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  • [No.16472] 頑張って「宮崎県」 投稿者:   投稿日:2011/01/29(Sat) 17:03
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    宮崎県の方へ

     宮崎県、大変ですね。

     どうぞ、めげないで頑張ってください。

     そのうち、きっと「ハヤブサ」や「こうのとり」のような
     健気な、いい鳥が、飛んできます。

     噴火も収まります。

     風邪の流行も下火になります。


     何もお役に立てないけれど、心のなかで応援しています。

     フレー! フレーっ 宮崎っ。


    [No.16471] 梅津時比古:「セロ弾きのゴーシュ」の音楽論 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/29(Sat) 09:07
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    オーケストラ団員のセロ弾きのゴーシュは下手で
    練習の時も、指揮者からたびたび叱責される。
    ゴーシュの演奏はみなから遅れたと叱られ
    音程が合わないと叱られる。
    しかし、「これはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした」と説明される。

    弘法筆を選ばずではないが、やはり名人は楽器を選ぶ。
    ヴァイオリン演奏家はストラデバリをありがたがるものである。

    賢治が楽器の個体差に気づく直接的なきっかけとなったのは
    大津三郎の下でレッスンを受けたことと
    盟友、花巻高等女学校の音楽教師の藤原嘉藤治のセロと賢治のセロとを比較する体験をもったことが
    考えられる。

    花巻でセロを練習していた賢治は、上京して新交響楽団のチェリスト大津三郎に三日間だけ指導を受けた。
    朝六時半から八時半までの早朝レッスンを三日間だけ受け、基礎を教えられたのだが
    結局は賢治のセロは上達しなかったという。

    賢治のセロは鈴木バイオリン製で定価百七十円だった。父からせしめたお金でこのセロを買った賢治は、父親には高額なセロを買ったことを話さなかったという。
    いっぽう
    藤原嘉藤治のセロは十五円で手に入れた中古品で、それには大きな穴が開いていたという。
    盛岡の音楽会に藤原嘉藤治が花巻を代表して出ることになった際に
    それではあんまりだと、賢治が自分のセロを貸してやり、代わりにその穴あきのセロが賢治の手元に置かれた。

    穴あきセロを見てから
    賢治は
    セロ弾きのゴーシュの話の中で
    野ねずみ親子が訪ねてきて、セロの音で子ねずみの血のまわりをよくするという治療を母ねずみから提案され
    セロの穴から子ねずみがセロの中に潜り込む場面を考えたのではないかと推察される。

    賢治は亡くなり、穴あきセロも賢治の遺品とともに花巻の空襲で焼失してしまう。
    しかし、藤原嘉藤治が大事に使っていた高価なセロは藤原嘉藤治の死後に返され
    それは宮沢賢治記念館に展示されてある。
      情けは人のためならず。


    [No.16470] 今日は何の日・1月29日 投稿者:   投稿日:2011/01/29(Sat) 05:35
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、1月29日
    人口調査記念日
    1872(明治5)年、日本初の全国戸籍調査が行われた。
    当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人だった。

    南極の日,昭和基地開設記念日
    1957(昭和32)年、日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。
    この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、南極大陸には日本を始め12か国による観測網が敷かれた。

    タウン情報の日
    タウン情報全国ネットワークが制定。
    1973(昭和48)年、日本初の地域情報誌『ながの情報』が発行された。

    1940(昭和15)年 大阪府の国鉄西成線・安治川口駅附近でガソリンカーが脱線転覆し炎上。死者181人。以降ガソリンカーの使用を中止

    1960(昭和35)年 アラビア石油がクウェート沖のカフジ油田を堀り当てる。海外での油田開発は日本初

    1968(昭和43)年 東大医学部自治会が医師法改正に反対して無期限スト開始。東大紛争の発端

    今日の誕生日の花:ハナアナナス
    花言葉:たくわえる
    今日の一句:遠くまで歩きて日脚伸びにけり   雨宮きぬよ    

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16469] 鈴木理生:川を知る事典 投稿者:   投稿日:2011/01/28(Fri) 12:18
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    著者は東京都職員、千代田区図書館勤務を経て都市史研究家。    日本実業出版社

    エジプトのナイルとは川を意味する言葉である。
    インダスもガンジスも、もともと川を意味する。
     インダス川、ガンジス川というのは「カワの川」というようなものである。
    ヨルダンはヘブライ語で「よく流れる川」を意味する。
    ティグリスとは「急流の川」であり、ユーフラテスは「大きな川」を意味する。
    タイのメナムも「川」、インドシナ半島のメコンも「川」を意味する。

