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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 55

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 55

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/9 6:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦災の記録 YF  その2

 朝になって麻布山の墓丘に戻ってきた時は、もう家のあたりはすっかり焼け落ちてくすぶっていました。我が家の墓(光善寺の開基明藝之墓)の前で一休みした時、正面に増上寺の五重塔が真っ赤になって焼けていました。しばらくたってから恐る恐る焼け跡に降りて行く途中、焼死した方一人を見ました。焼け跡で弟とめぐり合い、無事でいたことにほっとしました。門の所には消防のホースが蛇のように長々と延びていました。消防自動車はとっくに逃げてしまったのでしょう。弟は麻布山の中からやはり有楢川公園へ逃げたそうで、途中で焼死した方数人を見たそうです。私より三歳年下ですからどんなに怖かったことでしょう。三人共ともかく生き延びられ一安心しました。

 仙台坂の途中まで焼け、坂の上は焼けませんでした。家の敷地、墓地約三百坪ほどの所に油脂焼夷弾六十数発落ちていました。直撃にあたらなかったことで命びろいをしました。今晩から空襲で焼ける心配がないとほっとしたものです。庭の防空壕は蒸し焼きになってしまって、一斗缶に入れてあったお米は真ん中まで黄色く焦げ、お砂糖は黒いカルメ焼きのようになってしまいました。何冊もあった本のあたりも、真っ黒な中に灰色の地に白く字が浮いて見えました。善正寺の防空壕は庭の斜面に建ててありました。二畳ほどの所に担ぎ出したふとんを敷いて大人四人互い違いに寝ました。

 ひとまず高岡の疎開先に身を寄せました。高岡へ行くのもやっとのことで、途中柏崎で一泊しました。その頃はもう食料に困っていました。私は弟を残し一週間ほどで東京に戻りました。それからは乞食のような生活、焼け残った光善寺の石塀(大谷石)にトタンをさしかけ、床には知合いから頂いた畳八枚を四枚ずつ敷いて牢名主のような有様、そんな中でりんご箱を机代わりに使って勉強をしました。教科書少しとノート数冊は墓の、使っていない「カロート」に入れて助かったのです。

 大分たってから、町会に二軒配給の簡易住宅に当たりました。今のプレハブの走りです。疎開から帰った姉と二人で芝公園へ建材を受け取りに行きました。女などとののしられながら、柱何本、屋根板何枚、窓枠何枚(ガラスなし)、床板何校と集め、大八車に乗せて持ち帰り、近所の器用な方に建てて頂きました。六畳、三畳の板の間と、三畳分の土間でした。隙間だらけで冬、朝寒さに目覚めた時は枕元に雪が積もっていました。すべて焼けて全くの無一物になってしまいました。配給物の証明書など数年前までありましたが、もうみつかりません。十センチはどの小さなきれっぱしのような、新聞紙のような紙でした。

 麻布山善福寺の参道は、少し登りで本堂は小高い位置にあり、本堂前の広場右手に、ハリスの胸像がありました。住職の麻布照海師は戦前イギリス、アメリカへもいらしたことがあり、戦争を危倶していらっしゃいました。本堂前に本格的な防空壕が造られていました。父は照海師と親しくしておりましたが、十九年に病死(母は十二年に没)、弟はまだ未成年でしたので照海師が代務住職をしてくださっていました。その関係で光善寺の本尊阿弥陀如来像、開祖親鸞聖人掛け軸、七高僧掛け軸、過去帳など重要なものを防空壕に預かってくださいました。焼失を免れ戦後、光善寺本堂を再建し、寺を復興することができました。

 六十五年後の今、何と多くの物に囲まれていることでしょう。去年八月、今の老人ホームに移り住みました。自宅に比べると約十分の一、狭い一室で必要最小限のものを持って入居しました。戦災にあった時のことを考えれば贅沢に思われます。シンプルライフを心がけなければと思いながら、少しずつ(電話、パソコンなど)運び込んでいるこの頃です。思いもかけず、この歳になって「戦災の記録」を書くことになりました。はっきりした日記などもなく調べることも出来ませんので覚えていることを書き連ねました。
 
 麻布山略図

 5月25日の空襲で善福寺本堂を含め寺院は焼失した。天然記念物の逆さ銀杏はその後芽を吹き、よみがえった。ハリス記念碑は、戦争中縄でゆわえられ、土で回りを固めてあったが、戦後復活されたという。




 (麻布区山元町)

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