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  • [No.15745] 事故のてんまつ 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/14(Tue) 11:02
    [関連記事

    > 日本を愛したエトランゼのモラエス

    > 日本が気に入って、自分で希望して神戸で領事になり
    > やさしい日本女性ヨネと暮らした。

    > 亡くなったヨネの面影をしのぶため
    > ヨネの墓のある徳島でひっそり暮らしたモラエス。

    ヨネが亡くなってさびしくなったモラエスが
    ヨネの姪コハルと一緒に暮らしたが
    若いコハルには適当にあしらわれていた。

    コハルも死んでしまい、さびしいモラエスはコハルの妹マルエが
    そばに来てくれることを願ったが断られる。

    気持ちがうまく伝わらなかった。
    ヨネの姪の若い娘たちがモラエスに同情とか共感みたいなものが
    少しでもあったら、また違う展開になったろうに。

    こう考えたら
    老作家が心を寄せた若い女性から冷たくされ
    それが引き金となって
    老作家の自殺をまねいたという小説を思い出した。

    ----------

    臼井吉見:事故のてんまつ

    ノーベル賞作家をモデルとした小説で、遺族から訴えられ
    結局この本は絶版になった。しかし、たくさん出回っているから
    古書店でいくらでも手に入るという。
    私は図書館から借りてきました。

    面白いのは
    福島県の医師石田六郎の石川啄木の精神分析がやはり紹介されていること。
    http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15490&mode=allread#15490
    あの自殺したノーベル賞作家は
    孤独な生い立ちだったので
    可愛そうな身の上と思われる女性に
    特に惹かれる傾向があった。
     伊豆の踊り子 駒子 

    ノーベル賞作家の初恋の人は岩手県の女性というのが定説であるが
    その女性は本郷真砂町のカフェで働いていた小娘のような女性であったが
    なぜか作家は気に入ってしまい、彼女が引越しした先の岐阜に訪ねていったのは
    東京帝国大学二年生のとき。(伊豆の踊り子の3年後)

    結局、父親が同意してくれるならと彼女が返事したので
    それではと、作家は応援してくれる友人たち三明永無、鈴木彦次郎、石浜金作らと一緒に
    わざわざ東大の学生服姿で、岩手県まで行って、婚約にこぎつけた。でも、結婚にはいたらなかった。
     なお、鈴木彦次郎は今東光らとともに第6次『新思潮』を継承、新感覚派と呼ばれる文学活動をはじめた作家で、相撲小説、時代小説などの大衆文学に移行し、「両国梶之助」や「常磐津林中(ときわずりんちゅう)」などがある。
     また岩手県立図書館館長、岩手県教育委員長などを務め郷土文化の向上に尽くした。

    さて、事故のてんまつはノーベル賞作家から思いを寄せられ
    迷惑と感じ、それでも父母や周りの人のために我慢して半年だけ
    作家の家の女中となるが、その後に延長を強く求められ、そのしつこさにあきれながら
    自分の気持ちを大切にするため、とうとうやめてしまった娘の話である。

    女中になって作家の車を運転して東京に行くのだが、慣れない東京の道は若いからすぐ慣れてしまう。
    でも、作家がどこへでも彼女を一緒に連れて行くのが、彼女の気持ちの負担になったようだ。
    とうとう皇太子殿下の前に押し出され、作家から姪ですと紹介されると屈辱感を味わう(と小説では一人称で述べられている)。

    強く延長をのぞまれるが、この意志の強い女性は周りの誰から勧められても
    女中を続ける意志はなく、きっぱりと断る。
    娘からはっきりと拒絶され、作家は自殺してしまう。
    作家の亡くなった日の暮れ方に、奥さまが彼女に言う。
    「あなたが、昨日承知してくれていたら、先生は死ななかった。あたしはそう思う」

    これは小説なので、書かれていることがすべてが事実ではないだろう。
    真実もあるだろうが。
    この本の作者はノーベル賞作家の生い立ちが原因の心のゆがみが
    異常な女性観の原因になったという推理を働かせている。
    これもひとつの説だろう。そういうことが原因でノーベル賞作家は、それまで
    彼独特の小説を書いたのかもしれない。

