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[No.16027]
Re: 「男はつらいよ」うちあけ話
投稿者:
投稿日:2010/11/03(Wed) 18:58
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昨日、活動ホームの Aグループの日帰りツアーへ行って来ました。
葛飾柴又の寅さん記念館です。
「とらや」で昼食 天丼・団子のデザート? を食べ、
門前町を歩き、柴又の駅を見たり、帝釈天へ行ったりしました。
そのあとは寅さん記念館で、なつかしい寅さんの数々を見てきました。
昔、昔は何度行ったでしょうか。数え切れません。
川魚料理を食べ、「とらや」で団子を、時には舟に乗ったものです。
> 地元から映画とともに観光客が多くなって、寅さん映画歓迎と良い商品アイデアを要望されたという。
> 寅さんせんべい 丸いだるませんべいを四角にした
> 高木屋本舗(だんご、だるませんべい)
> 亀屋の寅さんカツレツ 亀カツレツより安くして
> 天ぷらの大和屋 寅さん天ぷら
>
これらは健在でしたよ。
私は「とらや」でだんごを4箱買ったけど、全部人の口に入ってしまいました。
私は、昨日の昼食についてきた2粒の団子しか食べられなかった。残念!!
[No.16026]
Re: ごり押しの韓国人 きれい事の日本人
投稿者:
投稿日:2010/11/03(Wed) 17:40
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男爵さん、まいど。
> だから、中国人や韓国人は、日本の役所の手続きのそういうわずらわしさのないことを評価する。
> もっとも日本国内で汚職がないかというと、単純には言えないことであるが。
アジアで、汚職の多い国は、中国、インド、インドネシア、香港、韓国の順で
この順で、成長期待度が高いのや、そうですわ。
証券会社が、投資信託を奨めてまっせ。
俗称チャインドネシアというらしますわ。
Toshichan in Kyouto-fu
[No.16025]
Re: 古事記に日本平はなかった
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/03(Wed) 17:29
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瀬里恵さん こんにちは
> > ヤマトタケルノ命は
> > 父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ
>
> ヤマトタケルの尊の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇ではありませんか。
> (注・命と尊の使い分けについて;一般に混同されているようですが天皇系
> には尊、臣民系には命を使うのが正しい)
参考にしたのは
福永 武彦 (著) 古事記物語 (岩波少年文庫 (508))
です。
ヤマトタケルノ命の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇と書かれていたのを
あるいは私が誤記したかもしれません。
すでに、この本は図書館に返却したので、いま確認できません。
> > 伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。
>
> 草薙の剣はヤマトタケルの焼き討ち事件の後に付けられた名称で
> ヤマト姫から授けられた時点での剣名は「都牟刈の大刀」(これも
> 時系列的には疑問ですが)と言うべきではないでしょうか。
>
> この剣はスサノオの尊がヤマタノオロチを退治したときにオロチ
> の尻尾から出てきた剣で、オロチの頭上にはいつも黒雲が漂っていた
> 処から「天叢雲剣」と名付けられたと日本書紀には書かれています。
ご指摘の通りと思いますが
参考にした本には、読者が少年としたからか、はじめから草薙の剣と書いてありました。
もちろん、この事件のあとに、そういう名前が付けられたということも書いてありました。
> > ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
> > この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
> > ということですが、これは古事記の原本にはないようです。
>
> これは「日本/ニホン」という言葉が何時頃普及したか、と言う事と
> 考え合わせる必要がある。古事記成立の以後に普及した言葉だと
> 推察すれば、古事記にないのは当然ですネ。
日本平の由来を質問したら、ガイドさんの口から、古事記の日本武尊が出てきたので
それではと思って念のために読んだわけです。
日本平は後世の人が、この故事にあやかって名前を付けたのでしょう。
> > ヤマトタケルノ命は
> > 罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
> > この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
> > そうガイドさんは説明してくれましたが
> > 日本平と焼津は離れていますね。
>
> まさにその通り…
>
> > ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
> > 騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。
>
> と貴方も書いておられるように焼き討ちの現場は「相模」の国なのに
> なぜ尾張静岡の焼津市に摩り替わっているのか
> 一考すべきプロブレムですネ。
焼津の名前は、いつどのように付けられたのか?
