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[No.15692]
渡辺護:ハプスブルク家と音楽
投稿者:男爵
投稿日:2010/08/31(Tue) 07:46
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オーストリアのハプスブルク家と音楽の都ウィーンの輝かしい伝統について述べた本である。
ハプスブルク家の音楽愛好の伝統は、それ以前にオーストリアを統治していたバーベンベルク家の伝統を踏襲したものである。
ハイドンはハプスブルク家からはあまり恩恵を受けなかったが、それにもかかわらず彼は「皇帝讃歌」の作曲によって王家へのオマージュを捧げた。
この曲は、オーストリア国歌として採用されたばかりでなく、ドイツ国歌の旋律ともなり、またフリーメーソンの組合歌ともなった。イギリス教会讃歌にもその一部が使われている。
マリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世は、母以上に徹底した改革を行おうとしたため母子の間でことごとく意見が対立した。
母の死の後、新帝は矢継ぎばやに改革を断行した。
ヨーゼフの施策が基本的には善意から出た進歩主義や民主主義の思想に裏づけられていることは、カトリック以外の宗教に対する寛容令、出版の自由などを認めさせていることでもわかる。
しかし、一方では教育や病人看護をしていない教団や僧院を解散させ、教会に対する国家給付金を縮小している。
農奴を解放し、女性にも義務教育を課し、拷問を廃止し、ヨーロッパ最大の病院を設立した。
マリア・テレジアは嫌悪したプロイセン国王フリードリヒ大王にヨーゼフ二世は反対に敬意を払った。
ヨーゼフ二世もフリードリヒ大王も、啓蒙思想の影響を受けている点では共通しているが、フリードリヒ大王はフランス文化を崇拝し、フランス思想の影響下にあったのに対して、ヨーゼフはドイツ的なものを強調する傾向にあった。
ヨーゼフ二世は音楽を愛し、自分なりの見識をもっていたが、モーツァルトの音楽をあまり高く評価しなかった。
モーツァルトが不遇であったもうひとつの原因は、ザルツブルク大司教と反目し、ザルツブルクから追放されたことにある。
ヨーゼフ二世はザルツブルク大司教の不興を買いたくなかったので、大司教に追われたモーツァルトを優遇することにためらいがあったのだろう。
ベートーヴェンがボンで音楽教育を受けたのは、結局はハプスブルク家の保護を受けたことになる。
当時のボンを統治していたマクシミリアン・フランツはマリア・テレジアの息子であり、ヨーゼフ二世の弟であった。オーストリア大公、ケルンの選挙侯兼大司教という照合をもつ彼は、若いベートーヴェンの才能を認め援助の手をさしのべた。
こうしてベートーヴェンが音楽を学ぶためウィーンへ送られることになったが、結局ハプスブルク家の傘下にとどまったという点では変わってはいない。
ウィーンに行ったベートーヴェンが浅くない関係を保ったのは、ハプスブルクといっても、その頭首レオポルド二世やフランツ二世ではなく、その親族にあたる高級貴族たちであった。
前代のマリア・テレジアやヨーゼフ二世でも一般の音楽生活に対する支配力や影響力は弱まっていたが、ベートーヴェン時代には音楽のいとなみは貴族たちやさらには市民社会にその中心が移ってしまっていた。
まだ知らなかったハプスブルク家の歴史や音楽の造詣の深さを勉強することができた。
音楽家による音楽家のための本のようで、ウィーンに関係する音楽家たちのその音楽性や社会的な出来事(迫害されたり優遇されたり)について述べてある。
[No.15691]
今日は何の日・8月31日
投稿者:
投稿日:2010/08/31(Tue) 05:39
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みなさん、今日は
今日は何の日、8月31日
野菜の日,ベジタブルデー
全国青果物商業協同組合連合会など9団体の関係組合が1983(昭和58)年に制定。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合せ。
独立記念日 (マレーシア)
1957(昭和32)年、マラヤ独立宣言により現在の西マレーシアがマラヤ連邦として独立しイギリス連邦内の独立国となった。
1963年にはシンガポールと東マレーシアを加えてマレーシア連邦を結成し、1965(昭和40)年にシンガポールが分離独立して現在の形になった。
