続 表参道が燃えた日 (抜粋) 30
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続 表参道が燃えた日 (抜粋) (編集者, 2011/8/14 16:11)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 2 (編集者, 2011/8/15 7:36)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 3 (編集者, 2011/8/16 6:39)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 4 (編集者, 2011/8/17 7:25)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 10 (編集者, 2011/8/23 6:50)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 11 (編集者, 2011/8/24 8:50)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 12 (編集者, 2011/8/25 8:53)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 13 (編集者, 2011/8/26 6:43)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 14 (編集者, 2011/8/27 6:32)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 17 (編集者, 2011/8/30 9:03)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 18 (編集者, 2011/8/31 7:53)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 49 (編集者, 2011/10/1 7:36)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 50 (編集者, 2011/10/2 9:50)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 51 (編集者, 2011/10/3 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 52 (編集者, 2011/10/4 7:48)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 53 (編集者, 2011/10/5 6:48)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 54 (編集者, 2011/10/8 7:38)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 55 (編集者, 2011/10/9 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 56 (編集者, 2011/10/10 7:13)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57 (編集者, 2011/10/11 7:45)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58 (編集者, 2011/10/12 6:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59 (編集者, 2011/10/13 6:59)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 60 (編集者, 2011/10/14 6:38)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61 (編集者, 2011/10/15 7:37)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録 1 (編集者, 2011/10/16 9:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録2 (編集者, 2011/10/17 7:28)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録3 (編集者, 2011/10/18 7:01)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4 (編集者, 2011/10/19 6:34)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5 (編集者, 2011/10/20 7:21)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6 (編集者, 2011/10/21 11:32)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7 (編集者, 2011/10/22 7:49)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録8 (編集者, 2011/10/23 7:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録9 (編集者, 2011/10/24 6:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録10 (編集者, 2011/10/25 6:43)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録11 (編集者, 2011/10/26 7:07)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録12 (編集者, 2011/10/27 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録13 (編集者, 2011/10/28 7:26)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録14 (編集者, 2011/10/29 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 編集後記 (編集者, 2011/10/30 7:04)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
