@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/12 6:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦後六十五年、我が町 南中野
 斎藤 百合子(さいとう ゆりこ)その2

 そして昭和二十年五月二十五日午後十一時、東京西部の空襲です。B29が何百機来襲したのでしょうか。焼夷弾が庭土に突き刺さり、家の天井を破って畳の上で火を噴きました。
 私たち家族も夢中で消火に当たり、どうにかやっとの思いで消火して、出したい荷物を家の前の畑に持ち出しました。私も姉と一緒にミシンや本を持ち出し、僅かばかりの食料を壕に入れたりしました。

 母は、まだこの辺の地理に詳しくない私たち姉弟三人を気遣って、家は父にまかせ、近くの多田神社の境内に避難しました。持ち物は何を持ち出したのか憶えていません。多くの人が集まっていましたが、私たち家族四人も一所に固まっていました。

 空には真っ赤な火煙が流れ、爆音が響き恐ろしい光景でした。幸い神社の周りの民家は焼け残りました。やっと夜が明け米軍機も引き上げて、私たちもまた、我が家に帰りましたが、家は柱一本も残さず燻(くすぶ)っていました。私たちが避難した後、父も頑張って消火したのですが、天井裏に落ちた焼夷弾が燃え広がったようでした。家の前の畑に出した荷物にも火がついて、風にあおられた写真が数十枚飛び散っていました。私の幼い頃の写真だったので角かどが焼け焦げていましたが、拾って大切に保管しました。庭の防空壕の中の物は残っていたので、大事な米を取り出し、井戸水でご飯を炊き食事をしました。その後、何日聞かは何を食べたか憶えていません。出征していた兄が近衛兵で赤坂離宮(現迎賓館)にいたので、外出が許されて自宅の様子を見に来ました。

 それから多田小学校の校庭に軍隊が来て「炊き出し」があったのを記憶しています。家を失って畳二畳ぐらいの防空壕の中で親子が足を交互にして、両方の入り口を頭にして、重なるようにして寝ました。十日位後に立木や焼けトタンを拾い集めて来て、父が「バラック小屋」を建てました(写真参照)。材料も何一つ残っていず、道具もないのに、その上工具も持ったこともない父や母は、本当に大変だったことでしょう。

 私はそのバラック小屋から亀戸の三菱製鋼に終戦の日まで通いました。戦後、学校の授業も再開されました。我が家のバラックには、昭和二十一年秋頃まで住んだ記憶があります。

 私の空襲体験などは沖縄戦、原爆に比べたら、体験を語るほどの事ではありません。この戦争には何千倍の辛酸を味わった人が多くいます。戦争は絶対にあってはなりません。全世界の平和を祈るばかりです。

 二千十年十月二十八日記





 (中野区新山通)

  条件検索へ