまは作詞が主で、作曲は従ですね。先に歌詞が作られ、それに対応して作曲されるというシステムが定着しています。古賀政男がこれが正しい手順だと言ったことを記憶しています。
    たまには逆の手続きでできる歌もありますが。


    [No.15785] 今日は何の日・9月21日 投稿者:   投稿日:2010/09/21(Tue) 05:36
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、9月21日

    国際平和デー,世界停戦日
    1981(昭和56)年、コスタリカの発案により国連総会によって制定。
    当初は国連総会の通常会期の開催日である9月第3火曜日だったが、2002(平成14)年からは9月21日に固定された。
    2002年から、この日は「世界の停戦と非暴力の日」として実施され、この日一日は敵対行為を停止するよう全ての国、全ての人々に呼び掛けている。

    ファッションショーの日
    1927(昭和2)年、銀座の三越呉服店で日本初のファッションショーが行われた。
    一般から図案を募集した着物のファッションショーで、初代水谷八重子ら3人の女優がモデルとなった。

    世界アルツハイマーデー
    1994(平成6)年、国際アルツハイマー病協会(ADI)の国際会議で、患者やその家族への支援を進めること等を謳った宣言が採択された。
    アルツハイマー病及び関連の諸障害に関する世界的普及を図るとともに、地球規模での理解と把握につとめ、患者と家族への支援を推進するための努力と働きかけを行う日。
    日本では呆け老人をかかえる家族の会が実施。

    1934(昭和)9年室戸台風が襲いました。全国で大きな被害、大阪四天王寺五重塔が倒壊

    1952(昭和27)年 蔵前の国技館秋場所が始まる、大相撲の土俵の柱が無くなり房になりました。

    1981(昭和56)年サンドラ・デイ・オコナーが初のアメリカ最高裁女性判事となる

    1992(平成4)年 国土庁調べによる東京圏の地価が初めて下落

    1993(平成5)年 プロ野球にフリーエージェント(FA)制の導入を決定

    1999(平成11)年 台湾中部大地震(M7.7)。死者・行方不明4800人

    今日の誕生日の花:ノハラアザミ
    花言葉:心の成長
    今日の一句:秋空にさしあげし児の胸を蹴る    福田蓼汀

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15784] 栗原雅直:川端康成 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/20(Mon) 22:02
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    著者は川端康成が不眠症のため東大病院の内科に入院したとき
    世話をした精神科医である。
    その後、川端邸に出入りするようになり、一人娘の麻紗子の仲人をする。
    彼が麻紗子の婿として世話したのは、フランス留学時代の友人で当時北大文学部の山本香男講師だった。

    川端康成はノーベル賞受賞後まもなく初孫を得て、さらに2年後には男の孫が誕生という世間的には大きな喜びにつつまれるのだが。

    どうも
    人間にはストレスを与えるのは環境の変化であって
    家族の病気や死亡や借金という不幸だけがストレスの原因とはならず
    栄転とか宝くじに当たったことなども(他の人が聞けば驚くかもしれないが)ストレスの原因となるらしい。

    川端康成にしたら、人生の晩年に急にいろいろな出来事がおこって
    心身をさわがせたらしい。
    ノーベル賞受賞後の依頼作品や日本学研究者のための国際会議の準備などで忙しく
    疲れがたまって、生きる意欲がなくなったのかもしれない。

    この著者は
    精神医学者による川端作品分析ということで、論文として作品をあげながら、作家川端康成の心情の流れを分析している。
    そして、川端康成の自殺の原因について次のような仮説をたてている。
     西行法師のように、人は花のさかりに死を思うものである。
     生命の極まりにおいて死を思うことは、川端にとって避けられない性(さが)であったかもしれない。
     孫が産まれたことが生の極まり、喜びの極まりであるならば、そのとき、死を思うことは一つの自然でもあったろう。
     可愛がっていた養女が結婚して母となり、その母に抱かれた男の孫は
     川端にとって、母に抱かれたわが姿の再現であり、
     娘であり母である人を自分から奪い去った人間でもある。
     いまだかって母に抱かれた記憶のない川端は、複雑な思い入れの極まるあまり
     永遠なる女性にひかれて、母の懐に抱かれんとして死に急いだのではないだろうか。

    あの臼井吉見「事故のてんまつ」は全くとるにたらない内容であると真っ向から否定している。
    http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15745&reno=15734&oya=15734&mode=msgview
    >老作家が心を寄せた若い女性から冷たくされ
    >それが引き金となって
    >老作家の自殺をまねいたという小説を思い出した。

    しかし
    この著者も書いているように
    本当の理由は本人にしかわからない。
    もしかしたら、本人にも自覚していない理由があるのかもしれない。
    一人の人間の行為の背景には、実は色々な出来事があって、それらの複合効果の上に自殺という行為があったのかもしれない。