    アイヌ語のベツ(ペッ)は大きな流れを指し、「ナイ」は比較的小さな流れを指すことが多い。

    日本の河川で一番長いのは信濃川367キロであり、次は利根川322キロだが
    三位の石狩川268キロは明治当時は370キロあって日本一だった。
    蛇行する石狩川を短縮工事(ショートカット)した結果である。

    この本は目新しい知識が多いのだが、誤りも見られる。
    青森・岩手には、「別」「ベ」の変形である「辺」「戸」も多い。
    有名なのは岩手県の一戸からはじまり青森県の九戸まである。
     これ間違い。 一戸、二戸、九戸は岩手県で、残りは青森県。
     もともとは南部藩だったのを明治になって、下北半島からの南部領が青森県にくっつけられたのは、南部藩が賊軍になったからと言われている。

    一戸から九戸までの地名がある理由として、中世に津軽氏から独立した南部氏が軍馬生産のためにつくった牧場の境「柵(へ)」を示すものだと言われる。
     ここも全く逆。岩手県立図書館のこの本には、この本の編集部の担当者の名前と期日記載の書き込みまである。おそらく抗議の電話をかけたのであろう。
    秀吉時代に、南部藩の内部抗争のごたごたに乗じて、津軽氏は独立し手回しよく秀吉の許可状をもらったから、後からの南部氏の抗議は届かなかった。そのときから津軽藩は誕生した。

    この著者は「戸」(へ)とは、それぞれが川の流域ごとに区分けされているようなので
    アイヌが川ごとに区切ったテリトリーをそのまま和人が認めて、それぞれに番号をふったのが、九つの「戸(へ)」だと考えている。

    豊間内という地名は青森県五戸町にあると書いている。(豊間根は岩手県山田町にある)


    [No.16468] Re: 日本のコンピュータ史 投稿者:カッコウ  投稿日:2011/01/28(Fri) 10:51
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    男爵さん。
    細かいことで恐縮ですが、パラメトロン計算機を日本で最初に作ったのは、東北
    大学ではなく、電電公社の電気通信研究所です。同名の研究所が東北大学にもあ
    りますので混同されたのではないでしょうか(例えば高橋秀俊著「コンピュータ
    ーへの道」文芸春秋社 昭和54年 p.113参照)。当方は最初のユーザーでベッセル
    関数の計算などをやりました。
    カッコウ

    > パラメトロン計算機については、東北大学電気通信研究所と日本電気との精力
    >的な研究の歴史を講演で何度も聞いた。


    [No.16467] 潮木守一:職業としての大学教授 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/28(Fri) 06:19
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    潮木守一:職業としての大学教授
                    中公叢書
    著者は名古屋大学名誉教授。元日本教育社会学会会長。教育学博士(東京大学)

    過去五十年、世界の大学が大拡張にどう対応したのかと比較して
    日本の大学の教員採用の問題点を指摘した本である。

    日本の大学教員の構造が、他国のピラミッド型に反して、煙突形となっていることを指摘したのは、1965年の新堀通也であった。
    日本以外の国では、最後の教授ポストにたどりつくまでに厳しい淘汰・競争があるのに、日本では年齢とともに自動的に教授ポストまで昇進できる仕組みになっているとされてきた。
    これが日本の学問の活性化を妨げる元凶だと言われてきた。

    過去五十年間、ここで比較の対象にあげた国(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ)ではどこでも、大学教員の大量採用が行われたが、それにもかかわらず、他の国では依然としてピラミッド型が維持されている。それに対して、日本では煙突形が克服されたどころか、それを通り越して、いまや逆ピラミッド型になってしまった。
    つまり大学教員のなかで教授の占める割合は、日本以外の国ではせいぜい20パーセント程度であるのに、日本では40パーセントに達し、他国には見られない、頭部の肥大した特異な形となった。

    さらにはまた日本以外の国では、教授の質と水準を維持するために、何らかの全国的な評価システムを持っているのに対して、日本は「大学の自治」や「学部の自治」の名のもとに外部評価を阻む制度、仲間同士でかばい合い、もたれ合う仕組みができあがった。

    さらにまた日本の大学教員は我が身を守ることには懸命になるが、その後継者世代をどうやって確保するかに対してはきわめて冷淡で、その結果、博士課程は目下、いまだかつて経験したことのない危機的な状況に陥ってしまった。

    現在、博士課程から年間一万六千人の卒業者が出ている。しかし現在十七万人という大学教員の規模は、今後十八歳人口の減少とともに、減少せざるをえない。今後十年間をみると、年々新規採用数はせいぜい五千人程度、多くみても八千人程度にしかならない。つまり博士課程修了者の半分しか吸収する能力はない。