    この小説では、若い娘の一人称の文体で述べられているのだが
    岩手県の初恋の女性も貧しいため小学校も満足に出ていない不幸な過去を背負っているから
    作家は関心を寄せたのだろうと推理している。
    婚約した岩手の初恋の女性からまもなく婚約破棄の通知が届いて
    それがノーベル賞作家に深く心の傷をつけ、それ以後作家はそういう不幸な身の上の女性にとらわれるようになったのではないかと若い娘は考える。
    しかし、この娘は養父母の元で育っているが、自分が不幸せだと考えたことはない。
    実の父母と会いたいという気持ちもない。ノーベル賞作家から一方的に不幸な身の上の娘だと思われていることは迷惑なのだという気持ちがあるようである。

    徳島のかたすみでひっそり暮らしたモラエスと
    ノーベル賞を受賞しながら自殺した老作家
    もしかすると若い女性がなぐさめてくれることがあったなら
    彼らはもう少し楽しい思い出が残ったのかもしれない。
    しかし、人間の感情とか、出会いというものは理屈ではないので
    良い関係もあれば不幸な出会いもあるということでしょうか。


    [No.15744] 山本さとし: 旅の楽しさ 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/13(Mon) 17:01
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    山本さとし: 旅の楽しさ    講談社現代新書536  1979

    旅とは何か
    この本の著者は、旅とは日常からの離脱ととらえている。
    我々は日頃から、家庭や会社や地域社会や趣味の同好会など、いろいろな組織に属しているが
    いったんこの所属する組織から離れて、その制約から自由となり、もちろん恩恵も一時的にすてて
    (新しい土地で二日でも三日でも)「世間を忘れて旅に出かける」のはいいものだと述べている。

    それは命の洗濯になるかもしれないし、新しい発見が得られるかもしれないし、(その反対に)期待を裏切られトラブルに巻き込まれることもある。
    だが、それらの体験はその後の人生にとって何かしら役に立つものである。
    旅に出たため、自分のいたところの良い面と悪い面を発見することもある。旅に出ないと気がつかなかったことでもある。

    この著者が
    過密のスケジュールを立てて張り切って旅に出て、数日もすると疲れ果てて
    とうとう寝坊して予定のバスに乗り遅れたという女性の話を聞いて
    それはただ目的地につくことをのみ問題にして、たくさん見ることになるかもしれないが、しょせんは土地移動を重ねただけで無意味なことだと断定している。
     昔、フランクフルトのゲーテの家で、日本人の観光団体が見学に来ていて、あるお年寄りは疲れ果てて何も見ないで、部屋のソファーにぐったり座ったきりなのを見たことがある。そして、ゲーテの家の受付のドイツ人から「日本人はどうしてこう毎日ここに来るんだろうか」と聞かれたものだった。ゲーテの家を見たくて来た日本人ばかりではない印象だったからではないか。何のために毎日大勢の日本人は来るのか、と疑問に思ったドイツ人というところか。

    著者は三木清の人生ノートの中の一節を紹介している。
    旅の意義とはその過程にあるのであって、ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らないものだというのである。
    過程が主要であるから、途中に注意している者は必ず何か新しいこと、思いがけないことに出会うものである。
    旅において真に自由な人は、人生において真に自由な人であるとも述べている。

    また著者は、歩く旅の楽しさを強調するため
    新幹線や高速バスや飛行機などを使って移動する旅行は
    あわただしく旅の風情がないという言い方をしている。

    それはそうだが、現代の文明の利器を使えばこそ
    来年四月からは、新幹線で青森から鹿児島まで乗り継いでいけるので
    遠いところも旅行計画に組み入れることができるわけである。
    目的地に近いところで新幹線を降りて、各駅停車のローカル線の乗るもよし、地域バスほ利用しても、歩いて村の雰囲気を味わうのもよいと思う。
    それを自宅からすべて歩いていけというのは、(弥次喜多や芭蕉ではあるましい)時間ばかりかかって賢い方法とは思われない。