1949(昭和24)年 キティ台風が相模湾から真鶴岬に上陸し関東地方に来襲。死者135人、行方不明25人
1977(昭和52)年 競輪の中野浩一が世界自転車選手権大会のプロスクラッチで初優勝
1997(平成9)年 イギリスのダイアナ元皇太子妃がパリ市内で交通事故死
今日の誕生日の花:ホウセンカ
花言葉:快活
今日の一句:父と来ておとなしき子や鳳仙花 後藤比奈夫
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15690]
あわや、ティツィアーノが
投稿者:
投稿日:2010/08/30(Mon) 22:55
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29日よる、イタリアはヴェネツィアのサンタマリア・デッラサルーテ教会の近くで火災が起こり、ティツィアーノの名作「ダヴィデとゴリアテ」が損傷を受けたというニュースが飛び込んできた。
近くにいた者の話では、よる10時ごろに爆発音のようなものが二度ほど聞えたという。消防が時を移さず現場に急行、火は一時間以内に消し止められた。火災の原因は不明。放火か事故かもハッキリしていない。火元はバジリカに隣接する神学校(屋根の二箇所で火の手が上がった)らしい。
またティツィアーノも、火炎にやられたのではなく、消防ポンプの水をかぶっただけ、しかもその水も塩水ではなく、真水だったので心配は要らない、と。もちろん、この絵は、検査の為、取り外されることになる。
絵は幅3メートル、高さ3メートルの大きなもので、12メートルの高さから吊るしてあった。他の重要作品は、たまたま修復のため別の場所にあったのでなんらの損傷も受けなかった、と。
そこには、ダヴィデ少年が、巨人ゴリアテにいどみ、見事巨人を打ち負かす聖書の物語が、現されている。
ヴェネツィアは96年にも火事があり、このときは世界的に有名なフェニーチェ劇場が完全に焼け落ちた。
[No.15689]
Re: 今日は何の日・8月29日
投稿者:
投稿日:2010/08/30(Mon) 12:04
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KAME(亀井)さん
いつも有難うございます
> カサブラン忌
> イングリッド・バーグマンの誕生日であり命日(1915〜1982)
> さんらく亭さんが命名「カサブラン忌」
ご採用いただきありがとうございました
故人も草葉の陰から喜んでいることでしょう
[No.15688]
海外の建設工事に活躍した技術者たち
投稿者:男爵
投稿日:2010/08/30(Mon) 08:19
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土木の歴史絵本 第5巻
青山士 八田與一 久保田豊
かこさとし作
札幌農学校で内村鑑三たちと学んだ廣井勇は、米国留学の後、東大教授となる。
廣井勇は、仕事と人格を通じ、机の上での勉強だけでなく実際に役立つ技術を伝えることをめざした。
土木の仕事とは、ほんとうに人々の役に立ち人生を豊かにするためにあるのだと、学生たちに熱をこめて教えた。
そうした師廣井の教えを胸にいだいて海外で活躍した教え子がいた。
青山士、八田與一、久保田豊などである。この巻ではこの3人がなぜ外国に行ったのか、海の向こうでどんな仕事をしたのか、そして、海の向こうの人たちがその仕事をどのように見ていたのかをたどることにしよう。
青山士 磐田市出身 パナマ運河工事で7年半働く。荒川放水路を建設する。信濃川大河津分水可動堰を完成させる。
八田與一 金沢市出身 台湾の嘉南平原かんがい計画を立てる。嘉南大しゅうを完成させる。
久保田豊 熊本県宮地町出身 鴨緑江に水豊ダムを完成させる。日本工営を立ち上げ海外でコンサルタント業をする。
「土木の歴史絵本」完結によせて
土木建設の仕事は「汚い・きつい・危険」のいわゆる3Kの世界で、それに携わる人々は誠にご苦労なことであるが、内情にくわしい方に聞くこと、さらに「金」のかかる4Kだという。工事には多額の費用が必要となるけれど、個人の資金などではなく、国や地方の税金、公共予算がうごめくため、忌まわしい事件や疑惑が後をたたないとのことである。そうしたなか、本シリーズを読まれた新聞人から、相変わらず続く建設土木界の談合・腐敗体質を嘆き、本巻で描かれている先人たちの品格ある信念、高潔な人格に恥ずべきことを指摘された。
(北海道新聞 1999年11月)