    [No.15783] 細谷博:太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/20(Mon) 21:14
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    細谷博:太宰治  岩波新書560

    太宰治の解説書のひとつである。
    まず、太宰治はペンネームをどうしてつけたか諸説はあるが
    太宰本人が女優関千恵子に語った説明がわかりやすい。
    「小説を書くとき、実家に叱られるので、本名津島修治ではいけないんで、友だちと万葉集をめくって、はじめは柿本人麻呂から柿本修治はどうかということになったが、そのうちに太宰権師(ごんのそち)大伴の何とかという人が、酒の歌を詠っていたので、酒が好きだから、これがいいというわけで、太宰。修治は、どちらもおさめるで、二つはいらないというので太宰治としたんです」

    「津軽」では最後に育ての親のたけとの感動的な再会がある。
    だが相馬正一によれば
    実際には、このとき太宰は旧知の住職と一緒で、たけの横で、もっぱら住職との思い出話に花を咲かせていたのだという。

    だから、あの「津軽」は太宰の創作である。
    好意的な批評家は、太宰の筆力だとか、目の前の出来事ではなく作者の感じた真実の世界を書きつづったものだという表現をするが、簡単にいってしまえばフィクションなのだ。

    「たづねびと」
    戦争末期に、空襲の東京をのがれた太宰が、疎開先の甲府でも空襲にあって焼け出され、妻子と共にほうほうのていで故郷の津軽に向かった列車の中での体験ということになっている。
    「お嬢さん、あの時は、たすかりました。あの時の乞食は私です」という呼びかけではじまる。
    5歳の娘と2歳の息子を連れての上野から津軽までの長旅は大変だった。
    まず、乳の出なくなった妻に代わって、車中で近くにいた子持ちのおかみさんが下の子に乳を飲ませてくれる。
    じきに、持参していたおにぎりも蒸しパンもいたみ食べ物がなくなる。
    そこに、桃とトマトの入った籠を持った別のおかみさんが現れ、隣にすわったおかみさんから桃とトマトをめぐんでもらう。
    ほっとしたのもつかの間、仙台に近づき、今度下の子は腹をすかせて餓死しそうになる。
    いよいよ下の子がむずかり出して、思わず「蒸しパンでもあるといいんだがなあ」とつぶやくと、頭の上から急に、「蒸しパンなら、あの、わたくし、...」という声がして、後ろに立っていた若い女性が網棚から鞄をおろして、中から蒸しパンの包みを取り出す。さらに、これはお赤飯です。それから...これは卵です」と次々に包みが重ねられる。
    仙台に着いて、その女性は「お嬢ちゃん、さようなら」と言って、窓から降りていった。
    私も妻も一言も礼を言うひまがなかった。
    そう語った後で著者は最後に次のようにつけ加える。
      そのひとに、その女のひとに、私は逢いたいのです。
      逢って、私は言いたいのです。一種のにくしみを含めて言いたいのです。
      お嬢さん。あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です」と。
    もっとも、桃とトマトをくれる際に「人道」とまで口走って私を閉口させた2番目のおかみさんの場面もあるから、仙台で降りた非の打ち所もないスマートな娘さんのほどこしに憎しみを感じたのだろうか。

    だが、これもたぶん創作であろう。
    混んで座るところがなく立ち続けての子連れの長旅で、人の情けにふれたことがあったかもしれないが
    食べ物をめぐってそんなに多くの親切はなかったろう。
    だいいち、彼の乗った列車は奥羽線なので、仙台は通らないのだ。
    >妻の実家の甲府で焼け出されたので
    >太宰は妻子を連れて津軽の金木に向かった。
    >奥羽線で新庄をすぎるとのんびりした旅になった
    http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15497&reno=15478&oya=15181&mode=msgview
    あやうくまた太宰にだまされそうになった。


    [No.15782] Re: 西條八十 投稿者:   投稿日:2010/09/20(Mon) 14:11
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     男爵さま、まいど。