    またグルメブームに対して批判的で、どこの旅館ででも出てくる刺身や天ぷらや揚げ物などを食べるよりも、その土地の人が日常食べているものを食べるのがよいと書いているが
    これはそういうきっかけがあって運良く土地の人と仲良くなって、そういう食べ物を食べられたら幸運である。
     その土地の人が気楽に食べられる食堂を紹介してもらえれば、そういう店で食べるのがよいのだが。それを土地の人に聞いたり、自分で歩いて探すためには少々時間をかけないといけない。土地の人と一緒にリーズナブルな値段で旬のものを食べられたら一番良い。

    この著者もカメラを携帯してしばしば気に入った風景を写したのであるが
    あるとき気がついた。
    それはカメラで写した写真は、いくら広角レンズを使ったとしても人間の目で見た広い景色を再現できないということである。
    つまり、写真は一部のトリミングになるから、いくらでも強調した作為的な写真がつくられるのである。(塀の破れたところや壁の落書きなど写さなくてよい。実物より良い写真になる)
    旅館のパンフレットやレストランの案内写真でも、一部分だけの表現になるので
    写真で見たとおりを期待していくとたいてい裏切られる。
     写真とはそういうものだから、その機能を強調してつかえばよい。だから、写真はすべてではない。写真で表現できない真実のすばらしさは別にある。


    [No.15743] アクロイド殺害事件 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/13(Mon) 16:09
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    アクロイド殺害事件(アクロイド殺人事件)
    アガサ・クリスティの古典的作品である。一度読んだはずが
    確認のためもう一度読むことにした。(読んでいるうちに内容を思い出した)

    ポアロが引退して田舎にひっそり暮らしているところに殺人事件が起こり
    娘フローラから頼まれて事件解明に乗り出す。

     シェパード医師の姉キャロラインは村一番の情報通で何でも知っている。弟にもずけずけものを言う。
     妻と死別したアクロイド氏と結婚するつもりのこれも未亡人のフェラーズ夫人は誰かから脅かされて大金をゆすられていた。
     娘フローラはポアロに助言されて、ラルフとの婚約発表を二日後にのばすという。
     フローラは伯父アクロイドを喜ばせるために、アクロイドの養子ラルフを受け入れた。フローラとラルフの間には共感と理解がある。

    これは有名な作品なので、前代未聞の大胆なトリックが使われているため
    プロの推理小説作家の間で論争があった。
    推理小説としての暗黙の約束を守っているかいないか
    つまり、フェアかアンフェアかということで、日本の中でも
    江戸川乱歩はフェアだと言ったが、文芸評論家小林秀雄(田川水泡の義兄)はアンフェアと断定したらしい。

    この作品に影響を受けて、横溝正史などもある作品を書いている。
    両方を読み比べればああと思うはずであるが。

    アガサ・クリスティの作品には、日本の推理小説作家に広く影響を与えたものが多く
    推理小説のファンとしても彼女の主な作品は読んでおくべきである。
    オリエント急行殺人事件、 ABC殺人事件、 ナイルに死す(ナイル殺人事件)、そして誰もいなくなった等。

    この作品は、それまでポアロの相棒の役割をはたしていたヘイスティングズが結婚して南米に行ってしまったから、登場しない。
    作者はヘイスティングズの性格に飽きたのか、マンネリをさけるため彼を登場させなかったのかと思ったが
    読み終わってから、そうでないことに気がついた。


    [No.15742] 今日は何の日・9月13日 投稿者:   投稿日:2010/09/13(Mon) 04:53
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    みなさん、今日は
    世界の法の日
    1965(昭和40)年、9月13日から20日までワシントンで開催された「法による世界平和第2回世界会議」で、9月13日を「世界法の日」とすることが宣言された。
    1961(昭和36)年、東京で開催された「法による世界平和に関するアジア会議」で「世界法の日」の制定が提唱され、2年後の1963(昭和38)年アテネで開かれた「法による世界平和第1回世界会議」で可決され、第2回世界会議で宣言されたものである。
    この日とは別に、日本では1960(昭和35)年から10月1日を「法の日」としている。

    乃木大将の日
    1912(大正元)年、乃木希典大将が、明治天皇の大喪の日に、夫人とともに殉死した。
    自宅のあった地に、乃木大将を祀った乃木神社が建てられた。