ら、めーるさんに聞いてみたいところです。
[No.16024]
Re: 古事記に日本平はなかった
投稿者:瀬里恵
投稿日:2010/11/03(Wed) 16:33
[関連記事] URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/ |
男爵さん、今日は…。
この部屋は私のPCからは、エラーによるアクセスボイコットがあって
暫く入れませんでした。お亀さんのカキコでゴメンなさい(笑)。
そこでチト気付いた事があるのでフォローします。
> ヤマトタケルノ命は
> 父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ
ヤマトタケルの尊の父親は、垂仁天皇ではなく、景行天皇ではありませんか。
(注・命と尊の使い分けについて;一般に混同されているようですが天皇系
には尊、臣民系には命を使うのが正しい)
> 伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。
草薙の剣はヤマトタケルの焼き討ち事件の後に付けられた名称で
ヤマト姫から授けられた時点での剣名は「都牟刈の大刀」(これも
時系列的には疑問ですが)と言うべきではないでしょうか。
この剣はスサノオの尊がヤマタノオロチを退治したときにオロチ
の尻尾から出てきた剣で、オロチの頭上にはいつも黒雲が漂っていた
処から「天叢雲剣」と名付けられたと日本書紀には書かれています。
そしてこれは、天照大神の岩戸隠れの時に、岩戸の前の榊に飾られた
ヤタの鏡、ヤサカニの勾玉、とともに現在も三種の神器として皇位継承
の証明とされているものです。(ただし現物の正体というか信憑性
については色々な説がある)
> ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
> この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
> ということですが、これは古事記の原本にはないようです。
これは「日本/ニホン」という言葉が何時頃普及したか、と言う事と
考え合わせる必要がある。古事記成立の以後に普及した言葉だと
推察すれば、古事記にないのは当然ですネ。
> ヤマトタケルノ命は
> 罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
> この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
> そうガイドさんは説明してくれましたが
> 日本平と焼津は離れていますね。
まさにその通り…
> ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
> 騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。
と貴方も書いておられるように焼き討ちの現場は「相模」の国なのに
なぜ尾張静岡の焼津市に摩り替わっているのか
一考すべきプロブレムですネ。
では又ネ 瀬里恵
[No.16023]
ごり押しの韓国人 きれい事の日本人
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/03(Wed) 10:50
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申潤植:ごり押しの韓国人 きれい事の日本人 山海堂
在日韓僑の目で見た文化論
地すべり学会の重鎮
この本は一度読んだことがある。
賄賂をとる韓国外務省の出国許可申請係
著者は3度も明日来いと言われ、知人からパスポートに○○ウォンを挟んで提出することを教えられる。そうしたら即許可が下りた。
著者は韓国の賄賂の習慣を悪いと思い、日本はそんなことがないから良いと思う。
かつて、地方から科挙の試験を受けに行くには大変苦労する。
その経費を整えるのに一族の援助を受けるから、科挙に合格して官職に就くと
