|
[No.15766]
今日は何の日・9月17日
投稿者:
投稿日:2010/09/17(Fri) 05:32
[関連記事] |
みなさん、今日は
モノレール開業記念日
東京モノレールが制定。
1964(昭和39)年、浜松町〜羽田空港(現在の羽田空港駅とは別)の東京モノレールが開業した。
日本初の旅客用モノレールだった。遊覧用のものでは1957(昭和32)年に上野動物園に作られたものが最初だった。
牧水忌
歌人・若山牧水の1928(昭和3)年の忌日。
1894(明治27)年 黄海海戦。日清戦争最大の海戦。日本海軍聯合艦隊が清国北洋艦隊に勝利し黄海の制海権を取得
1945(昭和20)年 枕崎台風が西日本の各地を襲来。死者行方不明3758人
1978(昭和53)年 アメリカ・メリーランド州の大統領山荘キャンプデービッドでエジプト・サダト大統領、イスラエル・ベギン首相、アメリカ・カーター大統領が中東和平に関する合意
1988(昭和63)年 第24回オリンピック・ソウル大会が開幕。北朝鮮は不参加
1991(平成3)年 韓国、北朝鮮、エストニア、ラトビア、リトアニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦が国連に加盟
1996(平成8)年 野茂英雄が大リーグでノーヒット・ノーランを達成
2002年(平成14年)小泉純一郎が金正日主席と会談
小泉純一郎は日本の首相として初めて北朝鮮を訪れ、平壌で金正日総書記と会談を行った。「拉致問題の解決なくして国交正常化交渉はあり得ない」――小泉純一郎はそう語っていた。これに対し北朝鮮は日本赤十字社への回答という形で、日本政府が認定した八件十一人を含む拉致被害者の安否を伝えた。
横田めぐみさんら八人が死亡、生存者は五人という残酷な結果である。
「部下が勝手にやったことで私は知らなかった」金正日は謝罪した。
今日の誕生日の花:ツユクサ
花言葉:尊敬、懐かしい関係
今日の一句:露草も露のちからの花ひらく 飯田龍太
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15765]
Re: 戒名は自分でつけよう
投稿者:
投稿日:2010/09/16(Thu) 23:31
[関連記事] |
みなさん、まいど。
> 私の父はお寺さんと懇意にしていたもので、自分がいいのを
> 決めてあげるといってやってくださったのでお任せでした。
お寺との長い付き合いの、あるとこは、簡単にかえられへんなあ。
そやけど、戦災で、財産が無くなったので、院号は高くて、私が死んだとき
息子が困るやろうと思い、父親の時から、院号は止めにしましてん。
Toshichan in Kyouto-fu
[No.15764]
Re: 日本の中の朝鮮文化
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/16(Thu) 16:07
[関連記事] |
> 金達寿 日本の中の朝鮮文化 講談社文庫 1983
この本で不思議に思ったことは「神社」のことです。
> 大磯の高来神社は高麗神社が変わったもの。
ここでいう高麗とは、著者も三国時代の高句麗のことと断っています。
著者たちは西武線の高麗駅前から歩いて高麗神社に行くわけです。
> 高麗神社で見せてもらった「高麗氏系図」は朝鮮のいわゆる族譜で、千数百年の歴史が続いていることを示す。
> 初代は高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。
> 高麗王とは、高麗の王というわけではない。
> 朝鮮・高句麗系の渡来人氏族であったかれを中心とする一団が、相模の大磯に上陸し、そこの郡長となった。
> そうしてかれはのち、「続日本紀」の703年、「従五位下高麗若光賜王姓」となったものといわれ、この王とは「コシキ」という古代朝鮮語で、日本のいわゆる姓(かばね)の一つである。
> つまり高麗王若光というわけである。
高句麗系の朝鮮の人々が関東に移り住んで
先祖を祭って高麗神社としたということですが
そもそも神社は朝鮮半島にあったのでしょうか。
神社を作ること自体、もう朝鮮の文化をはなれて
日本人としての行為なのではないかと思うのですが。
[No.15763]
Re: 戒名は自分でつけよう
投稿者:
投稿日:2010/09/16(Thu) 14:28
[関連記事] URL:http://www14.ocn.ne.jp/~sousai/ |
興味のあるタイトルだったので書き込みます。