    司法保護記念日
    司法保護事業団が1933(昭和8)年に、「司法保護デー」として制定。1952(昭和27)年、「少年保護デー」とともに「更生保護記念日」に統合された。犯罪の予防と犯罪者の更正を見守る司法保護司や保護機関の働きを広く知ってもらう日。

    1873(明治6)年、岩倉使節団が帰着
    明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に横浜港を船で出発し、太平洋を渡り、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8ヶ月もの長期滞在となってしまう。その後、大西洋を渡り、欧州各国を訪問、日本への帰国は当初予定から大きく遅れ、出発から1年10ヶ月後の明治6年に帰着した。

    1970(昭和45)年 日本万国博覧会(大阪万博)が閉幕。183日間で入場者数延べ6422万8770人

    1975(昭和50)年 警視庁が要人警護部隊(SP)を創設

    1988(昭和63)年 ダイエーが南海ホークスを買収。福岡に本拠地を移し福岡ダイエーホークスに

    今日の誕生日の花:キキョウ
    花言葉:変わらぬ愛、気品
    今日の一句:かたまりで咲きて桔梗の淋しさよ  久保田万太郎

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15741] 今日は何の日・9月12日 投稿者:   投稿日:2010/09/12(Sun) 05:33
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、9月12日
    水路記念日
    海上保安庁が1947(昭和32)年に制定。
    1871(明治4)年7月28日(新暦9月12日)、兵部省海軍部水路局(海上保安庁水路局の前身)が設置された。

    宇宙の日
    科学技術庁(現在の文部科学省)と文部省宇宙科学研究所が1992(平成4)年に制定。日附は一般公募で決められた。1992(平成4)年、毛利衛さんがアメリカのスペースシャトル・エンデバーで宇宙へ飛びたった日。

    マラソンの日
    紀元前450年、ペルシャの大軍がアテネを襲いマラトンに上陸したのをアテネの名将ミルティアデスの奇策でこれを撃退し、フェイディピデスという兵士が伝令となってアテネの城門まで走りついてアテネの勝利を告げたまま絶命したと言われる日。
    1896(明治30)年アテネで第1回オリンピックが開かれるに当り、この故事を偲んでマラトンからアテネ競技場までの競走が加えられ、初めてのマラソン競走が行われた。

    1952(昭和27)年 溝口健二監督の『西鶴一代女』がベネチア国際映画祭でグランプリ

    1959(昭和34)年 小沢征爾がブザンソン国際指揮者コンクールで第1位

    1966(昭和41)年食品のコールドチェーン(低温流通)第一号として福島のキュウリが東京の実験店で販売される

    1979(昭和54)年 人形峠のウラン濃縮試験工場操業開始。濃縮ウラン国産化へ

    1992(平成4)年 全国の国公立の学校で月1回の週5日制が開始

    今日の誕生日の花:ツリフネソウ
    花言葉:安楽
    今日の一句:瀬は迅し釣舟草の揺れもせず  森田峠

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15740] アフリカを食い荒らす中国 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/11(Sat) 08:19
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    アフリカを食い荒らす中国

    著者のセルジュ・モッシェルはフランスのル・モンド紙の西アフリカ特派員
    もう一人の著者ミッシェル・ブーレはスイスのレブド誌の外事課長
    訳者は中平信也
             河出書房新社  2009年

    中国人は石油を掘り出すと
    中国人の民兵が警備する
    中国製パイプラインで
    中国人が建設した港まで運び
    中国向けの中国製タンカーに積み込む。
    道路、橋梁、そして
    数万人の故郷を奪った巨大ダムを
    建設する中国人。
    中国料理しか食べないために
    中国から食料品を輸入する中国人。
    輸入できない中国野菜を
    現地で栽培する中国人。
    そして
    人道に対する罪を犯す国を武装させ
    国連安全保障理事会で
    絶えずその国を守る中国人。