一族の恩義に報いるため、正規の収入以外の所得に頼らざるをえない。
それが賄賂の起源である。(自分個人の利益ためではなく、恩義のためにする)
それがいつのまにか、フロント係がマッサージ師からマージンを要求するルールになった。
謝り役の代行サービス
もともとは携帯電話売り込みのサービスとしてはじめた謝り代行
これが人気を呼び、中国では謝り代行専門のサービス業がはやっている。
上司と衝突した部下、許嫁と結納のことでもめた花婿など、
代理を立てての謝り方のほうがうけがいいのが中国。
面と向かっての謝りでないからお互いの面子を傷つけることなく
両方まるく納まるという。日本や韓国でなら、かえって逆効果となるであろう。
ーーーーー
現代中国でも、なお袖の下はあるらしい。
何年か前に国費の留学が決まった中国人留学生が、パスポートがなかなか発行されないと苦情を訴える手紙が届いた。
文部省の関係者に聞いたところ、中国の地方の省によっては、袖の下を出さないとスムーズに手続きを進めないところがあるらしい。
こちらは何も手立てがないから、そのまま彼らにさせるしかないというアドバイスを受けたことがある。
また別の話だが、ある留学生から東京で聞いた話では
肉親のパスポート申請をして、なかなかはかどらない。
係官が言うには、今週一週間は政府の行事があるから遅れるという。
でも明日レストランに招待するからと話すと、その係官の友人も連れてきて
みんなで豪勢な食事をしたら「翌日来なさい、書類はできているから」と
別れに言われたという。
だから、中国人や韓国人は、日本の役所の手続きのそういうわずらわしさのないことを評価する。
もっとも日本国内で汚職がないかというと、単純には言えないことであるが。
[No.16022]
「男はつらいよ」うちあけ話
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/03(Wed) 10:32
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著者は松竹宣伝部の寅さん課課長を定年まで務めた人、松竹内部からの寅さんこぼれ話なので全部が好意的にまとめている。
地元から映画とともに観光客が多くなって、寅さん映画歓迎と良い商品アイデアを要望されたという。
寅さんせんべい 丸いだるませんべいを四角にした
高木屋本舗(だんご、だるませんべい)
亀屋の寅さんカツレツ 亀カツレツより安くして
天ぷらの大和屋 寅さん天ぷら
通常は池上本門寺の山主から身延山の法主となる。
映画が有名となって
帝釈天経栄山題経寺の先代の御前様は身延山の法主となった。
帝釈天の縁日 庚申の日 六十日に一度しか巡ってこない 一年に六日
田中裕子と沢田研二 第三十作「花も嵐も寅次郎」
志穂美悦子と長淵剛 第三十七作「幸福の青い鳥」
映画の取り持つ縁だった。
池田荘太郎:「男はつらいよ」うちあけ話、主婦と生活社
[No.16021]
Re: 宮崎正勝:読んだら話したくなる世界史
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/03(Wed) 08:20
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> > 楽しく勉強できる世界史
アメリカで薄いコーヒーが飲まれる深〜いワケ
イギリスでは紅茶が好まれるのに対して、イギリスから独立したアメリカではアメリカン・コーヒーという紅茶をまねたような薄いコーヒーが好まれている。
なぜ、このような違いが生まれたのか。その理由は、アメリカ独立戦争(1775〜83)にある。
1773年にイギリス政府は「紅茶令」を出して、紅茶を買い入れすぎて経営危機におちいったイギリス東インド会社に、アメリカ植民地で独占的に紅茶を売る権限を与えた。
それに対して、植民地の紅茶の9割を売買していた貿易商人を中心に反対運動が強まっていく。イギリスへの反感は、紅茶への反感にかたちを変え、アメリカの女性の政治結社「自由の娘たち」では、イギリスの紅茶を飲む男とは結婚しない、というスローガンを掲げるほどだった。