戒名とは本来仏門に入った証しで、仏教の戒律を守ることを誓った者に与えられる名前のことです。亡くなった時に付ける名前ではありません。
お寺の跡取り息子などは小学校の高学年にもなれば仏門に入り戒名を持つ場合が多いようです。
自分自身の場合はというと、戒名は不要で死後は故○○でよいと思っています。
仕事柄多くのお葬式に関わってきて今のお葬式のあり方に一抹の疑問を持つこともありますし、煩悩に惑わされ世俗の垢に汚れて生きてきたこれまでの自分の生き方や現在を考えると、仏教的な道徳に相応しくはないように思います。
死後は自然に帰りたいとは思いますが、いまのところ仏教に帰依するつもりも戒律に縛られたいとも思いません。したがってお寺さまに戒名をいただくつもりも自分自身でつけるつもりありません。
しかしいろいろな考え方があって選択肢が多くあることは良いことと思います。
死後に備えて、自分自身で戒名を考えておくことも、お寺さまに生前もしくは死後に戒名をいただくことも、俗名のままも有りと思っています。
また戒名の金額に不安を持たれている方のために、「戒名の会」というお寺さまの組織もあるようです。興味のある方は検索してみたらいかがでしょうか。
お骨に関しては海上散骨と思っています。
お墓に入るつもりはありません。また土地の場合、現在自分の所有であろうと公の土地であろうと将来所有者が変わる可能性はあります。そういうことを考えると自分のためにも後に生活する人のためにも土地に散骨するつもりはありません。
お骨の引き取りについても書き込みいたします。
関東地方はお骨重視のようですが、関西は一部引き取りの場合が多いと聞いています。ちなみに新潟市青山斎場の場合、お骨の一部だけを引き取ることも全く引き取らないことも可能です。新潟だけではなく他の地域でもそういうことが可能な斎場はあると思います。もし悩んでいるのでしたらお住まいの地区の斎場(火葬場)または役所に聞けば教えてくれます。
[No.15761]
Re: 日本の中の朝鮮文化
投稿者:
投稿日:2010/09/16(Thu) 12:54
[関連記事] |
男爵さん。まいど。
> > 「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」
>
> 深田祐介の「新西洋事情」に書いてあったと思いますが
> 日本の商社かメーカーが、はじめてアメリカやヨーロッパに製品を売り込みに行った時
> 海のものとも山のものともわからない日本製品を、どこでもちゃんとした歴史ある商人やバイヤーは相手にしてくれなかった。
> これはおもしろそうと投機的に相手をしたのがユダヤ人だったと書いてありました。
> 最初は、日本人はユダヤ人を相手にするほかなかったが、次第に売れて名が広まってくると、一流の商人や銀行からも相手にされるようになり、長年お世話になったユダヤ人たちとの関係を円満に解消してゆく苦労話があったと記憶しています。
>
> 欧米人から少し異質と見られていた日本人とユダヤ人、手を結ぶ時は協力していったし、そういう動きが現代のどこかに残っているかもしれません。
> そういう人たちの間にある一緒の伝説とか信仰のたぐいだと思います。日ユ同祖論とは。
読むのがお好きで、早い、男爵さんやし、ウィキさんの「日ユ同祖論」を読んでみはったらーー。
結構、長くて、根気の無くなった、私は、give upですわ。
太秦いうのは、「古いユダヤ語や」云うて書いてありまっけど、秦氏がユダヤ人か、朝鮮人か
は、男の子孫探し出して、遺伝子解析することかもしれへん。
ユダヤ系なら、日本にまれなE系統で、朝鮮人ならOb2ですやろね。まあ、絶対やないけど
言いたい放題の、歴史書よりは、確かかもしれへん。
Toshichan in Kyouto-fu
[No.15760]
鈴木明:日本畸人伝
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/16(Thu) 11:28
[関連記事] |
鈴木明:日本畸人伝 明治・七人の侍 光人社 2000
この本も本日図書館に返すので、簡単にメモ書きをしておく。
幕末に名を残した新撰組については、近藤勇や土方歳三などは小説やドラマにも取り上げられているが、彰義隊となるとその名前を知っている人も少なく、隊員の名はおろか隊長の名前さえほとんど知られていない。
彰義隊の関係者は密かに逃れ隠れるように暮らしていたし、彼らにかかわりあっては大変と、みんな知らぬふりをした。新撰組は会津藩主の家来だったこともあって、会津には墓もあるし、函館戦争で死んだ土方歳三は死ぬ場所を選んだということで、日本人の心に残っている。