    最も中国人の多い南アフリカでは、タボ・ムベキ大統領の弟メレスティ・ムベキが、2005年末に次のように書く。
    「アフリカは原料を中国に売り、中国は加工品をアフリカに売っている。これは、アフリカとアフリカを植民地化した列強とのかつての関係とそっくりだ。(中略)アフリカが自らの工業化のために資源を温存するだけでは十分ではない。中国がある程度工業化したアフリカ諸国の脱工業化のために協力する必要がある」
    中国にとり、アフリカ関係で「植民地」という用語を使うのはタブーである。この言葉が使われると、中国政府は不快感に似た怒りをずっともつことになる。
    タボ・ムベキ大統領は弟の指摘を心にとめ、やがてそれを口に出すようになる。
    同大統領は2006年末、南アフリカの学生を前に講演会で、中国との不平等な関係に安住すべきではない、不平等な関係は植民地とその支配者との関係と同じだと述べ、強い警戒感をもつよう聴衆に呼びかけた。
    中国はこれに対して、レーニンの「植民地の争奪を行う帝国主義は、資本主義の最高段階である」という言葉を引用するにとどめた。
    つまり、共産主義ではそんなことは起こらないというつもりだ。
    だが、毛沢東が墓の中で反省したくなるような不平等と物欲があらわな中国式共産主義なら、以前の植民地主義者と同じことを行わないのだろうか。

    特に2008年11月に24人の中国人が誘拐されて殺害されたスーダンでは、中国人が殺されてはじめて、中国に敵対するグループがあることがわかったらしい。
    ザンビアやアンゴラでの親中国派の没落、ナイジェリアやエチオピアでの中国人の大量誘拐、アルジェリアでの中国人キャンプへのテロ攻撃がある。

    独裁者の武器はメイド・イン・チャイナ
     2006年3月30日、数百人の反乱部隊がスーダン国境を極秘に越えてチャド領内に侵入し首都に向かって進撃した。チャドのイドリス・デビ大統領を失脚させるためである。彼らは中国製の武器をもっていた。
    実はそれ以前に、ナイジェリアの中国領事がチャドの反政府派を招待して同盟関係を結ぼうとしていた。このようなチャド侵攻が中国政府のお墨付きで企てられたということを示す証拠はいくつもある。
    親中国の中央アフリカ共和国との国境からも、中国製の武器で武装した別の部隊がチャドに侵攻した。

    独裁者デビは国際社会でもまったく人気がない。そして、チャドはまだ台湾との外交関係がある。中国としては、チャド政権を転覆させ、親中国派・親スーダン派の傀儡政権ができてほしいと考えたのだろう。
    だが、フランスの支援で首都は守られた。

    ここで中国とチャドの独裁者は取引をした。独裁者は、中国からの庇護を獲得し、フランスの半監視状態から開放され、自らの権力を永遠に温存することに成功した。

    2006年夏、攻撃を受けてから4ヶ月後のチャドの権力者は、これまで良好だった台湾との外交関係を断絶し、ひとつの中国しか存在しないと高々に宣言した。中国にとっては、今回の軍事支援作戦が決定的な成果をもたらしたことになる。反政府勢力へのわずかな軍事支援で、一国がまるまる自陣営に転がり込んできたからだ。

    このように、中国がアフリカで反政府軍に加担したり、反政府軍を弾圧するために政府軍に加担したりしはじめたのである。
    つまり、ロシアや米国は自国の利益のために世界のいたるところで戦争の片棒を担いでいるが、それと似たことを中国がアフリカではじめたのだ。
    けれども、ここで注目すべきは、反響を呼んだ2006年6月のアムネスティ・インターナショナルの報告書の中で確認されている通り、中国が世界の主要な武器輸出国となったことである。この報告書は、「常軌を逸した人権侵害を犯している国々に、豊富な軍事・防衛・治安関連の物資を提供している」と中国を強く非難している。
    このような非難はすべて、チャド反乱軍による首都攻勢の前のことだ。このため、アムネスティの報告書の内容に疑問をもっていた人も、反乱軍のメイド・イン・チャイナの兵器を見て、現実に目覚めたのである。中国の軍事産業が長足の進歩を遂げたのは、1980年代初頭のことだ。

