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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 29

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 29

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/11 8:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 空が赤く燃えた日
 栂野 春野(とがの はるの)その2

 とうとう私達はどこかの兵営の前の土手の下まで逃げてきた。でも兵営のアチコチには銃を持った兵隊が立っていて、一歩も中へ入れてくれる様子もない。その土手の下に、五十センチくらいの水のないドブがあった。そこにできるだけ身体を小さくして、目の前の赤土の広場の向こうから、焼けただれたトタン板がものすごい勢いで飛んで来るのを防がねばならない。もうこれで私達は終わりか、こんな所で死ぬのかと思った時、ふと見上げた空、にぷい赤土色にどんよりと重くたれ下がっていた。いやいやどんなことがあっても、生きのびなければ、こんな所で死んでたまるものか、と私は思った。

 その時「おーい土手を上がってもいいぞ」と大きな男の人の声が聞こえた。まるで地獄で会った仏とは、こんなことをいうのではないだろうか。私達は救われた思いで、必死になって、赤く乾いた芝をにぎりしめ、上へ上へとのぼった。その時兵営もだいぶ燃えはじめていたようで、あんなに頑張っていた兵隊の姿は見られなかった。そこから神宮外苑へと逃げ、やっと青々とした緑の森を見た時、ああ、私達は助かったのだと感じた。一人、二人、あちらから、こちらから、やっとたどり着いた人びと、しめった土の香りを喚ぎ、足を伸ばし、ゴロリと横になる。綿のように疲れた。

 東の空がだんだんと明けてくる。誰いうとなく、点呼があちこちではじまった。私達の隣組でも、何人かの人が抜けているようだ。朝になり、帰る所もない人びとは、各自まだぶすぶすとくすぶっている焼け跡に足を運ばねばならなかった。今しがたまで、あんなに立ち並んでいた家並み、なにもかも焼け落ちて、焼け野原の中に焼けた大きな木が、ぶきみに立っていた。

 我が家の焼け残ったコンクリートのへいの前にきた時、その門の内側に四十八発入りの焼夷弾の大きなカラが、真赤に焼けただれて落ちていた。防空壕ももしや火が入ったのではと不安な気持ちで、みんなは無言で土をどかした。幸いなことに無事であった。主人と私はどうしたことか、煙と火勢に目をやられ、まぶたがはれ、目が痛くて、開けられず、つぶれるのではないかと思った。

 近所のかたが、表通りの焼けビルに 「赤十字奉仕団が来ている」 と教えてくれたので、早速、主人と共に表参道に向かった。明治神宮表参道の両側に規則正しく防空壕がだいぶ掘ってあり、当時、風上となったので、沢山の人が表参道目がけて逃げ、この防空壕でずいぶんと亡くなられたそうだ。ちょうどその時もトラックがきて、まるで真っ黒になったロウ人形のような人びとの遺体を、ボンボンと乗せて行くのをぼんやりと見ていた。樺並木も真赤に焼け、あちこちに焼けただれた自転車がころがっていた。

 現在、表参道ヒルズとかシャレタ名前がつき、当世風の若い男女がカツポしている。六十六年前に多くのかたが亡くなられた事を何人の人が知っているでしょうか。戦災碑が立っていますが、半世紀以上過ぎ去った現在、世の中の移り変わりの早さに驚かされ、「日本とアメリカが戦ったんですッテ!」と、若い女の子がマイクに向かって言ったのには唖然としたより悲しくなりました。

 私事ですが、小学校三年の時に五・一五事件、六年の時は二二一六事件、女学校三年の時は日華事変 (後に日中戦争)、女学校を卒業する時は大東亜戦争、昭和二十年八月十五日終戦、まさに戦争に明け戦争に暮れる青春であったと思います。

 昭和二十年三月に結婚、五月に戦災に会い、その後子供三人(一人死亡)を育て、平和はいいもの、戦争がないとはこんなにも安らかなものかと痛切に感じると同時に、息子や娘、孫たち、ひ孫たちの時代に平和が続きますように祈らずにはいられません。

いま、世界の国々がテロに対しておびえています。やられればやりかえす、これではいつまでも
戦争はなくなりません。私たちが住んでいる地球をもっと大事にして欲しい、みんなで大切にし
ましょう。今の私の唯一の願いです。

 (渋谷区原宿二丁目)

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