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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 53

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 53

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/5 6:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだひさこ)その4

 ここまで火が追ってくる気配はなく、頭上の爆音も少しずつ遠のいて気持も落ちついてきて家の事など気になった。空が白みはじめて警報も解除されると周りの人達は三々五々自分の家へと帰っていった。洋子が家を見てくると云ったがここを動かない方がよいからと押しとめて四人で待つ事にした。

 最後まで残ったのは二家族だった。すっかり明るくなった頃すゝけた顔で母と叔母がリュックを背負い地下足袋で探してきてくれた。この給水場にはもう入れなかったので石垣にぴったり体をつけてうずくまっていたとの事。家のあった一画は跡形もなく水道道路の向かい側の石塀の中の畠に、布団包みとリュックをおいて疲れた顔の父がいた。他に五、六人の知らない人たちもいたが、家の焼け落ちるのをここで見ていたそうだ。家の焼け跡はまだくすぶっている中でキャビネットが焼けて中のレコードが横倒しになだれて灰が白い輪になっていた。まだ片付けずに飾ってあった正昭の等身大の鎧兜は焼けたのに、その脇に刀が落ちていたのを見過ごすことができずに持ってきた。焼け跡の整理をして午後避難した道を根津山の方へ歩いてみたら純子の運動靴があまり汚れもせずに転がっていた。拾って帰りしばらくはそのまゝ履いた。あれだけの火の中をくぐってきたのに、誰も怪我をしなかったのは幸いだったと思う。

 京王線と並行している甲州街道に行ってみたが、新宿から八王子まで焼夷弾を落としていったようで土蔵と銭湯の煙突だけが目について一望千里だった。壕の中の鍋、釜、芋やコウリャンなどの入った米櫓を堀出して何とか食事はできた。焼け跡にバラックを建てた人もいたが、私たちは和泉町の知人宅の一部屋を借りた。

 二日後、まだ電車も動かなかったので父と二人で歩いて青山に行った。東横デパートの裏の渋谷川に木片と共に女の人が二人俯せに浮いていた。火に追われて飛込んだのだろうか。途中常磐松町の母校に寄ってみた。木造校舎だったので跡形もなく、校庭の水飲み場の水が出っ放しだった。その焼け跡で家族を疎開させて自分だけ特別教室で寝泊まりしていらした先生と会い、二言三言話しただけで別れた。

 それから、青山の家までどこをどう歩いたのか、思い出そうとしても中々はっきりしない。ショックが強かったのだろう。五丁目の家の壕は部屋の下に、住めるほど頑丈に作ってもらったのだが、トタンや土をかぶせる余裕もなかったようで完全に焼けおちていた。

 その後父が仙台に転勤となり、住む筈だった仙台の家も空襲に遭い、家族は福島の現場の宿舎に住む事として、わずか残った荷物を八月十五日午前十一時に渋谷駅で貨車に載せ、帰宅してあの玉音放送を聞いた。そのまま数年間は仙台と福島の二重生活を余儀なくされ、私は東京の専門学校の入学式は出席したものの翌年三月、止むなく退学した。父と私は二十五年に上京したが家族全員で暮らせるようになったのは二十九年春だった。

 五月二十五日、父の勤務先も、私達の通った女学校も青南も、住みなれた青山の家も、松原の家もすべて同じ日に焼けた。病気勝ちで寝床でよく絵を画いていた純子が、紙一枚鉛筆一本なくなって何もできなくなり「空襲ってつまらないね」と云ったのを今も強く印象に残っている。カメラ好きだった父が折ある毎に掘りためてアルバムを作っていてくれたのにすべて灰になった。頭の中に留めていた記憶も最近は想い出と共に薄れてきてさびしく思う。

 現在両親、妹二人は亡くなり、正昭と二人になり、こんなに長生きするとは思っていなかったが、今は戦争中の話は折ある毎に若い人達にするようにしている。平和な日本だからこそ戦争を知らない世代へ伝えてゆかねばとの思いはひとしおである。
                                 
 (世田谷区松原町一丁目)

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