    > 西條八十 唄の自叙伝(人間の記録シリーズ29巻)  日本図書センター 1997
    >
    > 西條八十(1892−1970)
    >  昭和31(1956)年の
    >  この本のあとがきで、著者は初版が出て約10年たったこと
    >  新版の校正をみながら、この10年間に亡くなった中山晋平などのことを思い出したなど書いている。  
    >
    > > 竹久夢二と一緒に赤城山のぼりをしたとき、「宵待草」は一番しかないのはものたりないと著者が竹久にいったら、それでは君が二番を作ったらと言われたという。
    >
    > 著者は記憶違いをしていて、このときの竹久夢二の旅姿は、黒衣に袈裟掛けの僧形であったという。
    >
    > > 「東京行進曲」の映画主題歌をつくることを頼まれて、無名の詩人の詩の一節
    > > 「青い銀座の瓦斯の灯に粋な年増のすすり泣き」を想い出して
    >
    > 著者は、故秦豊吉の作だと思っていたら、そうではなく雑誌「文章世界」の投稿家であった「森れじな」というやはり夭逝した若人の作品であったことを小島政二郎から教えられたという。
    >
    > > あとで、中山晋平の意見を聞いて「明けりゃダンサーの涙雨」に変えたという。
    >
    > 中山晋平はよくこういうことをしたらしく、野口雨情も似たようなことをされている。

     昔は、著作権なんかには、ごちゃごちゃ云わずのんびりしてたんですね。

     今は、Twitterでは、「千の風になって」の作詞者という日本人が「新井 満の盗作だ」ということで
    上げて、もめてるみたい。
     もともと、アメリカでの、作詞,作曲の歌の筈で、詩も直訳に近い形で作られた筈ですがーー。
     たかだか、訳詩者**。作曲不詳。くらいが正しいと思うんやけど。

                                     Toshichan in Kyouto-fu
     


    [No.15781] 今日は何の日・9月20日 投稿者:   投稿日:2010/09/20(Mon) 05:37
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、9月20日
    今日は彼岸の入りです。

    今日は敬老の日です。
    2003年までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2001年の祝日法改正いわゆるハッピーマンデー制度の適用によって、2004年からは9月第3月曜日となった。
    なお、敬老の日を第3月曜日に移すにあたって、高齢者団体から反発が相次いだため、2001年に老人福祉法第5条を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間とした

    空の日
    1940(昭和15)年に「航空の日」として制定。戦争中中断されていたが、1953(昭和28)年に復活。運輸省(現在の国土交通省)航空局が1992(平成4)年に「空の日」改称した。
    1911(明治44)年、山田猪三郎が開発した山田式飛行船が、滞空時間1時間の東京上空一周飛行に成功した。
    日本で最初の飛行に成功したのは、1910(明治43)年12月19日に東京・代々木錬兵場で徳川大尉が行った飛行実験だった。しかし12月では気候的に「航空日」の行事に適さないため、帝都上空一周飛行が行われた9月20日を「航空日」とした。

    バスの日
    日本バス協会が1987(昭和62)年に制定。
    1903(明治36)年、日本初の営業バスが京都・堀川中立売〜七条〜祇園の間を走った。

    お手玉の日
    日本のお手玉の会が制定。
    1992(平成4)年、第1回全国お手玉遊び大会が愛媛県新居浜市で開かれた。
    お手玉遊びの魅力をPRする日。

    1925(大正14)年 東京六大学野球リーグ戦が開幕

    1945年(昭和20)年、文部省が教科書取り扱いについての通達を出して、軍国主義的
    表現を墨塗りすることにした。

    1957(昭和32)年秋田海岸で東大の糸川英夫教授らが初の国産観測ロケット「カッパー4C型」の打上げに成功

    今日の誕生日の花:ヤブラン
    花言葉:忍耐
    今日の一句:末の子の又起きて来し夜長かな    上野泰

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15780] Re: 鈴木明:日本畸人伝 投稿者:   投稿日:2010/09/19(Sun) 23:20
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    > 鈴木明:日本畸人伝 明治・七人の侍  光人社  2000

     あっしはこの方面にも疎いのですが、いわゆる価値観の多様化かなんかで、一時奇人書ブームのようなものがあったのではないでしょうかね。気をつけて見ると、結構似たような題の本がありますね。

     出版界ではよくそうしたキャンペーンのようなものをやるようですね。あっしも、前にあった文章読本ブームのようなものはおぼろげながらも記憶していますが…。

     鈴木明というひとの「日本畸人伝」というのは初めて知りました。この本を出した光人社というのは、戦記物などをよく出す出版社ですね。この本は副題に明治・七人の侍とあるので、登場人物はみな侍なのですね。刊行は2000年10月なので、この手の本としては、新しい方ではないでしょうか。

    畸人と云う字を使ったものはだいぶ昔からあります。森まゆみの、1995年刊行のも「明治東京畸人伝」、中野三敏も「新畸人伝」ですが、陳舜臣のも「中国畸人伝」です。でも一番最初に使ったのは、1790年刊行の「近世畸人伝」でしょうね。

     駒田信二の方は「奇人伝」ですが、このなかには作家の木村荘太や柔道の嘉納治五郎などがはいっています。中江克己さんのは、「大江戸<奇人変人>かわら版」です。

     でも、やっぱ奇人とやると、すぐ世間の人は変人を連想し、マイナスイメージになる
    ので近頃は作家も編集者も、意識して、この字を使いたがるのでは。(^_-)-☆


