|
[No.16221]
日野純子:お年寄りと話そう
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/06(Mon) 08:19
[関連記事] |
日本語教師の著者が
外国人相手の会話の応用として
(日本の)お年寄りとの会話コミュニケーションを上手にする方法を説明している。
「はっきり、ゆっくり発音する」
「相手がわかる言葉を使う」
「言い換える」(パンツ→ズボン、スニーカー→運動靴、ジャージ→普段着)
「大切なことはちょっと変えてくり返す」
「いろいろな形の質問文を使う」
「相手の言うことを受けとめる」
いろいろな相づちを使う
「あー」
「あああああ」
「ええ」
「えぇー?」
「うんうん」
「うーん」
「そうそう」
「そうですよね」
「そうなんですか」
「そういえばそうですよね」
「そういうこともありますね」
「そういうことですか」
「それで?」
「それから?」
「たしかにね」
「なるほどね」
「はあはあ」
「はいはい」
「ふんふん」
「ふうーん」
「ほうほう」
「ほほー」
「ほんとですね」
「ほんとう?」
どの相づちがいい悪いではなく、バリエーションです。
(同じ相づちばかり使っていると熱心さが感じられないが、語感がぴったりでない相づちは使いたくない)(自分に相手に会いそうな相づちを探したい)
相手の話のとりあえず「合いの手」を入れて、相手の話に一区切り入れてあげる。
そして、すかさず「質問」すること。
相手の話がひとまず終わりそうなポイントを見つけて、そこで「合いの手」を入れて、それから「質問」してこちらが聞く立場に切り替えるというのは
実践を繰り返して身につけるものなのだろう。
長い文章とか、中身の多い文章は、聞きとりにくく理解しにくいから
なるべく短く、単純な内容で話すことも大切である。
相手の年齢とか判断力とか状況に応じた話し方ができるのがよいのだが、それにはこちらの練習も必要である。
[No.16220]
今日は何の日・12月6日
投稿者:
投稿日:2010/12/06(Mon) 05:36
[関連記事] |
みなさん、今日は
今日は何の日、12月6日
姉の日
漫画家で姉妹型研究家の畑田国男さんが1992(平成4)年に提唱。
「妹の日」の3箇月後であることと、この日が祝日の聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説から。
音の日
日本オーディオ協会が1994(平成6)年に制定。
1877年、エジソンが自ら発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功した。
オーディオや音楽文化・産業の一層の発展を図り、音について考える日。
シンフォニー記念日
1914(大正3)年、ベルリンから帰国した山田耕筰が、初の日本人の作曲による交響曲『かちどきと平和』を発表した。
ラジオアイソトープの日
ラジオアイソトープの製造にも使われるサイクロトロンを開発した仁科芳雄博士の1890年の誕生日。
ラジオアイソトープとは放射性同位元素のことで、医療・農業・工業等幅広い分野で利用されている。
1913(大正2)年 大リーグが初来日。ジャイアンツとホワイトソックスが試合を披露
1937(昭和12)年 木村義雄八段が将棋の初の実力制名人に ,それ迄は世襲性。
1945(昭和20)年 戦後初の洋画『ユーコンの叫び』が東京の日劇と日比谷映画で上映
1957(昭和32)年「日ソ通商条約」調印
今日の誕生日の花:ヒイラギ
花言葉:用心、歓迎
今日の一句:柊のこぼるる石に薄日さす 古沢太穂
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.16219]
ワケあり商品(超大型海老)大特価!