    建設・都市化・住環境・森林改革省大臣ンシルは、コンゴ政府の中でもふんだんに予算を与えられ、中国人と直接に交渉することができる稀な権限をもっている。彼はイタリア留学した建設工学博士である。
    「中国人は素晴らしい。アルフォンス・マサンバ競技場、外務省の建物、テレビ局をつくってくれたが、今度はインブールー・ダム、プラザビルの上水道給水網に空港だ。これからつくるものとしては、ボワントノワールとプラザビルを結ぶ高速道路がある。中国人は、住居の建設とともに、川沿いに遊園地もつくってくれることになっている。どれも中国と協議を行い、建設が決まったものだ。契約書はもちろんサイン済みだ。あなたがたフランス人にとっては残念なことだろうが、中国人はまったく素晴らしい」
      このあと建設現場で中国の建設会社に雇われて働くコンゴ人労働者の不満が述べられているが、省略。

    コンゴ共和国にも労働基準法はある。月簡20日の就労に対して最低でも5万CFAフラン(約1万円)、日給で2500CFAフラン(約500円)を払わなければならないと定めている。
    だが、バコンゴの現場でこの最低賃金をもらっているのは専門工だけだ。
    ンシルはコンゴ人労働者の権利の擁護者を自負している。だから、中国人には厳しい態度で臨んでいるという。
    「私が手がけた工事現場では、どこでも最低賃金が守られ、厳密なチェックを行っている。中国人には小銭をピンハネする習慣があるからね。でも、ここにくる中国人には使命感のようなものがある。中国にとって企業は征服の道具だからね。中国は千年前のように世界の征服者になりたいのだろう。アフリカが欧米から見捨てられ手つかずの市場だということを理解している。入り込んで征服してやろうと考えているのだ」

    彼の邸宅で、中国人に殴られたコンゴ人労働者の話をしてみた。
    ンシルの顔つきは厳しくなった。
    「コンゴ人は中国人じゃない。コンゴ人にはコンゴ人のライフスタイルがある。中国人は忙しいと三交代で働く。だから、夜も働く。だが、コンゴ人は、三交代労働なんかしたくないと思っている。休息の時間も労働の時間と同じように大切だからね。肉体的な限界を超えて働かせることは虐待だ。そんなことはやめろと、わが政府は言っている私はコンゴ人に暴力をふるう中国人を許さないだろう。実際、すでに何人もの中国人を本国に送還している」


    [No.15739] フランケンシュタイン 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/11(Sat) 07:08
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    世界こわい話ふしぎな話シリーズの第1巻(全12巻) 金の星社 1984
    子ども向きの本だが、いちおう名作を読んでおこう。

    17××年 北極をめざす船が回りを氷原にとりかこまれながら進んでいた。
    一台の犬ぞりが北に向かって走っていた。犬ぞりには巨人のような人間が一人乗っていた。
    船は氷に囲まれて進めないから翌朝まで待っていると
    別の犬ぞりが大きな氷に乗って船のほうへ流されてきた。
    船長たちは
    その犬ぞりの男ビクター(ヴィクトール)・フランケンシュタインを助けて、彼から恐ろしい話を聞いた。

    ジュネーブ生まれのビクター・フランケンシュタインはインゴルシュタットの大学で化学を勉強して、生命のみなもとを研究しているうちに、生命のみなもとを発見した。
    そして、彼は人造人間をつくる。
    (いっぱんに言われている怪物フランケンシュタインは、作った科学者の名前がフランケンシュタインであり、作られた人造人間のことではないのだが、怪物の名前として知られている)
    こうして作られた男は顔が醜かったため、人々に親切にしても迫害されて続けて、やがて心もすさんで、人間たちに復讐をするようになる。

    特に自分を作ったビクター・フランケンシュタインに対しては憎しみが大きく
    彼の兄弟や妻や親友まで殺してしまう。がさすがに作ってくれたビクター・フランケンシュタインは殺さず、北極をめざして逃げてしまったので、ビクター・フランケンシュタインが彼を追っていたのだ。

    この恐ろしい話をし終わってビクター・フランケンシュタインはやがて船内で死ぬ。
    いつのまにか現れた大男は自分を作ってくれたビクター・フランケンシュタインの前で泣く。
    泣き終わって、船長に自分も死ぬことを告げ氷に乗って去っていった。