    こうした日本の大学教員養成の制度設計を見直す必要がある。

    ーーーーーーーーーーーー

    著者の指摘することは当時としては妥当なことも多いが
    現代の大学の事情は異なってきている。

    日本の大学では教授になってしまえば
    あとは何も業績を上げなくても、学生の指導をしなくても
    (大学に一週間に一度しか出てこなくても)定年まで教授でいられたのはもはや過去のこと。

    たいていの大学では、数年ごとの業績審査が行われる。
    研究、教育、学内組織運営、社会貢献などに関して点数化が行われ
    それによって給料や研究費配分に反映される。

    こうなったとは
    大学紛争後の、無能な教授の弾劾があったからというよりは
    日本経済の悪化に伴い、大学に配分される国家予算が年々縮小されるため
    何とかしないと生きられないという大学を取り囲む客観情勢のせいである。
    子どもの少子化により、大学が入学者の奪い合いになっている現状もある。

    この著者は
    海外の大学のように、教員の採用においても、なるべく出身大学にそのまま採用されるのではなく
    他の大学に採用されて一定の経過後に母校の教員になる例や
    大学院を他の大学で研究して一種の武者修行のすすめを説いているが
    これからは一層日本もそうなるであろう。

    それにしても
    この著者の出身の本郷の大学こそは
    自前の出身大学者で占めるのではなく、もっと他の大学出身者を採用すべきであろう。
    地方大学によっては、なかなかその大学の卒業生はその大学の教授にはなれない。
    研究環境も劣悪であるから、ある程度年をとってから昇格するのが多いのだが
    旧帝大から若い博士課程を出た研究者が採用されるのを見ると内心は愉快ではない。
    実際にそういう声を何度か聞いた。
    だから、その大学を出た教授が何人いるのか、あるいはその大学の出身者が母校の学長になったという話は、その大学の成長を物語ることになるのだが
    この著者は、そういう歴史の浅い大学の成長物語という観点が欠けているように思われる。(やはり旧帝大出身者の目で厳しく他の大学を見ているような気がする)

    私立大学は教授の数が多いのに対して、若い助教(助手)などが少ないのは
    大学経営者の都合もある。つまり、悪く言えば使い捨てという考え方で、若い研究者を育てて自前の教授を育てるというシステムをとっていないからであろう。

    そういう内部の事情にふれないで、目に見える統計データだけで議論を進めるきらいがあるのが問題であると感じた。

    教育観にもよるのだが
    立派な研究者は、研究をするだけでなく、若い研究者を育てようとするものである。
    特に理科系は学生のめんどうをみる教授が多いと思われるが、この著者のような文科系の場合では、教授が学生の研究指導や就職指導をあまりしないのかもしれない。

    いずれにせよ
    これからの大学教授は
    どんどん研究環境が悪くなる中で、一層の業績を求められるのだから
    大変である。


    [No.16466] 今日は何の日・1月28日 投稿者:   投稿日:2011/01/28(Fri) 05:40
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    みなさん、今日は
    今日は何の日、1月28日
    コピーライターの日
    1956(昭和31)年、「万国著作権条約」が公布された。
    この条約で、著作物にCopyright(著作権)の頭文字Cを丸で囲んだ記号を附記することが定められたことから、「コピーライト」を「コピーライター」にひっかけて。
    「万国著作権条約」は日本ではこの年の4月28日に発効した。

    宇宙からの警告の日
    1986(昭和61)年、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げられ、発射74秒後に爆発し、乗組員7人全員が死亡した。
    作家・大江健三郎は『治療塔』の中でこの事故を「宇宙意志からの警告」と表現した。

    1912(明治45)年 白瀬南極探検隊が南緯80度05分に到達。その一帯を「大和雪原」と命名

    1924(大正13)年 上野公園・動物園が宮内省から東京市に下賜される

    1948(昭和23)年 関西汽船・女王丸が瀬戸内海で機雷に触れ沈没。死者行方不明183人

    1955(昭和30)年民間6単産が春闘共闘会議総決起大会を開催。「春闘」の始り

    1985(昭和60)年 長野市でスキーバスが犀川の笹平ダムに転落。死者25人

    今日の誕生日の花:エンドウ
    花言葉:未来の喜び
    今日の一句:豌豆の咲く土ぬくく小雨やむ    飯田蛇笏

    出典は今日は何の日、毎日が記念日
    http://nnh.to/
    及びNHKラジオ深夜便から引用しています。


    [No.16465] 日本のコンピュータ史 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/27(Thu) 13:37
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    情報処理学会の歴史特別委員会編の本  オーム社 2010年