投稿者:
投稿日:2010/12/06(Mon) 01:11
[関連記事] |
さる12月1日午後9時半頃、トラックにて運送中、同上大型海老を収納した容器が何らかの原因で突然路上(西麻布近辺)に落下。
超貴重品の当該大型活き海老(市川水産扱い)は、顔面を損傷。メイカー側では種々修復を試みたが、5日になって原状復帰は到底無理と分かった。
落下の原因は、目下の所不明で警察で関係者の聴取を続けている。
従って、メイカー側では、結論の出次第急遽大安売りに踏み切ることになった模様。
このような超大型海老は、国内ではとうぶん市場に出まわる見込みはないので、ご希望の向きはお早目にお申し込みをと、メイカー側では云っている。
なお、値段は公開されていないが、一尾 何と300円(@_@;)だという、もっぱらの噂。
[No.16218]
小沢昭一:日本の放浪芸[オリジナル版]
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/05(Sun) 08:45
[関連記事] |
テキヤ(香具師)
香具師は香具というものを売っていた。香具とは白檀とか伽羅という匂いもの、またその道具のことである。
いま薬局へ行くと、化粧品と薬品を同時に売っているが、あれは伝統にしたがっているので
つまり、薬草や匂い袋などの香具、そういうものは同じ商売なのである。
関西では、神農さんという。
テキヤの信仰神は神農(古代のシナの神さま)である。
大阪の薬種問屋などの信仰神が神農である。
元を正せばテキヤと薬屋とは同じ職神をもつ仲間
テキヤは薬売りであり、香具売りである。
ヤシは薬師(ヤクシ)のつまったものという説もある。
だいたい人間は、たいていのことはやっても金だけは出さない。
「いまボクは精神的にキミをバックアップするけれども、だけど金は勘弁してくれ」
というのがだいたいの人情である。
通りすがりの人間に、お金を出させてバナナ一本でも買わせる、というのは大変なことなのである。
それを口先三寸のタンカによってやろうというわけであるから、これはたいへんな魔力がないと通用しない。
たとえば雑貨売りを例にとって説明しよう。
とにかくまず日用雑貨が前に山のように積んである。
それをはじめから全部ただでやるというところから出発する。「ただでやる」わけがないのだが。
ところが、なんかただでもらえるんだと思って、人が非常にたかるわけである。
たかった人に、たらいであるとか、鍋とかどんぶりとか、それから石けん入れとか、そういうものを十円でやるって言うのである。
整理の都合上、「ただ」って言うと、みんなごちゃごちゃになるから「十円でいい」。で、みんなに品物を渡すと、みんなから十円とるわけである。
そして十円取って品物を渡しておいてから「五円でいい」って言うのである。
とってから、ちゃんと五円玉がたくさん用意してあり、一人一人に全部五円ずつ確実に返す。そういう作業を重ねる。
いつの間にか次の品物は二十円になっている。二十円でまたみんなにパーッと持たせる。
それをまたみんなに十円ずつ返すっていうやり方を重ねる。
いつの間に百円になっている。百円みんなからとる。だけれども、綿密に五十円ずつ返す。
八十円返すときもある。百円って言ったくず箱みたいなのが、百円でも安いと思って、カアチャンたちが狂ったようになって手に取ると、二十円でいいって言って、八十円ずつ返したりなんかする。
で、ハサミが出てくる。ハチミが千円、こう言うわけである。でこれは返さない。千円のままなのである。
そういう商売である。
実にうまくできている。ワァワァワァワァ大さわぎ、大笑いの中に商売は終わる。
だからその楽しさだけで千円の値打ちはある。ハサミはおまけと考えた方がよさそうである。
そのワァワァ騒いでいるオバチャン連の中心人物はサクラなのである。
サクラにつられて大勢がひっかかってくるっていうところが不思議なのだが、彼らの腕なのである。
ーーーーーーーーーーーー
人は納得して喜んでお金を出すこともある。
心理学者が見たら、論文が書けそうな場面。研究のヒントがありそう。
渥美清から香具師の口上を聞いて感心した山田監督が、寅さんの話をつくった。
考えないでしゃべった渥美本人が、山田監督の脚本を見て上手にまとめていると感心したという。