佐久間貞一
彰義隊に参加した。敗残兵の佐久間は西へ向かって逃げとうとう天草まで落ちのびた。
世の中も落ち着いてくると、東京に戻ってきた佐久間は、明治12年にパリ万博のあと、出品した金の鯱を積んできたフランスの船が伊豆沖で座礁してしまったのを知って、金の鯱などの引き上げを計画する。
彼は天草の漁民の潜水技術を知っていたので、彼らに仕事を与えたのだった。政府の財政担当の大隈重信を知っていたのが幸いした。金の鯱は引き上げられ、船長の遺品も見つかったのでフランス政府に送ったところ感謝され、フランス政府と日本政府から佐久間は感謝状をもらった。
佐久間は秀英舎という大日本印刷の前身にあたる会社を興し、労働組合を奨励した。社員とその家族が潤えば社会経済も発展するし、意欲的な社員は会社をもりたてるからという彼の思想が背景にあった。
浮田和民
日本のキリスト教には三つのルーツがあると言われている。
クラーク博士による札幌バンド
ヘボンになどによる横浜バンド
熊本の洋学校のジェーンズによる熊本バンド
熊本バンドの中から浮田和民が出てきた。
熊本洋学校が閉校になると、開校間もない同志社に転校し、同校で新島襄からの影響を受けた。
イェール大学に2年間留学し、同志社大学教授として政治学、国家学、憲法講義などを担当した。
それから東京専門学校(現早稲田大学)に移籍し、山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成。また総合雑誌「太陽」の編集主幹として活躍した。
今村均
やはり熊本バンド出身の海老名弾正は後に同志社大学総長となるが、明治30年から本郷教会で演説をすることになった。集まった東京帝国大学の学生の中には吉野作造もいた。
明治38年ころ本郷教会で海老名弾正の演説にきき入っていた18歳の青年今村均は
陸軍士官学校、陸軍大学と進み、太平洋戦争末期にはインドネシア方面の最高司令官であった。
今村は日本が守備していたラバウルの要塞を難攻不落の地価に作り上げ、オーストラリアにいたマッカーサー軍の度重なる侵攻にもかかわらず、ついにここを守りきった。
今村は総司令官だったから、戦後に「インドネシアにおける戦争犯罪人」としてオランダ政府からオーストラリア政府に対して身柄の引渡し請求がされたが、オランダ政府、オーストラリア政府それぞれの内情、また終戦直後にはじまったインドネシア独立戦争のため、今村のオランダ引渡しが決定するのに三年近くの歳月がかかってしまった。
今村がラバウルからジャカルタの刑務所に送られたのは昭和23年5月だった。そこには、インドネシア独立戦争の結果捕虜となったインドネシア人が多く入っていて、彼らの何人かは今村に食べ物を持ってきて、日本時代に青年訓練隊に入っていたこと、イマムラ将軍に感謝していることなどを述べた。
今村が囚われているうちに、インドネシアのムルデカ(独立)運動は盛んになり、実は終戦後約三百人の日本軍将校がインドネシア兵として独立戦争に参加していたのであった。
インドネシアは独立に成功した結局、今村はインドネシアから巣鴨刑務所に移されることになったが、インドネシアに一人でも戦犯が残っているうちは自分は日本に帰らないといって、昭和28年に今村は日本に帰った。日本は2年前に講和条約を締結していた。、
--------------------
井田制という言葉がある。
孟子が、田地を「井」の字に九等分し、真ん中の一つを「公」として
それをとりかこむ八つの区画を「私」とし、公の部分を税金にあてればいい
と考えた耕作のときの理想の形を述べた言葉である。・
しかし、すべての土地が井田制に適合するようにできているわけではない。
どんな理想的に見える土地でも、どこかでこの中に入ることのできない半端な部分が出てくる。
この土地を形容する文字として「畸」というあまり使われない文字ができた。
畸は、井田制の中に入ることのできなかった残りの土地であり、対照するものがない孤独な土地だが
やはり世の中にはそういうものが必ず存在するものであり、よくよく見れば、時には妙に輝いて見えることもあるかも知れない。
著者はそういう「畸人」が好きなので、日ごろから畸人に関する資料を集めておいたので、出版社から何か出版をともちかけられて、この本を書いたという。
[No.15759]
Re: 日本の中の朝鮮文化
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/16(Thu) 08:11
[関連記事] |