    まず創成期として
     真空管計算機、パラメトロン計算機、トランジスタ計算機
    の説明がある。
    パラメトロン計算機については、東北大学電気通信研究所と日本電気との精力的な研究の歴史を講演で何度も聞いた。

    日本のコンピュータ史概論として下記のようにまとめている。
    1980−1987 メインフレームの時代
    1987−1995 PC時代の幕開け
    1995−2000 インターネット時代へ

    日本のパソコン時代の曙
     1978年の日立ベーシックマスターMB−6880と
     1979年のNEC PC−8001
      以後シャープ、沖電気、富士通、三菱電機、東芝の各社が続く。
    米国のパソコン時代の曙
     1976年のApple II、1977年のタンディのTRS−80
    しかし、日本の大手コンピュータメーカーのPC認識は
    おおむねマニアたちのおもちゃあるいはコンピュータゲーム機程度のものだった。
    特に、OSはシステムの根幹であり他人の作ったOSを使うことへの拒否反応と
    流通ソフトウェアを日本のユーザーが受け入れることへの疑問が多かった。

    1988年に発足したWIDEプロジェクトは日本最初のインターネットプロジェクトであった。
    パソコン通信は大手プロバイダがインターネットへ本腰を入れ始めるにしたがって利用者が減少し2005年頃に姿を消した。

    インターネット時代には
    まずウェブブラウザとして1994年にNetscapeが発表され
    Windows 95がTCP/IPを標準搭載したこともあって、1996年はインターネット元年と呼ばれる。
    ホームぺージブームが訪れる。
    iモードの登場は日本のインターネット史上で特筆すべきこと。
    ネットワークセキュリティが深刻な問題となっていく。
    1996年にYahoo!が日本でのサービスを開始し、検索エンジンが広く使われはじめた。

    以上簡単なまとめ。
    なお
    ワープロ専用機のことも省略、パソコンのワープロソフトの松と一太郎も省略です。


    [No.16464] 会員の作品ページ、川柳の更新 投稿者:   投稿日:2011/01/27(Thu) 09:51
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    みなさん、今日は

    会員の作品ページ、川柳の更新しました。
    http://fmellow.s103.xrea.com/senryu/senryuda.htm

    1月題詠川柳「飲」収録しました。

    どうぞご覧下さい。


    [No.16463] 永藤武:善悪のかなたへ 親鸞 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/27(Thu) 08:35
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    永藤武:善悪のかなたへ 親鸞

    中高生向きに親鸞の伝記を述べた本 日本教文社

    日本の僧侶で最初に妻帯した。それは聖徳太子が六角堂に現れて親鸞に語りかけたのだという。
    妻帯については法然上人から許しを得ている。

    六角堂の後に法然に入門する。法然に会ってから六角堂のことがあったとする説もある。
    「この世の生き方は、まず何より、少しでもよく念仏を唱えられるようにと、それを第一に心がけて生きるべきである。念仏の妨げになるようなことだけは、嫌(いと)い捨てるべくなのだ。もし、一ところにとどまっていては唱えられないというなら、修行者となって唱えなさい。修行者となって唱えられないというのなら、家庭の人となって唱えなさい。妻をめとるのは、自身が助けられて、よりよく念仏を唱えるためである。もし念仏の妨げとなるようなら、決して娶るべきではない。このことを心して、あとは自分で判断しなさい」

    結婚して善鸞誕生する。
    越後に流される。
     (1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処する。
     この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

    越後配流時に、豪族・三善為教の娘、恵信尼と越後で結婚する。

    明信誕生。
    流罪が許される。

    越後を離れ関東に向かう。
    覚信誕生。

    妻子とともに京に戻る。

    恵信は越後に行き、一家は離散する。
    京に残ったのは、親鸞、善鸞、覚信の三人。

    善鸞と縁を切る。

    病をおして訪ねてきた下野国の覚信房らに教えを語る。これがやがて「歎異抄」の一部としてまとめられる。

    恵信、越後で病につく。

    --------------------

    親鸞は当時の僧侶としては最初の妻帯者となったが
    神聖ローマ帝国のルターも宗教改革者として有名だが
    やはり聖職者の結婚を是とした最初の聖職者であった。

    カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。
    司祭であったルターも独身生活を続けていたが、だんだん考えが変っていった。
    修道者のように神のために結婚しないことをよい考えていたが、肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。
    結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚をすすめるようになった。
    彼自身も、41歳の時に26歳の元修道女と結婚し、三男三女を得ている。


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