江戸時代、非人頭の車善七が大道芸人の元締めだった。香具師の親分みたいな車善七、その故事から車寅次郎が生まれたと推定する人もいる。
香具師の寅さんにはサクラがつきもの。
[No.16216]
今日は何の日・12月5日
投稿者:
投稿日:2010/12/05(Sun) 05:34
[関連記事] |
みなさん、今日は
今日は何の日、12月5日
"経済・社会開発のための国際ボランティアデー(International Volunteer Day)"
国際デーの一つ。
世界中の経済と社会開発の推進のため、ボランティア活動の貢献に対する認識を高め、社会のあらゆる層からより多くの人々が、国内外においてボランティア活動に参加できる機運を高める日。
バミューダトライアングルの日
1945(昭和20)年、大西洋上で、アメリカ軍機が突然消息を絶った。
その救援機も同じ海域で行方不明になり、フロリダ・バミューダ・プエルトリコの三点を結ぶ三角形の海域は魔の三角海域「バミューダトライアングル」と呼ばれるようになった。
1900(明治33)年 吉岡弥生が東京女医学校を創立。後の東京女子医大
1904(明治37)年 日露戦争で乃木希典大将率いる第三軍が旅順の要塞地・二〇三高地を占領
1933(昭和8)年 アメリカで憲法修正第21条が成立。「禁酒法」が13年ぶりに廃止
1946(昭和21)年 樺太からの引揚げ船第一号「雲仙丸」が函館港に入港
1988(昭和63)年JR中央線・東中野駅で、停車中の電車に後続電車が追突。死者2人、重軽傷者116人
1996(平成8)年 広島の原爆ドームと厳島神社が世界文化遺産に認定
今日の誕生日の花:ツワブキ
花言葉:困難に負けない
今日の一句:つわぶきは故郷(ふるさと)の花母の花 坪内稔典
出典は今日は何の日、毎日が記念日
http://nnh.to/
及びNHKラジオ深夜便から引用しています。
[No.16215]
朝鮮通信使がやってくる
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/04(Sat) 19:34
[関連記事] |
小西聖一:朝鮮通信使がやってくる、理論社 2009
子ども向きの本
朝鮮通信使の通信の意味は現代の意味と少し違う。
「信」には「便り」のほかに「誠」「あざむかない」「うたがわない」という意味がある。信用や信頼の「信」である。
朝鮮通信使の「通信」とは、相手をあざむかない、うたがわない、誠の気持ちを通わせるという意味である。
正しい通信の意味を最も理解して実践しようとしたのが、雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)だった。
日本と朝鮮とは
交隣といわれる関係で結ばれ 原則的には対等な関係であった。
戦国時代まで、日本から朝鮮へ渡る者は、
将軍(足利将軍)や有名大名(大内氏、細川氏、畠山氏)の限られた者を
のぞいて 、すべて宗(そう)氏が発行した渡航証を持参しなければならなかった。
16世紀になると朝鮮へ渡るものは対馬の者か、宗氏から特に許された者だけ
という状態になった。
江戸時代にはいる前に、宗(そう)氏による日朝関係の独占的な体制ができあがっていた。
当時の国際用語は漢文であった。
このため対馬藩の外交文書も外交僧によってつくられていた。
だが、秀吉による2度の朝鮮出兵による侵略は、日朝間の国交断絶となって
朝鮮との貿易で生計をたてていた対馬にとって、まさに死活問題であった。
それゆえ、対馬藩は何度も朝鮮に使者を派遣し講話の糸口をつかもうと努力した。
また家康も善隣外交政策をとったので、宗氏の講和路線を支持した。
努力の結果、朝鮮通信使は再開された。
そのときの対馬藩主は宗義智(そうよしとも)、家老柳川調信(やながわしげのぶ)、外交僧は景轍玄蘇(けいてつげんそ)だった。
この時の外交僧玄蘇にお供をしていたのが17歳の規伯玄方(きはくげんぼう)
であった。
このときすでに家康の国書の偽造という巧みな外交が行われた。
朝鮮王朝と家康とで、講和が成立し、国交が正常にもどるための条件として
朝鮮は難問を2つ要求した。
1つ 秀吉侵略の時に
朝鮮国王の墓を荒らした犯人を縛送してこい。