そうした中で、紅茶を満載した東インド会社の3隻の船がボストン港に入ると、インディアンに変装した約60人の急進派が船に乗り込み、342箱の紅茶を海中に投棄した。
この「ボストン茶会事件」をきっかけに、アメリカ独立戦争へと進んでいく。
戦争が始まると紅茶の輸入が困難になり、ブラジルから輸入されたコーヒーが盛んに飲まれるようになった。
兵士たちも、戦場で砂糖、ミルクぬきのブラック・コーヒーを飲んで士気を高めたという。そうしたことから、薄いコーヒーがアメリカ社会に定着していった。
ヨーロッパの大不況の受け皿になったアメリカ西部
ヨーロッパは、1870年代半ばから20年間、大不況とよばれる長期の不況におそわれた。
1830年代以降に鉄道建設や蒸気船の航路開発、冷凍船の出現などによりアメリカ大陸やアジアから安価農産物が大量に輸入され農村が不景気になったことと、1830年代以降ヨーロッパ大陸にも産業革命が波及して工業製品も過剰に生産されたことが、規模の大きな不況が起きた理由だ。
その反面、都市化が進む中でヨーロッパの人口は著しく増加し、失業問題は深刻化した。ヨーロッパ諸国は国外に商品市場を求めて激しく争いあい、ナショナリズムを高揚させて国民の不満を国外にそらそうとした。
それが、ヨーロッパが植民地の獲得をめぐり強国が互いに争いあう帝国主義に入っていった理由になる。
「3C政策」を掲げて広大な植民地を囲い込もうとするイギリスに、新興のドイツが「3B政策」を掲げて食い込みを策し、第一次世界大戦につながっていく。
南北戦争(1861〜65)により内戦を終え近代国家の建設に乗り出したアメリカにとって、広大できわめて不便な西部に鉄道網というインフラを整備することは大事なことだった。
政府は、当面の利益を見込めない鉄道会社に対して、40マイル鉄道を建設するごとに線路の両側の広大な土地を無償で払い下げ、鉄道を1マイル建設するごとに、無償期限30年間、年利6%、額面1000ドルの国債16口を無償で提供した。
1869年にはオハマとサクラメントを結ぶ最初の大陸横断鉄道が開通、西部の鉄道建設は急ピッチで進んだ。鉄道は総合産業であり、多くの鉄鋼、機械が必要だった。アメリカの工業生産は南北戦争後の30年間でイギリスをぬき、アメリカは世界一の工業国になった。ヨーロッパからの4000万人に及ぶ移民の流入、不況にあえぐヨーロッパからの資本流入がそれを支えた。
国庫補助により政府主導の鉄道建設が牽引する経済成長は、政治家の腐敗を招いた。この時代は、政治家のみならず牧師にいたるまでの階層が金に踊った金メッキ時代(金ピカ時代)とされる。不況のヨーロッパを尻目に、狂乱の経済成長がなされたのである。
ーーーーーーーーーーー
イギリスがアヘンを中国に売って儲け味をしめたから、こんどは余った紅茶を植民地アメリカに売ろうとして反発をかいアメリカ独立戦争になってしまった。
誰だって高い紅茶をおしつけられたら怒る。
ヨーロッパからの移民を引き受け発展していったアメリカ
しかし、西部への鉄道建設には中国からの苦力のような犠牲的移民労働者があったことを忘れてはならない。
彼らは正式な移民もあったが多くは生死をかけた密航による者だったという。
孫文の妻となった宋慶齢をはじめとする、いわゆる宋家の三人姉妹の父親もそんなアメリカ密航者の一人だった。
一旗あげる夢にとりつかれアメリカに渡たる中国人はその後もあとをたたなかった。
こうした移民の中国人労働者が本国からもちこんだインフルエンザが、第一次世界大戦のアメリカ兵士を通じてヨーロッパに伝わり、スペイン風邪となったという。
[No.16019]
Re: 宮崎正勝:読んだら話したくなる世界史
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/02(Tue) 20:16
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> 楽しく勉強できる世界史
大航海時代を切りひらいたのは実はアラブ系の漁船?