Toshichan
> 「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」
深田祐介の「新西洋事情」に書いてあったと思いますが
日本の商社かメーカーが、はじめてアメリカやヨーロッパに製品を売り込みに行った時
海のものとも山のものともわからない日本製品を、どこでもちゃんとした歴史ある商人やバイヤーは相手にしてくれなかった。
これはおもしろそうと投機的に相手をしたのがユダヤ人だったと書いてありました。
最初は、日本人はユダヤ人を相手にするほかなかったが、次第に売れて名が広まってくると、一流の商人や銀行からも相手にされるようになり、長年お世話になったユダヤ人たちとの関係を円満に解消してゆく苦労話があったと記憶しています。
欧米人から少し異質と見られていた日本人とユダヤ人、手を結ぶ時は協力していったし、そういう動きが現代のどこかに残っているかもしれません。
そういう人たちの間にある一緒の伝説とか信仰のたぐいだと思います。日ユ同祖論とは。
だいたい日本人は割礼の習慣もないし、豚肉も親子丼(母と子のものを一緒に食べない、牛肉シチューにミルクを加えるのは厳禁)も食べるし、日曜日は安息日だといって仕事はしないかというと洗濯したり働く人はどしどし働きますから、まったくユダヤの戒律を違反しています。決してユダヤ人はそんな日本人をユダヤ教徒とは認めないでしょう。
[No.15758]
五木寛之:蓮如
投稿者:男爵
投稿日:2010/09/16(Thu) 07:56
[関連記事] |
岩波新書343
親鸞の末裔ではあったが、母親はいやしい身分の女だった。
(二十歳の父はまだ部屋住みで正式な妻はもてず本願寺で働いていた女と親しくなって生まれたのが蓮如である)
やがて父は本願寺の当主となり、正妻をむかえることになる。相手の女性は室町将軍につかえるしかるべき家の娘だった。
蓮如の母は六歳の蓮如を残していずこかに去っていった。そして正妻には息子が生まれ、継母からうとまれる蓮如。
四十すぎまで部屋住みだった蓮如、庶子なので未来はない。彼も若き日の父のように部屋住みの実で妻をとり、子だくさんの貧しい生活を送る。
やがて父が亡くなり、人生の大逆転で、庶子の蓮如が本願寺の跡継ぎになってしまう。
怒ったのは義母如円と嫡子応玄、寺を去るしかなかったが
悔しさのあまり蔵の中の寺の財産をことごとく持ち去って、あとには味噌桶ひとつと小銭が転がっていただけであった。
時代は飢饉があり応仁の乱が間もなくやってくるという民衆の危機が続いていた。
本願寺は貧しいみすぼらしい寺だったが、同じ親鸞の教えを説きながら経済的に繁盛していた他の寺がいくつもあった。
そういう寺は布施を積めば極楽往生ができるとして、名帳や絵系図などが発案されていた。つまり寺の権限で帳簿に名前をのせてもらったり肖像画を描いてもらうと極楽往生の予約ができるようなものである。当然高い登録料が必要である。
一方では他の寺の繁盛を見ながら、親鸞直系の寺であるという意識だけは強く、貧乏ながら権威主義は捨てられなかった本願寺
そして、その本願寺は比叡山延暦寺の支配下におかれていた。具体的には親鸞の真宗とも天台宗ともつかない、混合した色彩をもっていた。
ここから、どのようにして蓮如が本願寺の発展をしていったか
それはこの本のお楽しみ。
ーーーーーーーー
この本に書かれている五木寛之の解説では
我が国の知識人、学者や文化人は蓮如には批判的である。
それと対照的に、実業家や政治家や大衆的な仕事をする人々の間には、蓮如を高く評価する傾向があるという。
親鸞は哲学的、宗教的 蓮如は情熱家、事業家というところでしょうか。
五木寛之は若い時、思想家の羽仁五郎と大激論をしたことがある。
軍国主義の時代にも自由な近代精神を捨てなかったルネサンス的知識人の羽仁五郎は、日本的な歌謡曲のたぐいが大嫌いだった。
「美空ひばりなんて、きみ、あれは日本の恥だぜ」
ああいった湿った感傷性から自由にならない限り、日本人は市民として自立しえないのだ、という羽仁五郎に対して
五木寛之の考え方は正反対だった。いわゆる演歌調の歌謡曲の貧しさを近代の西欧音楽の構造をお手本にして批判するのは根本的にまちがっている。
ばかにされる演歌のマイナー・コードのなかにひそむアジア、アフリカ、イスラム世界との深いコレスポンデンス(対応)を、私たちは聴きとることを忘れているのではないか。
二十世紀末の世界の歴史は、決して理性のみによって動いてはいなかった。内線や民族紛争、独立運動、すべてが集団の古い記憶、そしてなまなましい情念によってリードされている。ソ連全体主義の解体は、民族と小国の情念のドラマであった。