         ▼   △   ▼

    イギリス人作家メアリ・シェリーによって書かれた
    人造人間の物語

    なんと彼女は19歳の時に、この奇怪な物語を執筆したのである。
    彼女は1797年8月30日、ロンドンに生まれた。
    彼女が16歳の時、社会主義の先駆者として知られる父
    ウィリアム・ゴドウィンの思想に共鳴し、
    同家に出入りするようになった、青年詩人パーシー・ビッシュ・
    シェリーと恋に落ちた。

    しかし、シェリーにはすでに妊娠していた妻ハリエットがいた。
    メアリは義妹ジェーン(後にクレアと改名)を伴い、
    シェリーと駆け落ち同然で大陸へと旅立つ。
    以後、彼ら3人は大陸諸国やイギリス各地を転々とする放浪の日々をおくり、
    その間にメアリは、長女(生後すぐ死亡)と長男ウィリアムの2子を出産
    している。

    1816年5月にスイスのジュネーヴに赴いた3人は、友人の
    バイロン卿と侍医ポリドリが滞在するレマン湖畔のディオダティ荘で、
    ひと夏を過ごすことになった。
    天才詩人バイロン卿は、当時クレアと愛人関係にあり、彼女はその子を身ごもっていた。

    別荘ではやがて彼らは、当時はやっていたオカルト科学をめぐる議論や、
    ドイツの怪談本を楽しむようになった。

    ある日、バイロン卿が「めいめいが怪談話を書いてみよう」と提案した。

    だが、文才ゆたかな二大詩人であるバイロンとシェリーは途中で投げだしたのに
    対し、素人のメアリとポリドリが、怪奇小説史上に残る名作を書き上げたのである。

    ポリドリは、バイロンが残した謎めいた断片をもとに「吸血鬼」を書いた。
    この短編は後に舞台化され、「ドラキュラ」などの吸血鬼文学流行のはしりとなった。

    1816年10月 メアリの母方異父姉ファニーが、服毒自殺をとげる。
    同年12月 妊娠中の妻ハリエットが池に身を投げ、メアリとシェリーは正式に結婚。
    1817年5月 メアリはフランケンシュタインの物語を書き上げた。
    1818年3月 「フランケンシュタイン」出版された。
    同年9月 娘クララがヴェネツィアで病死、
    翌年6月 長男ウィリアムも、熱射病のためローマで死亡。
    1822年7月 滞在先のスペチア湾で、ヨットが転覆して夫シェリー死亡。
    1821年12月 ポリドリが服毒自殺。
    1822年4月 妹クレアとバイロンの娘アレグラ病死。
    1824年4月 バイロン卿、ギリシアで病死。
    メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」の執筆にとりかかってから、
    わずか8年余で関係者全員が、不可解な死をとげた。

    18世紀後半にフランケンシュタインの亡命家族がジュネーブに実在した。
    フランケンシュタイン家は15世紀まで、バイエルンの北部
    (フランケン地方、この地のフランケン・ワインは優秀ワインとして有名)に、かなりの領地を所有していたらしい。
    しかしルター派に属していた一族は、反宗教改革の勢力によって
    同地を追われ、ジュネーヴを拠点に新たな生活を始めることになった。
    フランケンシュタイン家の子孫は、特にジュネーヴの法曹界で頭角を現し、
    法学者、弁護士、判事を輩出した。

    この一族の末裔にヴィクトール・フランケンシュタインという天才科学者がいた。
    すでに3歳で家庭教師から、書き方、初等教育、読み方の手ほどきを受けていた
    という記録が残されている。
    有能な家庭教師のもとで植物学、化学、数学の才能を開花させていった。
    彼は17歳でインゴルシュタット大学に入学し、解剖学と生理学を専攻した。
    彼の才能に注目した著名な化学者ヴァルドマン教授の理解ある指導のもとに
    ヴィクトールは長足の進歩をとげ、入学後2年間で、もはや大学から学ぶ
    べきことは何もないまでになった。
    このフランケンシュタインの、異常なまでの電気刺激による生命蘇生の実験
    とその失敗を記録した日記が残されているという。