大航海時代は、地中海と大西洋、アフリカとヨーロッパの十字路に位置するポルトガルから始まった。
ポルトガル文化は、イスラム文化をたくみに取り入れた国際性をもっていた。
エンリケ航海王子の時代の王宮はイスラム建築そのものであり、ポルトガル固有の青タイルの装飾(アズレージョ)も、イスラムの細密画を施したタイルを下敷きにしている。
エンリケ航海王子は、西スーダンでの黄金貿易をめざしてアフリカ西岸の探検事業をはじめた。
しかし、この探検事業には一年を通じて北風が強いモロッコ南部を航海しなければならないという大問題があった。
つまり逆風をついて北に航海しなければ、ポルトガルに戻れなかったのである。
そこでエンリケ航海王子は、逆風でも前進できるイスラム系の三角帆に注目した。
それが、アラブ系漁民の漁船を改良した「カラベル船」だった。
カラベル船がなければ、大航海時代はなかったのである。
クロワッサンとウインナ・コーヒーの起源は同じ
1863年にオスマントルコ帝国の30万人の軍隊が3ヶ月ウィーンを包囲したが、結局遠征は失敗した。
この戦争の際に、早起きのパン屋が危機を救った。
トルコ軍が爆薬を仕掛けるための地下道を掘り進めているのを聞きつけて通報し、ことなきを得たのである。
その功績で、パン屋は戦後にトルコ軍旗のデザインされている三日月をしたパン(クロワッサン)を焼くことを特別に許された。
これは「トルコを食べてしまう」ということでクロワッサンはウィーンで大流行した。
クロワッサンは、後にマリー・アントワネットがルイ16世に嫁いだときパリに伝えられた。
この戦争の際に伝令となったトルコの言葉に詳しいコルシツキーは、勇敢にトルコ軍の兵士になりすまして敵陣を突破し、ポーランド援軍との間を数回往復して勝利に貢献した。
トルコ軍は、ポーランド軍が援軍に駆けつけると、あわただしく逃げ去った。
あとには食用の牛1万頭、穀物10万ブッシェル、そして大量のコーヒー豆が残された。
コーヒーはもともとイスラム世界の飲み物だったが、誰もコーヒー豆の利用法がわからず、ほしがる者はいなかった。
そこでトルコ文化に通じていたコルシツキーは「誰も使わないのなら、この袋に詰まったものを私にお与えください」と申し出て、コーヒー豆と邸宅を獲得した。
彼は邸宅をコーヒーハウスに改装して、濃いめのコーヒーの上にホイップクリームをのせる独特の飲みやすいコーヒーを「栄光のコーヒー」として売り出し、大評判を呼んだ。
「栄光のコーヒー」は伊達者の馬車の御者たちが愛好するようになり「アインシュペナー」(一頭立ての馬車の意味)と呼ばれるようになり、ウィンナ・コーヒーのはしりとなった。
ーーーーー
アルハンブラ宮殿のように
スペインやポルトガルはイスラム文化の影響を受け
拒絶反応も少なくなかったのだろうか。
風上に向かって帆船を航行させるのは
間切りというらしい。
これを物理学的に説明するのは、なかなかむずかしい。
[No.16018]
「くよくよするな」といわれても
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/02(Tue) 14:43
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北西憲二:「くよくよするな」といわれても...くよくよしてしまう人のために
著者は成増厚生病院副院長・森田療法研究所所長
完全主義をやめると楽になる。
無理に「いい関係をつくらなければならない」と考える必要はない。
同年代の人は、ライバルがいたっていい、少しくらい仲の悪い仲間がいたって一向にかまわない。
それなのに「いい友だちでいよう」とか「同期なんだから仲よくしなくてはいけない」という思いこみを持ってしまうために、かえってギクシャクしてくる。
職場での人間関係にも同じようなことがいえる。
いやな上司でもきらってはいけないとか、いやだと思う自分が未熟なんだ、と思いこんで、自分の自然な感情を否定しようとすると、人間関係がますますむずかしくなっていく。
いやな人、きらいな人がいても、それでいい。まず、自分のその気持ちを認めることが大事である。
いやな人とでも一緒にやらなければいけないときは、「いやな奴だな」と思いながらつきあえばいいのである。
夫婦に限らず、上手に人づきあいをしていくためには、相手との距離感を的確に把握することが大切である。
しかし、二人だけでいるときは、相手との距離感を測ることが大変むずかしいものである。
互いが孤独を感じているからといって、その二人の間が遠いのか近いのか、どのくらいの距離なのかは、当人たちだけではわからないのである。
こういうとき、この距離を測るには、もう一人の、別の誰かが加わることが必要である。
第三者が加わって、三角形になるとその距離を測ることができるのである。
二人に加わるもう一人は、共通の友人でもいいし、相談役みたいな人でもかまわない。
二人の近くにそういう人がいれば、二人の距離感を保つことができる。
二人の関係がぴったりと閉じられていて、誰も入られないような関係だと、恋人どうしでも距離が取れず、破綻する。
恋人どうしの関係に限らず、友人関係でも、二人だけでくっついているといずれうまくいかなくなってしまう。