子どもの絵本ではあるが、土木学会が支援している本なので土木史の裏づけがある。
この3人をもとに土木学会は土木技術者の映画を製作した。
しかし、当時世界一の水豊ダムをつくった久保田豊をはずしたのは残念なことであった。
[No.15687]
技術と情熱をつたえた外国の人たち
投稿者:男爵
投稿日:2010/08/30(Mon) 08:12
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土木の歴史絵本 第3巻
モレル ブラントン デ・レーケ ケプロン
かこさとし作
明治のはじめ頃から来日した「おやとい外国人」たち
鉄道を建設したイギリス人
若い技師長モレル
モレルの死後あとをついだダイアックとイングランド
灯台や街づくりをしたイギリスの技術者
灯台技師長ブラントンは横浜都市計画もする
水道つくったパーマーは横浜港もてがける
港や川の工事をおこなったオランダ人
技師長ファン・ドールン
大阪淀川港改良のエッセル(だまし絵エッシャーの父)
利根川改修計画のリンドウ、三角港のムルデル
長年日本の河川工事に取り組んだデ・レーケ
開拓と教育への情熱
北海道開拓顧問ケプロンと札幌農学校教頭クラーク
工部大学校指導ダイアー
よい外国人が来て、良心的な仕事をした。
かれらの技術をみごとに受け継いだ日本人たち。
横浜や札幌を歩くと、彼らの足跡が今でも感じられる。
[No.15686]
今日は何の日・8月30日
投稿者:
投稿日:2010/08/30(Mon) 05:34
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みなさん、今日は
今日は何の日、8月30日
富士山測候所記念日
1895(明治29)年、富士山頂に野中測候所が開設した。
大日本気象学会の野中至が私財を投じて建設したもので、現在の気象庁富士山測候所の前身となった。
マッカーサー進駐記念日
1945(昭和20)年、連合国日本占領軍最高司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した。
冒険家の日
1970(昭和45)年に植村直巳がマッキンリーに単独登頂し、1965(昭和40)年には同志社大学南米アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川の源流から130kmを世界で初めてボート下りし、1989(平成元)年に堀江謙一が小型ヨットで太平洋を横断した日。
ハッピーサンシャインデー
「ハッピー(8)サンシャイン(30)」の語呂合せ。
太陽のような明るい笑顔の人のための日。
1962(昭和37)年 戦後初の国産機YS-11型機が初飛行に成功。小牧空港から伊勢湾沖を56分間
1963(昭和38)年アメリカのホワイトハウスとソ連のクレムリンの間を直接結ぶホットラインを開設
1965年(昭和40)同志社大学のグループがアマゾン川をゴムボートで川下り
1974(昭和49)年 東京・丸の内の三菱重工ビルで過激派による時限爆弾が爆発。死者8人
今日の誕生日の花:キツネノカミソリ
花言葉:妖艶
今日の一句:ぽっと日の当たるきつねのかみそりよ 石田郷子
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15685]
今日は何の日・8月29日
投稿者:
投稿日:2010/08/30(Mon) 04:15
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みなさん、今日は
今日は何の日、8月29日
文化財保護法施行記念日
1951(昭和26)年に制定。
1950(昭和25)年、国宝・重要文化財等を保護するための基本となる法律「文化財保護法」が施行された。前年1月26日に法隆寺金堂が全焼したのをきっかけに、文化財保護政策の抜本的改革が望まれ、従来の「国宝保存法」「重要美術品等保存法」「史蹟名勝天然記念物保存法」をまとめた「文化財保護法」が制定された。
焼き肉の日
全国焼き肉協会が1993(平成5)年から実施。
「やき(8)に(2)く(9)」の語呂合せ。
地域社会への貢献と販売促進を目的とし、全国各地の加盟店が、社会福祉施設等をお店に招待したり、出張バーベキュー等を行っている。
ベルばらの日
1974(昭和49)年、宝塚歌劇で「ベルサイユのばら」が初演された。
池田理代子原作の劇画を脚色したもので、1976(昭和51)年の上演打ち切りまでに延べ140万人の観客動員を記録した。