もう1つ 家康のほうから先に朝鮮国王へ国書を送るように
(従来の慣習ではまず朝鮮から使者が出向いた)
対馬は困って
最初の課題については
対馬島内にいた罪人2人を、犯陵賊の首謀者にしたてあげて
縛送した。
(彼らは朝鮮で、ただちに処刑されたという)
後の課題は
当時の外交上の慣習として相手方への恭順を意味する
先に国書を差し出す行為なので、
対馬は幕府に内密に
国書を偽造した。
国書偽造は対馬では以前から日朝関係を独占していたので
これまでにも何度か行っていた。
また玄蘇という選任の外交僧を召しかかえていたので作業としては難しい
ものでなかった。
家康の国書には日本国王の印が押されていたという。
1611年に玄蘇が75歳で亡くなってから
若い24歳の弟子玄方は正外交官になった。
あまり若すぎるので
それ相当の僧位を得るため
京都で半年の間に平僧から五山の住持僧になるというスピード出世をした。
それは宗氏の関係者に手を回した政治力もあったようである。
しかし、玄方が京都にいっている時、対馬で
宗氏の家老柳川氏が
正式に朝鮮への使者として認められ
彼らが
外交文書作成
度重なる国書偽造などの仕事をした。
柳川氏三代目柳川調興(やながわしげおき)は江戸に生まれ、
家康・秀忠・家光の側近として仕え、自らは一度も朝鮮へ渡ることはなかった。
家光らにかわいがられ、しだいに主である宗義成(よしなり)を軽んじるようになっていった。
つまりお家騒動になってしまったのである。
対馬の宗氏のもとで
自分たちこそ新しい日朝関係の主役をと願う柳川調興が
幕府の取り調べの時に
おおそれながら
対馬は国書改ざんをやってきました
と訴えた。
幕府の結論は結局
喧嘩両成敗
長い間の国書偽造は悪いこと
しかし日朝外交の功績も認められる。
訴えた柳川調興も
外交僧玄方も
遠くみちのくに流された。
柳川は弘前に流され、そこで一生を終わる。
玄方も盛岡に流罪となったが、こちらは文化人として藩主から大歓迎を受けた。
玄方は罪をはじて盛岡では
無方あるいは方と呼ばせたが
いつしか盛岡では
方長老と呼んだ。
宗義成は一族の罪を一身に引き受けた
玄方のことを感謝し心配して
幕府に嘆願書を送り続け
やっと24年たって玄方は許され
大阪で弟子たちに囲まれ一生を終わった。
(他の本での知識も少し加えました)
[No.16214]
写真で読むニッポンの光景100
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/04(Sat) 16:04
[関連記事] |
川村邦光:写真で読むニッポンの光景100
花嫁人形を奉納する戦死者の遺族
靖国神社にある遊就館には、戦死者の写真とともに、花嫁人形が供えられている。
思想の転換のシンボルとなる断髪
伊藤博文や井上馨らは密航してロンドンに行った時、出航前に横浜で断髪している。1868年に土方歳三が函館で写真師田本研造に撮らせた写真は、洋装したオールバック姿であった。
集団就職列車が走った
中学校を卒業したばかりの金の卵と呼ばれて上野駅に降りた少年少女たち
集団就職のピークは1964(昭和39)年の東京オリンピックの頃、これ以降は高校進学率が高まっていく。
少子化・高齢化の寂しい雪国の正月
新潟県山古志村(現長岡市)の雪景色
ここは地震で有名になってしまった。
食の文化と大阪名物の明暗
あきれ返られ白い眼で見られながら廃業に追い込まれた店がある一方で、名残惜しまれながら閉じられようとする店もある。
前者は老舗とされる船場吉兆、後者は大阪名物くいだおれであった。
くいだおれ太郎はいずこに。
[No.16212]
Re: 西脇巽「石川啄木 東海歌二重歌格論」
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/04(Sat) 09:15
[関連記事] |
> 井上信興
> 広島県出身、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送った医師
> 西脇巽
> 福井県出身、小学4年から高校卒業まで函館に住み、弘前大学卒業の医師
> この二人は函館に住んだ時期は違うが、明治のころ啄木の散歩した大森浜を議論している。