それは五月二十五日に!
平瀬 庸(ひらせ いさお)
昭和二十一年五月、私はシンガポールより復員船になった練習艦「鹿島」で広島の大竹港に向かっていた。艦内の中甲板には白墨で東京空襲の被害図が書き出され、渋谷区辺りは、斜線で被害にあった事が書き出されていた。
大竹から東京へ、列車は当時二十四時間かかった。途中広島駅で一時間近く停車。市内は無惨にも焼け出され、原爆ドームを見渡せた。翌朝列車を新橋で降り、地下鉄に乗って青山四丁目で降りた。地上に出ると見覚えのある電話局の建物は残っていたが、周囲は焼け野原……。原宿二丁目に向かうが、焼野原の中にバラックがボツポッと建っていた。交番の横の坂を下ると、大谷石のお蔵、コンクリートの塀は残っており、穏原小学校の角を曲った。アンドレーの家の塀はそのまま残っており、我が家へ向かう。道路からの敷石は昔のまま残っているが、中に入ると勿論何もない。二度三度と行きつ戻りつゝしていると、井戸の脇の小屋より顔を出してくれたのが隣の奥さん。そこで、母と妹が熊野神社の近くで亡くなったこと、そして残っていた兄の疎開先を教えてくれた。
兄の話では、母と妹は、ご近所の方といっしょに、熊野神社から四聯隊の裏門から隊内を通って外苑に抜けるつもりだったが、裏門の番兵が頑として門を開けてくれず、止むを得ず熊野神社より玉屋工場に向かう途中で倒れてしまったとのこと。兄は母と妹を探しに出て、漸く探す事ができた。遺体に名前をはっきりと付け、消防の方にお願いして茶毘(だび)にしていただいたということであった。
兄といっしょに、その後現場に行ってみたところ、現場のコンクリートブロックには、はっきりと二人の赤くなった焼け跡が残っていた。遺骨は長安寺に納められたが、まだ当時は、ブリキの蓋で囲まれた中に納められた骨壷は、二人を一つの壷に納め、その蓋からは、母が着ていたラシャの布地が垂れていた。
兄より聞いた話。コンクリートブロックの赤くこげた焼け跡、骨壷の蓋より垂れさがったブラウスの布地を見て、漸く母、妹が亡くなったこと、今まで信じられなかったことが真実であることを納得せざるを得なかったという。父は、当日大阪に出張していて留守であった。
東京大空襲のあった昭和二十年五月二十五日、私はマレー半島のゴム園の会社に勤めていた。
当日は給料の支払い日。私はアロガジヤの分遣所よりマラッカの本部にモーターサイクルで給料の受取りに出かけた。毎月この目は分遣所長が乗用車で行くのだが、他の急用で出かけることになり、私が代わりに行くことになった。ゴム園現地従業員数百人の分となると麻袋に一杯となる。モーターサイクルの荷台にくくりつけ、分遣所には電話でこれから帰る旨連絡をして出発した。約三十分で到着する行程である。ところが、マラッカの市内から出て間もなく、モーターサイクルのエンジンが急に止まってしまった。治安のよいマラッカでも、荷物が荷物なので心配である。
修理の工具は生憎(あいにく)と持っていなかった。モーターサイクルを押してカンポンの中まで入ったものの電話もなく困り果ててしまった。三十分ほどしたらエンジンがかかり無事に帰ることができた。分遣所のスタッフも心配していたが、当時は連絡の方法もその他の事など一切ない。漸く事なきを得た。これが五月二十五日をはっきり覚えている出来事であった。
その後六月十日に現地入隊し、翌二十一年六月に復員。日本橋の本社に挨拶に行ったところ、先に引揚げていた先輩から、五月末に本社からマラッカには電報で「母、妹」の死を知らされていたという事を聞いたが、入営の直前だったので私には伝えてはくれなかった。
(渋谷区原宿二丁目)
平瀬 庸(ひらせ いさお)
昭和二十一年五月、私はシンガポールより復員船になった練習艦「鹿島」で広島の大竹港に向かっていた。艦内の中甲板には白墨で東京空襲の被害図が書き出され、渋谷区辺りは、斜線で被害にあった事が書き出されていた。
大竹から東京へ、列車は当時二十四時間かかった。途中広島駅で一時間近く停車。市内は無惨にも焼け出され、原爆ドームを見渡せた。翌朝列車を新橋で降り、地下鉄に乗って青山四丁目で降りた。地上に出ると見覚えのある電話局の建物は残っていたが、周囲は焼け野原……。原宿二丁目に向かうが、焼野原の中にバラックがボツポッと建っていた。交番の横の坂を下ると、大谷石のお蔵、コンクリートの塀は残っており、穏原小学校の角を曲った。アンドレーの家の塀はそのまま残っており、我が家へ向かう。道路からの敷石は昔のまま残っているが、中に入ると勿論何もない。二度三度と行きつ戻りつゝしていると、井戸の脇の小屋より顔を出してくれたのが隣の奥さん。そこで、母と妹が熊野神社の近くで亡くなったこと、そして残っていた兄の疎開先を教えてくれた。
兄の話では、母と妹は、ご近所の方といっしょに、熊野神社から四聯隊の裏門から隊内を通って外苑に抜けるつもりだったが、裏門の番兵が頑として門を開けてくれず、止むを得ず熊野神社より玉屋工場に向かう途中で倒れてしまったとのこと。兄は母と妹を探しに出て、漸く探す事ができた。遺体に名前をはっきりと付け、消防の方にお願いして茶毘(だび)にしていただいたということであった。
兄といっしょに、その後現場に行ってみたところ、現場のコンクリートブロックには、はっきりと二人の赤くなった焼け跡が残っていた。遺骨は長安寺に納められたが、まだ当時は、ブリキの蓋で囲まれた中に納められた骨壷は、二人を一つの壷に納め、その蓋からは、母が着ていたラシャの布地が垂れていた。
兄より聞いた話。コンクリートブロックの赤くこげた焼け跡、骨壷の蓋より垂れさがったブラウスの布地を見て、漸く母、妹が亡くなったこと、今まで信じられなかったことが真実であることを納得せざるを得なかったという。父は、当日大阪に出張していて留守であった。
東京大空襲のあった昭和二十年五月二十五日、私はマレー半島のゴム園の会社に勤めていた。
当日は給料の支払い日。私はアロガジヤの分遣所よりマラッカの本部にモーターサイクルで給料の受取りに出かけた。毎月この目は分遣所長が乗用車で行くのだが、他の急用で出かけることになり、私が代わりに行くことになった。ゴム園現地従業員数百人の分となると麻袋に一杯となる。モーターサイクルの荷台にくくりつけ、分遣所には電話でこれから帰る旨連絡をして出発した。約三十分で到着する行程である。ところが、マラッカの市内から出て間もなく、モーターサイクルのエンジンが急に止まってしまった。治安のよいマラッカでも、荷物が荷物なので心配である。
修理の工具は生憎(あいにく)と持っていなかった。モーターサイクルを押してカンポンの中まで入ったものの電話もなく困り果ててしまった。三十分ほどしたらエンジンがかかり無事に帰ることができた。分遣所のスタッフも心配していたが、当時は連絡の方法もその他の事など一切ない。漸く事なきを得た。これが五月二十五日をはっきり覚えている出来事であった。
その後六月十日に現地入隊し、翌二十一年六月に復員。日本橋の本社に挨拶に行ったところ、先に引揚げていた先輩から、五月末に本社からマラッカには電報で「母、妹」の死を知らされていたという事を聞いたが、入営の直前だったので私には伝えてはくれなかった。
(渋谷区原宿二丁目)