ケーブルカーの日
1918(大正7)年、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道(近鉄))の子会社生駒鋼索鉄道が、奈良県生駒山の鳥居前〜宝山寺間で日本初のケーブルカー(現在の近鉄生駒ケーブル)を開業させた。
カサブラン忌
イングリッド・バーグマンの誕生日であり命日(1915〜1982)
さんらく亭さんが命名「カサブラン忌」
1926(大正5)年 第2回国際女子陸上競技大会で人見絹枝が個人総合優勝
1959(昭和34)年 三井鉱山が4580人の希望退職要求などの「第二次企業整備案」を提示。三井三池争議が始る
1977(昭和52)年ナイロビで国連砂漠会議開催
今日の誕生日の花:ミズアオイ
花言葉:前途洋々
今日の一句:流星や旅の一夜を海の上 下村ひろし
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.15684]
こおろぎ
投稿者:
投稿日:2010/08/29(Sun) 18:16
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槌田満文氏によると、きょう8月29日は尾崎一雄の幼かった次女圭子が、防空壕のうえの草むらにひそむ、ころろぎにおしっこを掛けた記念すべき日であったようだ。尾崎の「こおろぎ」という作品にそれが書かれているらしい。
読んだ人によると、非常に感動的な物語だそうだが、家庭内で父親に話したささやかな想い出を、いちいち本や雑誌に書かれてはたまらぬ。
あっしの親父が、作家でなくてホントによかったと、思わず胸を撫で下ろした次第である。(^_-)-☆
[No.15683]
釣りキチ三平の釣れづれの記 平成版
投稿者:男爵
投稿日:2010/08/29(Sun) 11:15
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矢口高雄の本名は高橋高雄
釣りキチ三平はその名前を尊敬する白土三平から拝借したという。
(なにしろ生まれる子どもにつけようとした名前だった。が、娘二人しか生まれず、息子につけることはできなかった)
ガロの編集長に頼んでも、白土三平は人嫌いだから会えないと断られ
弟子に頼んで白土三平の仕事場に入ることができ、憧れの白土三平と話ができたのだった、
釣りキチ三平の姓は三平(みひら)で、これは秋田出身の大毎オリオンズの三平春樹からやはり拝借したという。
だから、釣りキチ三平は三平三平(みひらさんぺい)となる。
作者の本名が高橋高雄という名前で、その印象に似せてつくったらしい。
高校卒業後銀行員生活を12年続けて
やはり漫画家になりたいという夢があきらめられず
ガロに漫画が載ったことをきっかけに銀行を退職して背水の陣で漫画家をスタートした。
しかし、堅実な性格で描く漫画は最後までの筋を考えてから描くし
雑誌社から新しい連載など頼まれても、自分のペースを守って
無理な仕事はしないようにした。
締め切りをきちんと守る数少ない漫画家として出版社の世界では有名だったという。
東北出身、かつ銀行員という職業から身につけた真面目さが
この漫画家の身上かもしれない。
昭和48年
「釣りマンガ」連載の要請が出版社からあったが
著者はすぐ引き受けなかった。
それまでの経験で、準備不足のままスタートして、(本人によると)少年誌二連敗の苦い経験から
まず一、二本読みきりを描いて自信がついたら連載をしたいと出版社に頼んだ。
そして
発表したのが「幻の怪蛇・バチヘビ」だった。
バチヘビとは秋田の言葉で、一般にはツチノコと呼ばれる幻の蛇である。
小学生のとき友だちと見たバチヘビの印象をマンガニしたしたものだったが
このマンガで彼は一躍人気マンガ家となることができた。
昭和48年といえば1973年になる。
それから全国でツチノコのブームが巻き起こったらしい。
私がツチノコを本格的に知ったのは「ちびまる子ちゃん」のマンガであった。
調べてみると「ちびまる子ちゃん」4巻に、まる子とたまちゃん、そして丸尾君がツチノコを捕まえて懸賞金をもらおうとする話が載っている。
このコミック本は1989年発刊のもので、雑誌に連載されていたのはおそらく1年前であろう。
この本の中で「いまから十数年前、まぽろしのヘビ:ツチノコの話題が日本中をかけめぐった」と書かれている。
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