啄木の妹光子による
啄木妻節子と啄木一家を経済支援してくれた宮崎郁雨の不倫
いわゆる「節子の晩節問題」であるが
この不倫はあったとする研究者となかったとする研究者がいて
井上信興も西脇巽もなかったとする立場なのだが
節子と小姑光子の関係をめぐって
井上信興と西脇巽の意見は違うらしい。
井上信興説では
啄木の墓を立待岬に作ったときから
節子と光子の仲が急に悪くなったとする。
節子は盛岡に行ったりして、啄木の父の実家の平や啄木故郷の渋民に墓をつくることを検討するが
とても無理だということがわかって
おそらく宮崎郁雨のすすめもあって函館に啄木の墓を作ったのであろう。
そのとき、光子や啄木の父にも無断で墓を函館に作ったことから
光子の怒りが生じ、以後光子の節子糾弾が続くようになったとするのである。
いっぽう
西脇巽説では
啄木の墓をつくったことで
光子と節子の間は決定的に悪くなったが
それ以前から仲は悪かったこと、その原因は
宮崎郁雨の結婚にあったとするのである。
すなわち
郁雨は最初啄木の妹光子を妻にしたいと啄木に話したところ
啄木は郁雨の家族が多く、その複雑な家族関係の中では
勝ち気な光子の性格ではとてもつとまらないだろうと考えて断った。
そして、むしろ節子の妹のフキのほうが良いと考えてフキを勧めたという。
フキも父親から教えを受けて、大家族の中で苦労しながらも宮崎家でつくした。
後年、啄木は光子にフキは犠牲になったようなものだと語ったという。
しかし
光子の立場で言えば
どうやら自分不在のところで、啄木と郁雨が相談したらしい。
自分が断ったのならともかく、もしかすると郁雨の妻となれたかもしれなかった
ということは、人生をふりかえるとき、あのとき違っていれば(こうはならず、もっと幸せになっていたのではないか)
と思うことがあったのではないか。
光子は兄に文句を言いたくても言えず、しらずしらずに
それは節子のせいにするようになったのではないか
自分がなるはずだった郁雨の妻の座を節子の妹が占めたのだから
節子に怒りを向けたとしても不自然ではない。
という西脇巽の説明は私は納得ができるようです。
最初から、啄木と郁雨は光子に相談すればよかった。そこで、光子が縁談を断れば光子は納得したろう。あるいは光子が郁雨の妻となったら、もしかすると一騒ぎも二騒ぎにもなったかもしれないが....
もうひとつ
啄木ファンの心理について書いておきます。
以前に紹介しましたが
金田一京助の息子春彦の啄木感です
>石川啄木については父京助は数少ない理解者の一人であったが
>京助の妻つまり著者の母親は激しく啄木を憎んでいた。
>貧しい学者の家に来て、借金を繰り返し、京助の妻の結婚時に持ってきた着物はすべて
>質屋の倉の中に消えた。それもこれも疫病神石川啄木のせいだと、幼い春彦に毎晩聞かせていたらしい
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15872&mode=allread#15872
啄木の文学的業績を評価する人がいる一方
反対に啄木の悪い面のみ強調する人がいるとして
啄木批判者の例としてあげられるのが金田一春彦です。
この著者は、金田一春彦は啄木理解者の父と啄木批判の母の両方の気持ちを大事にするから
どちらでもないと断っていますが
著者の気持ちとしては、金田一春彦は母親の気持ちを世に広めてほしくないようです。
啄木のせいで
ただでさえも苦しい学者の家計が一層経済的に悲惨になった。
それが事実としても、後年啄木の唯一の理解者であり親友であり同郷の人である
金田一京助は、啄木を題材に多くの書き物を残し、それから得た収入は啄木に費やしたものを上回ったのではないか。
そして
妻の着物を啄木が質に入れて全部返ってこなかったとしても
それは夫が友情を大切にしてしたことなので
直接の原因は啄木にあったとしても、それを認めた夫にこそ原因があったのだから
啄木を恨まず、京助を恨むべきだというのですが、これは現代の人が読むとどうなのでしょうか。
イスラム社会では、妻が結婚の時に持ってきたものは妻のもので、離婚した時も持ち帰ることを保証されているのですが、日本はイスラム世界ではないといってしまえばそうなのですが....