このことは、恋人どうしの関係だけでなく、あらゆる人間関係の原則である。
たとえば、友だちどうし三人、四人とグループで緩やかにつきあうほうが、長く関係を続けていくことができる。
このほうが、お互いが少しずつ不満を持ちながら、うまくそれを解消することができる。
なぜなら、どんなに仲のよい恋人や友人でも、相手にまったく不満がない、ということはありえないのだから。
夫婦の間でもよく、「子どもができて、ギスギスしていた二人の関係が変わった」ということがある。
それは夫婦二人のほかに、子どもという第三者が入ることで、それまでの緊迫した状況が変化した、ということである。
自殺の危険があるほど深刻でないにしても、友だちが何か悩んでいるときには、自分が一緒に不安に感じたり、単なる同情から「かわいそうだね」といっても何の意味もない。
とりあえずは、ゆっくりと話を聞くという態度で、その人が話したくなったら、いつでも話せるような雰囲気をつくっておくことである。
「あなたがその気になったら、こちらはいつでもいいですよ」という用意をしておくことが大切である。
いいやすいような雰囲気をつくってあげて、もし相手が話し始めたら、とにかく聞くことに専念する。
聞いているときには、自分の予測や推測、思い入れを一切差しはさまないのが原則である。
「そうなのだよ」とか「それはないだろう」などとこちらの判断を差しはさんで話がとぎれてしまうと、本人は何を話しているのかわからなくなって混乱してしまったり、それによってますます傷ついてしまうことがあるからだ。
本人は思いきって何かを打ち明けているわけだから、とりあえずは独断を入れずに聞くことに徹することである。
まして同情などされたなら、なおさら傷ついてしまう。
同情と共感、同情と理解というのはまったく違うものである。
同情というのは、人を見下ろす態度で、相手を憐れむ感情である。
同情されて、ひとつ高いところから「かわいそうだね」という言葉や涙
もらったところで、本人は気持ちよくはならないだろう。
まずは、ひたすら相手の話を聞くということが一番である。
そして相手の感情をともに感じ、理解することである。
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森田療法はあるがままを受け入れる療法である。
西洋医学は異物を取り去ることが方法だが、
場合いによっては自分自身の中に苦しめるものがある場合
それをどうしても取り去ることが困難なら、それを取り去ることはあきらめて、
それの存在を認めながら
なんとか生きる手だてを考えることだろう。
[No.16015]
古事記に日本平はなかった
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/01(Mon) 17:36
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金沢の全国オフの帰りに静岡に立ち寄り
日本平から久能山にロープウェイで上って東照宮を見てきたのですが
どうして日本平という名前が付いたのかを聞いたら
ガイドの方が
古事記のヤマトタケルノ命の冒険の話から
と教えてくれました。
あまりに有名だからポイントだけ整理すると以下のようになります。
ヤマトタケルノ命は
父親の垂仁天皇から九州の南の熊曽退治を命ぜられ
無事任務を終えて帰ってくると
休む暇もなく今度は
東国の言うことを聞かない者たちを征伐するように命ぜられます。
伊勢の大神宮でおばのヤマト姫から草薙の剣をもらいます。
ヤマトタケルノ命が相模に着いたとき
騙されて野原に誘われ回りから火をつけられます。
彼はおばのヤマト姫からもらった剣で草をかり取って
これまたおばからもらった袋の中の火打ち石で草に火を付け
火の向きを変えることに成功し悪者たちを征伐することに成功します。
その草薙の剣を奉納したというのが草薙神社
近くにはJRの草薙駅があります。
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/kusanaji/kusanagi.htm
また
ヤマトタケルノ命は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。
この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
ということですが、これは古事記の原本にはないようです。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/yamatotakeru/yamatotakeru.htm
それから
ヤマトタケルノ命は
罠に陥れようとした悪者たちを斬り殺して焼いた。
この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている。
そうガイドさんは説明してくれましたが
日本平と焼津は離れていますね。
日本平と草薙神社はたしかに近いです。
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