    [No.15779] Re: 今日は何の日・9月19日 投稿者:   投稿日:2010/09/19(Sun) 19:15
    [関連記事

    > 苗字の日
    > 1870(明治3)年、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許された。しかし、なかなか苗字を持とうとしなかったため、1875(明治8)年2月13日に、全ての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。

    紀田順一郎によれば、当時、苗字が必要になった平民は三千百万人もいたよし。これだけ該当者がいれば、早くつけろ、早く付けろと云われてもすぐ完了するわけがない。

     いきおい庄屋や手習いの師匠が名付け親を頼まれる羽目に。それも、さいしょは機嫌よく応じていたが、しまいには面倒になり、畑の真中に家があるから畑中、山の上に住んでるから山之上、酒を飲むとすぐ管を巻くから酒巻、普段から気に入らないヤツは真面目に考えるのも馬鹿馬鹿しく、腰巻、厠などとつけたようで。

     また、漁村の庄屋は、酒の勢いで依頼者の名前を片っ端から魚の名にしてしまった。「おう、鯖か、こんちわ」「おう、河豚のやろうか。どうだい漁の方は」「あ、むこうから来るのは蛸の野郎だ。」てな具合で、これじゃあ丸で、竜宮城のなかの会話のようだ。

     蛸と付けられた男の悲劇。さいしょ小学校の教師になったが、生徒から蛸、蛸とバカにされ、つぎに会社員になったが、ここでもからかわれ、思い余って巡査になったが、ここもやっぱり居心地が悪く、しまいには人足になって人生を終えたという。

     その後、政府が改姓を認めぬ方針で望んだため、よけい問題が紛糾した。改姓を認める法律ができたのは、やっと戦後の昭和23年になってからだ、と。


    [No.15778] 今日は何の日・9月19日 投稿者:   投稿日:2010/09/19(Sun) 05:35
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、9月19日

    苗字の日
    1870(明治3)年、戸籍整理のため、太政官布告により平民も苗字を持つことが許された。しかし、なかなか苗字を持とうとしなかったため、1875(明治8)年2月13日に、全ての国民が姓を名乗ることが義務づけられた。

    子規忌,糸瓜忌,獺祭忌
    俳人・歌人の正岡子規の1902(明治35)年の忌日。
    辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたので獺祭忌とも呼ばれる。子規は34才でした。

    1931(昭和6)年日本初の臨時ニュース放送。前日の満洲事変の第一報

    1958(昭和33)年、長嶋選手が幻のホームランを打ちました。
    ホームランを打ってグランド1周の時に1塁ベースを踏まなかったので
    アウトになりました、記録にはピッチャーゴロになりました。

    1978(昭和52)年 埼玉県行田市稲荷山古墳で出土した鉄剣の文字115文字の解読に成功

    1985(昭和60)年 メキシコ西海岸でM8.1の大地震。メキシコシティーで死者8千人

    1988(昭和63)年 昭和天皇の容態が急変し深夜に大量吐血。以後、各地で祭・催事などを自粛

    今日の誕生日の花:オミナエシ
    花言葉:はかない恋、親切
    今日の一句:日は空を月にゆずりて女郎花      桂信子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15777] Re: 西條八十 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/18(Sat) 13:00
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    西條八十 唄の自叙伝(人間の記録シリーズ29巻)  日本図書センター 1997

    西條八十(1892−1970)
     昭和31(1956)年の
     この本のあとがきで、著者は初版が出て約10年たったこと
     新版の校正をみながら、この10年間に亡くなった中山晋平などのことを思い出したなど書いている。  

    > 竹久夢二と一緒に赤城山のぼりをしたとき、「宵待草」は一番しかないのはものたりないと著者が竹久にいったら、それでは君が二番を作ったらと言われたという。

    著者は記憶違いをしていて、このときの竹久夢二の旅姿は、黒衣に袈裟掛けの僧形であったという。

    > 「東京行進曲」の映画主題歌をつくることを頼まれて、無名の詩人の詩の一節
    > 「青い銀座の瓦斯の灯に粋な年増のすすり泣き」を想い出して

    著者は、故秦豊吉の作だと思っていたら、そうではなく雑誌「文章世界」の投稿家であった「森れじな」というやはり夭逝した若人の作品であったことを小島政二郎から教えられたという。

    > あとで、中山晋平の意見を聞いて「明けりゃダンサーの涙雨」に変えたという。

    中山晋平はよくこういうことをしたらしく、野口雨情も似たようなことをされている。


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