もうひとつ、しつこいのですが紹介します。
昭和61年3月14日
上野商店街の歌碑の除幕式
この歌碑の書を揮毫し除幕式では除幕の幕引き役まで行った金田一春彦は、啄木文学の普及に協力した。
同じ昭和61年に小樽文学館で特別展「石川啄木・小樽ー北の旅」
学芸員玉川薫は準備のため
世田谷区の宮崎捷郎(郁雨長男)を訪ねる。そのとき啄木長女京子の長男石川玲児(啄木の孫)も同席する。
郁雨や啄木などの写真の貼ってあるアルバムを見せられる。
翌日に玉川は金田一春彦に電話する。
学会では若い玉川の発表に優しく声をかけてくれた金田一春彦だったが、厳しい電話の返事だった。
「啄木に関することには、一切ご協力することはできません」
「啄木が、私ども一家に、どれほど迷惑をかけたか、幼かった私も、それを今でも忘れることはできない」
「父は良かろう。父にとっては、啄木は確かに、生涯の親友でありましたでしょう。だが母は」
「母の苦労を間近に見ていた私たちは、私たちの家庭に、こんなに深い傷を負わせた石川啄木という人をけっして許すまい、と思ったのです」
「学者としてではない、個人的な感情からだ、と理解してくださってけっこうです」
これから17年後に玉川は活字にして発表した。
[No.16211]
今日は何の日・12月4日
投稿者:
投稿日:2010/12/04(Sat) 05:35
[関連記事] |
みなさん、今日は
今日は何の日、12月4日
E.T.の日
1982(昭和57)年、映画『E.T.』が日本で公開された。
観客は1000万人を突破し、1997年に『もののけ姫』に抜かれるまで最高の配給収入を記録していた。
E.T.は"Extra-Terrestrial"の略で「地球外生物」のことである。
血清療法の日
1890(明治23)年、北里柴三郎とエミール・ベーリングが破傷風とジフテリアの血清療法の発見を発表した。
聖バルバラの日
3世紀ごろ、キリスト教に帰依した少女バルバラは、父・ディオスクルスによって役人に告発され、改宗するように拷問を受けたが信仰を捨てなかった。ディオスクルスは自らの手でバルバラを殺すよう命令され、この日その命令に従ったが、その直後ディオスクルスは雷に打たれて亡くなった。
バルバラが獄中で壷にいけておいた桜桃のつぼみが、処刑の日に花を咲かせたとされることから、この日、桜桃の枝を壺にさす習慣がある。
また、この日に皿に入れた水に小麦を浸しておき、クリスマスごろの芽の出方で翌年の豊凶を占う風習もあり、これを「バルバラの麦」と言う。
この日の雪を「白い衣装のバルバラ」といい、雪の量が多いと翌年は豊作になるとされている。
1924(大正14)年 早大などの女子聴講生で結成した女子学生聯盟が文部省に大学・高等学校の女子への門戸開放を陳情
1945(昭和20)年 女子大の設置・大学の男女共学制など女子教育刷新要綱を閣議決定
1999(平成11)年 山形新幹線が山形から新庄まで延伸
2010(平成22)年東北新幹線・八戸〜新青森が延伸開業し、全線開業
今日の誕生日の花:サザンカ
花言葉:謙譲、理想の恋
今日の一句:山茶花のこヽを書斎と定めたり 正岡子規
[No.16210]
Re: ついに、ヨーロッパに冬将軍来る!!
投稿者:
投稿日:2010/12/03(Fri) 14:28
[関連記事] |
アドレスは下記をご利用下さい。
http://www.lefigaro.fr/
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 | 100 | |