人間の情念、怒り、悲しみ、血の記憶と、そこに注がれた大量の涙。そのような、いわば近代の理性が古いおくれたものとして軽蔑してきた情念によって、いま歴史がつくられつつある。それが現代である、というのが五木寛之の意見であった。
[No.15757]
今日は何の日・9月16日
投稿者:
投稿日:2010/09/16(Thu) 05:32
[関連記事] |
みなさん、今日は
今日は何の日、9月16日
国際オゾン層保護デー(International Day for the Preservation of the Ozone Layer)1995(平成7)年の国連総会で「9月16日を国際オゾンデーとする」ことを決議。国際デーの一つ。1987(昭和62)年、「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」が採択された。1999(平成11)年までにフロンガス等の消費量を半分にする方針が決定され、日本等24か国が議定書に調印した。
競馬の日,日本中央競馬会発足記念日
1954(昭和29)年、日本中央競馬会(JRA)が農林省(現在の農林水産省)の監督の下で発足した。それまでは、農林省蓄産部が運営する国営競馬だった。
ハイビジョンの日
通商産業省(現在の経済産業省)が制定。
ハイビジョンの画面の縦横の比率が9:16であることから。
マッチの日
1948(昭和23)年、配給制だったマッチの自由販売が認められた。
独立記念日 (メキシコ)
1810年、メキシコ中部・ドロレス教区の神父イダルゴ・イ・コスティリャが、教区民に「アメリカ万歳!独立万歳!悪しき政府を倒せ!」と叫び、メキシコ独立革命が始った。メキシコは300年近くスペインの圧制に苦しめられていた。独立宣言等が行われた日ではないが、この日が独立記念日とされ、メキシコ全土では前日からお祝いが行われる。イダルゴ神父の叫びは「ドロレスの叫び」と呼ばれ、この日、メキシコ大統領が国民広場のバルコニーに立ってこの言葉を叫ぶのがならわしとなっている。
1877(明治10)年 モースと日本人学生らが大森貝塚の発掘を開始。日本初の学術調査
1961(昭和36)年 台風18号(第二室戸台風)が近畿地方を直撃。死者行方不明202人
1977(昭和52)年 計量行政審議会が曲尺・鯨尺の製造販売を許可
今日の誕生日の花:アキノタムラソウ
花言葉:自然のままのあなたが好き
今日の一句:蟲の戸を叩けば妻の灯がともる 古館曹人
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15756]
Re: 日本の中の朝鮮文化
投稿者:
投稿日:2010/09/15(Wed) 23:34
[関連記事] |
男爵さん、まいど。
>
> > うーん。秦氏は、ユダヤ人の末裔と云う説もあり、何がなんやらわからんなあ
>
> ユダヤ人とは人類学で言う民族ではなく
> つまりユダヤ教を信ずる人をさすので
> 仏像信仰の秦氏はユダヤ教徒ではありえないでしょう。
> キリスト教に改宗してユダヤ教徒でなくなっても
> なかなかドイツ人は受け入れてくれなかったハイネの例はあります。
>
> ロシアに代々長年住んでいたユダヤ人は外見的にはロシア化するし
> ドイツに住んでいれば子孫はドイツ人みたいになるし
> アメリカのユダヤ人はアメリカ人のように見えますが
> かんじんなことはユダヤ教を捨てないことです。
>
> みちのくに
> キリストの墓というものがあります。
> では、磔にされたのは?というと
> あれは身代わりになったキリストの弟で
> 本物は日本の北東北に逃げてきたのだという
> その土地の伝説があります。
> この話をドイツ人にしたら「ばかばかしい」とあっさり言われてしまいました。
うーん。この、ウィキさんによると、
「明治期に貿易商として来日したスコットランド人のN. McLeod[1](en:Nicholas McLeod)は、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱し、(明治11年に)体系化した。」
そうなんで、けっこう古くから、この説は有ったらしまっせ。
真偽の程は、朝鮮説より、怪しいのかもしれへんけどーー。
Toshichan in Kyouto-fu
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 | 100 | |