    蛇足
    さて、このフランケンシュタインという言葉について、語源の説明です。
    Frankenstein:
    Franken(フランケン族 ドイツ民族の一派)の石で造った城(Stein)
    フランケン族の領主は石の城に住んでいたので、Frankenstein と名乗ったのかも
    しれない。
     なお、
     たとえばドイツ民族の中のアングロ族とザクセン族が
     ローマの兵隊になって、イギリスの島に渡り、
     それが今日のイギリス人の先祖になったので
     イギリス人のことをアングロ・サクソンと呼ぶと
     説明されています。

    Frankfurt:
    Frank (フランケン族)が歩いて渡ったという
    furt(浅瀬)
     ドイツには Ochsenfurt という地名もあります。
     これは雄牛が歩いて渡るほどの浅瀬という意味です。
     イギリスの 0xford も同じ意味といいます。


    [No.15738] 今日は何の日・9月11日 投稿者:   投稿日:2010/09/11(Sat) 05:36
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、9月11日
    公衆電話の日
    1900(明治33)年、日本初の自動公衆電話が、東京の新橋と上野駅前および熊本市内に設置された。
    当時は「自動電話」と呼ばれていて、交換手を呼びだしてからお金を入れて相手に繋いでもらうものだった。1925(大正14)年、ダイヤル式で交換手を必要としない電話が登場してから「公衆電話」と呼ばれるようになった。

    警察相談の日
    警察庁が1999(平成11)年に制定。
    警察への電話相談番号「#9110」から。
    #9110に電話すると警視庁と各道府県警察本部に設置されている総合相談室につながり、この日に限らず1年中、各種事件の困りごとの相談に応じる。

    1937(昭和12)年 旧水戸藩後楽園の一部に建設された後楽園球場が開場

    1945(昭和20)年GHQが東條英樹ら戦犯容疑者39人の逮捕を指令

    1949(昭和24)年明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始

    2001(平成13)年 アメリカで同時多発テロ。ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンの国防総省にハイジャックされた航空機3機が突入、1機が墜落。貿易センタービルが崩潰。死者数千人

    今日の誕生日の花:ソバ
    花言葉:あなたを救う
    今日の一句:蕎麦の花無声映画のごとき村    村上喜代子

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.15737] Re: 今日は何の日・9月9日 投稿者:   投稿日:2010/09/10(Fri) 14:24
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    みなさん、まいど。

    > 今日は何の日、9月9日

    > 救急の日
    > 厚生省(現在の厚生労働省)が1982(昭和57)年に制定。
    > 「きゅう(9)きゅう(9)」の語呂合せ。
    > 救急業務や救急医療について一般の理解と認識を深め、救急医療関係者の士気を高める日。

     まるっきり、違う話しかも、分かりまへんけど、大病したとき、救急車に載せられた
    ことが、ありまんねん。幸い、後遺症は有るけど、まだ、生きてまっけどね。
     ところが、こんなんに載せられたら、再発作が起る、思う位、揺れて乗り心地が悪い。

     載せられた経験者は全員、乗り心地が悪かった、云わはりまんねんけど、どういう理由で
    そうなってるんか、ご存知の方があったら、ご教示くれはりまへんか?。

     自動車産業で、稼いでる国の、救急車とは、思えへん。

     一説には、救急車の乗り心地が、良かったら、タクシー代わりに使う人が増えて、困るんや
    いう、説は、聴きましてんけどーー。

                         Toshichan in Kyouto-fu


    [No.15735] 大城のぼる:愉快な鐵工所 投稿者:男爵  投稿日:2010/09/10(Fri) 07:42
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    昭和16年の漫画の復刻版

    気球に乗って、満州に行き、鐵工所を見学するという話。

    日本のストーリー漫画において
    その映画的コマ割りというのを発明したのは手塚治虫であるというのが定説になっているが
    どうやら手塚治虫は大城のぼるの影響を受けたらしい。
    日本のストーリー漫画の開拓者で、映画的コマ割りを最初に使ったのは
    大城のぼるだったというのが最近の研究のようである。

    旭太郎作・大城のぼる画「火星探検」は、すぐれたSF漫画で
    手塚治虫や小松左京氏などに大きな影響を与えたと言われている。


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