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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/10/20 7:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 米軍の「作戦任務報告書」

 五月二十五日の前日二十四日にも、二十五日を上回る大規模な空襲があった。この頃は空襲が続いたため体験者は日を混同されることが多い。二十四日の午前一時〇五分警戒警報発令、東京南部地域を中心に目黒、麻布、赤坂、渋谷など山の手地域が焼夷弾攻撃を受けた。被害は中央官庁、各区役所、学校なども多く、慶応病院、高輪泉岳寺、イタリー大使館、フランス大使館も被災した。B29が八機撃墜 (警視庁警備総第一七六号) されたのもこの日である。

 解禁となった超機密文書の「作戦任務報告書」はマリアナ基地第二一爆撃機集団司令部(司令官カーチス・E・ルメイ)と第二〇航空軍司令部の報告書で、空襲作戦技術書である。この中で東京市街地最後の攻撃計画は、残存している市街地に対して間を置かずに連続して行うというものであった。その第一撃が二十四日の空襲である。そして四十五時間後の二十五日午後十時、第二撃を受けることになる。連続的な大空襲は人心にも衝撃を与えたし、それもまた目的だったかもしれない。

 作戦任務報告書では攻撃の照準点をきめているが、航空写真で示された二十五日の目撃地区は不鮮明だが、都心の東京駅から南へ京橋区内と、芝公園近く、赤坂区・渋谷区、麻布・赤坂の溢谷寄りの四点になっている。実際には第一の標的の中心部だけではなく、山の手地域、西部へと大きく拡がった。同報告書は二十四日、二十五日の空襲を一つの報告にまとめており、両方の焼夷面積を二二、一平方マイルとしている。この面積は三月十日の時の面積を上回って最大である。

 米軍は二十五日の空襲によって東京を大規模空襲のリストからはずした。まさに仕上げの大空襲であり、とどめの空襲であった。





 左の写真は五月二十七日付「共同新聞」(新聞社の焼失により発刊されたもの)。空襲の惨状について、大本営発表をそのまま掲載している。被害は詳細が伏せられ、戦果を誇大に、そして皇室、宮城の状況にふれるというパターンができていた(「東京大空襲」一九八五年二月朝日新聞社刊より)。
 当時、夕刊は発行されなかった。

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