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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 46

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 46

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/28 7:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その5






 戦後六十五年、人間の一生ほどの時が過ぎたが、あの空襲の時の思い出は今も昨日の事のように鮮明である。あの時代は、一分違えば、一メートル違っていれば死んでいても不思議ではなかった。私の家族は四人とも体の動きの良い年齢であり、無意識の中に走った道筋と、通過したタイミングが良かったので無事であったとしか言いようがない。先に避難した祖母も、六十二歳でまだ体力があり、越前松平家の御家中の出身で怜悧な人だったので、無事に難を避けることが出来たのだと思う。青山御所の空濠の中で大勢の方が亡くなったことを知り、今更ながら驚いている。祖母と途中で別れた隣家の御家族三人はとうとう行方がわからなかったという。
 赤坂見附の焼け跡で目にした悲惨な姿、ただよう空気の異様な匂いはとても書きあらわすことは出来ない。私の主人は中学校の勤労動員で飛行機工場で作業中爆弾の直撃を受け、二十一人の同級生の中、十八人を失った。その時の光景はとても筆にする事は出来ない、しかし忘れられない、忘れてはいけない事だと言っている。

 空襲前の赤坂は平和で秩序のある町であった。高級住宅地といわれて宮様の御所も多く、夕方など散歩に出られる官様のお忍びのお姿が見られる時もあったという。大きなお邸や近衛連隊があって、一ツ木通りには親しみやすい商店が連なり、三味線の音の聞こえる粋な花柳界もあり、本当に落ち着いた町だった。それが僅か数時間ですべて失われて多くの犠牲者を出した。渋谷から赤坂、新橋、銀座まで一望の焼野原となったのである。焦土と化した赤坂見附から見る西の空には箱根、愛鷹(あしたか)の連山を従えた富士山の麗姿が望まれた。

 焼け跡の防空壕の中で生活し、焼けトタンと焼けこげ赤坂の空襲た植木の幹で仮小屋を作って、ドラム缶のお風呂に入り、焼けた電線を伸ばして電気を引き…という生活から始まって今日の隆盛な町の姿になった。「赤坂にお住まいですか?」と羨望の目で見られる時もあるけれど、私達の意識の根底にあるのは、あの空襲で一夜にして失われた赤坂の生活である。

 そして戦後の百八十度価値観の変わった変転極まりない時代を私達は過ごして来た。私達の生きた八十年は、二百年にも三百年にも匹敵する変化の年代であったといえよう。この時代を生き抜いて来た私達の世代は、何事も自らの目で見て判断し、たしかな自らの考えを持つ、そして互いに相手を尊重する、という柔軟な、確固とした姿勢を身につけた。私達は、私達の世代しか知らない数々の事実、私達の見たもの、経験したものを、しっかりと次代に伝えなければならない最後の年代として重い責任があることが痛感される。

 平成二十二年記

 (赤坂区一ツ木町)

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